~その17~ こいつは特別
一臣さんが話し出した。他の人は誰も口を開かず、ダイニングは静かだった。
私はずっと一臣さんの顔を見ていたから、他の人の表情はわからなかった。でも、一臣さんの向こう側にいるユリカさんの緊張している様子だけ伝わってきた。
「たとえ話だからな?たとえば、そうだな。親父か一族の誰かが、お前と俺の結婚を反対するとか、他のご令嬢との結婚話が持ち上がり、お前と結婚できなくなるとするだろ?」
「そ、そんなの」
「いいから、最後まで聞け。たとえ話だって言ってるだろ」
すでに泣きそうになっている私に、静かに一臣さんが言った。
ちょっと考えただけでも嫌だ。聞いているのもつらいよ、そんなたとえ話。
「でも、俺はお前と結婚することを選び、緒方家から追い出されることになる」
「…」
え?私との結婚を選んでくれるの?ほんのちょっと希望が持てた。あ、そうか。これ、たとえ話だったっけ。
「そうすると、さっきユリカに言ったのと同じように、緒方財閥は龍二が継ぐことになって、俺には何一つ残らなくなる。家、車、財産、地位、仕事。何もかもだ。だから、そのへんの町工場で働いてだな」
「それ、この前も聞きました」
私はいきなり、前にもそんな話を一臣さんにされたことを思い出した。銭湯に一緒に行って、コーヒー牛乳を一臣さんは飲んで、ぷは~って言う話。
「……」
一臣さんは片眉をあげた。
「まあ、いいから黙って聞け」
そう一臣さんは小声で言うと、コホンと咳払いをして、
「6畳一間の、トイレも風呂もないところに住むんだ」
と話を続けた。でも、実際に私、住んでいたしなあ。
「だから、近くの銭湯に二人で行く」
「はい」
わあ、嬉しい。
「俺の稼ぎはあまりないから、お前も働くことになる」
「はい」
全然平気!
「パート勤務で、下手したらダブルワークかもな」
「はい」
そんなの、お茶の子さいさい。
「贅沢なんかできないから、服だって買ってやれないだろうし、食べ物だって粗末なものばかりかもな」
「はい」
そんなのも、余裕。慣れているし。
「オンボロのアパート暮らしだ。車も運転手もないから、まあ、せいぜい自転車くらいかな、移動手段は」
「はい」
自転車があれば十分。
「………。そんなだ。お前、どうする?」
「え?」
何が?
「だから、お前と結婚を俺が選んで、緒方家を追い出されて、そんな暮らしをするんだ。どうする?6畳一間っていったら狭いぞ。布団だって一つしかないかもな」
え?一つの布団で一臣さんと寝るの?毎日?
冬は寒いから抱き合って寝るのかもしれない。私はきっと朝早くから起きて、一臣さんのためにお弁当を作るの。そして、一臣さんをいってらっしゃいって送ってから、私も家を出る。パートから帰ってくる間に買い物を済ませ、一臣さんが疲れて帰ってきたら、おかえりなさいって出迎えて。
銭湯は食事のあとかなあ。一緒に寒いねって言いながら、手をつないで銭湯に行くの。
あ…。
「冬なら、鍋がいいです」
「は?」
唐突にそう言うと、一臣さんだけじゃなく、他の人もびっくりして聞き返してきた。
「あの。冬だったら、寒そうだから、鍋がいいかなって。それから、熱燗がいいですよね」
「…熱燗?」
一臣さんが片眉をあげた。
「でも、お酒飲んでからお風呂はダメかなあ。やっぱり、ご飯の前に銭湯に行きます。それで、寒いねって言いながら寄り添って帰ってきてから、鍋と熱燗であったまって、あ。こたつがあったらいいなあ。こたつに二人で入って、鍋をつっつくんです。何鍋が好きですか?やっぱり、水炊き?寄せ鍋?」
「お前、どこに話がすっ飛んでいるんだ?俺とお前がそのアパートで暮らしていて、冬なんだな?設定は」
「はい。冬です。寒い中、寄り添って銭湯っていいだろうなって思って。それに、夜は一つの布団で寝るんですよねっ!?」
「目、輝いたな、今…」
「ちょっと、いいなって」
うっとりとすると、一臣さんは「ははは」と声を上げて笑った。
「何笑っているの?一臣君」
祐さんが呆れたって言う声で、そう聞いてきた。
「だって、面白いだろ?祐さん。弥生には、そんな貧乏暮し、へでもないんだ」
あ、また口が悪いなあ。へでもないなんて言ったりして。
「ユリカ。弥生には、緒方財閥の名前なんて関係ないんだ。な?俺が追い出されたって、お前、俺についてくるんだろ?」
「え?もちろんです。一臣さんさえ嫌がらなかったら」
「嫌がってもついてきそうだな。お前」
「ええ?」
私は顔を青ざめさせた。嫌がられちゃうの?
「あはは!嘘だよ。嫌がるわけないだろ?お前とじゃなきゃ、銭湯に行って、コーヒー牛乳飲んで、ぷは~~ってできないしな」
あ、覚えていたんだ。一臣さん。
「何よ、それ」
また、祐さんが呆れた声を出した。でも、一臣さんは無視して、ユリカさんのほうを向いた。
「弥生は、俺自身に惚れてるんだ。それも、ぞっこんだ」
ぎゃ~~!なんてことを言ってるの?
「俺もだ。弥生が上条グループのご令嬢だからって、結婚するわけじゃないんだ。もし、弥生以外の女と結婚させられることになったら、緒方財閥より、弥生を選ぶぞ」
え?!ほんと?!
「弥生だから、俺の人生は面白おかしくなるんだ。他の女じゃ、きっと楽しめない」
「………」
ユリカさんは黙って私を見た。それから、一臣さんのほうを見ると、
「なんだって、一臣はそんなふうに笑うの?」
と唐突にそう聞いた。
「え?」
「さっきから、嬉しそうに、幸せそうに笑っているけど、そんな笑顔見せたことなかったわ」
「そりゃ、弥生だからだ。弥生がいたら俺は幸せになれるんだよ」
「……」
「ユリカは、カメラマンの腕を認めてくれて、金を出してくれるスポンサーを探したらどうだ?それで、トップを目指して成功しろよ。それがユリカの生き方だろ?それもそれで、いいと思うぞ」
「……私の生き方?」
「ああ。ユリカらしい生き方だ。高校生の俺なんかと付き合っていたのだって、俺自身じゃない。緒方財閥の御曹司っていうブランドに惹かれていたんだろ?」
「……」
「俺が緒方財閥の御曹司じゃなかったら、付き合わなかっただろ?」
「そうね。そうかもしれないわ」
「……いいんじゃないのか?それがユリカの生き方なら、それはそれで。ただ、俺は緒方財閥っていうブランドがあろうがなかろうが、俺のことを一途に愛してくれる弥生に出会っちゃったから、そういう幸せを手に入れたから、もうこの幸せを手放す気にはなれないな」
うそ。今、すっごく嬉しいことを一臣さんは言ってくれた!嬉しくて、涙が出そうだ。目頭が熱いし、鼻の奥が痛いよ。ううん。もうすでに、涙で視界がぼんやりとしている。
「一臣君、本気で弥生ちゃんのこと?」
祐さんがそう聞いた。祐さん、かなりびっくりしているみたいだ。
「…ああ。祐さん、たとえ、祐さんでも弥生を泣かせたり苦しめるようなことをしたら、俺、本気で怒るけど?」
「え?」
「この屋敷の人間も、全員が弥生のことを大事に思っているんだ。特に立川や日野は、弥生つきのメイドだ。祐さんに怒るのも当然だろ?」
「メイドの肩を持つの?」
「肩を持つだの、持たないだのってことじゃない。ユリカをわざわざ連れてきて、弥生を不安がらせた祐さんに、俺は頭に来てるんだよ。すげえよけいなことをしてくれたって」
「だって、あなただって、ユリカのこと引きずって」
「ない!」
一臣さんはきっぱりとそう言った。
「それ、祐さんの勝手な思い込みだ」
「でも、ずっとユリカのプレゼントだった、ロレックスの時計しているじゃない。今でも大事に」
え?時計?
ユリカさんからのプレゼントだったの?!
「ああ。これか。そうだな。いい機会だし、ユリカに返すよ」
一臣さんは腕から時計を外し、ユリカさんに渡そうとした。
「これ、売るなりなんなりしたらどうだ?いくらになるかわかんないけどな」
そう一臣さんが言うと、ユリカさんは眉をしかめ、ただ一臣さんが手に持っている時計を眺めるだけだった。
「捨てられなかったんだ、今まで。ユリカからこの時計をもらった時には、たいしてなんとも思わなかった。ロレックスの時計が高かったのも知ってる。でも、そんだけユリカは稼いでいるんだって、そのくらいにしか思わなかった」
「え?」
ユリカさんはもっと眉をしかめた。
「悪かったな。ユリカにとっては、俺への礼みたいな、そんな気持ちがあったんだろ?」
「そうね。あの頃、服だの宝石だの、一臣に買わせていたから。モデルでだんだんといい給料もらえるようになって、一臣にも何かあげたかったの。でも、一臣だったら、一流のいいものじゃないと似合わないだろうって思ったし、私も、そういう高いものをプレゼントしたかったのよ」
「…うん。簡単に受け取っちまったけど、後悔した。受け取っちゃいけなかったんだろうなってさ」
「なんで?」
「ユリカの気持ちがこもりすぎてて、重たかった。だから、簡単に捨てられずにいた。ユリカ、俺自身が好きだったわけじゃないにしろ、やっぱり俺へのなんらかの思いがあって、これを買ったんだろ?」
「そうね。お礼と…、繋ぎとめておくためもあるかな。他の女とは違うって、そう思わせたかったかもね」
「……そっか。じゃあ、これでようやく、俺はユリカから解放されるし、ユリカも解放されるんじゃないのか?」
「え?」
「時計、返す。俺のことなんかすっぱり忘れて、今度こそ、一人で立って歩けよ。誰にも頼らずに」
ユリカさんはなかなか、時計を受け取ろうとしないでいる。
「そんなに私強いと思う?」
「ああ。いつも一番がいいんだろ?せっかく手に入れた幸せ捨ててまで、日本に帰ってきたのは、カメラマンとして一番になるためだろ?」
「そうよ」
「じゃあ、なってみせろよ。ユリカならできるんじゃないのか?アメリカで、モデルじゃない、他に人生をかけられるものを見つけたって俺に言ったよな?写される側じゃなく、写す側の面白さがわかったって目を輝かせて」
「言ったわ」
「あの時、俺は確信したんだ。もう、ユリカは大丈夫だって。モデルとしての生命断たれても、ユリカはまた立ち上がって、トップ目指してやっていけるってさ」
「ふふ」
ユリカさんは笑った。そして、ようやく一臣さんから時計を受け取った。
「そうね。あの時、一臣が言ったのよね。もうユリカ大丈夫だ。ちゃんと自分で立ち上がれたってね」
「ああ」
「そう言ってくれた一臣だから、また私のことをわかってくれるって思って頼りにきちゃった。でも、頼らないでも私なら、一人で強くやっていけるってことか」
「ああ」
「……一臣、ずっと寂しそうだったし、心にぽっかりと穴が開いたみたいに、虚ろな目をしていたのに、変わったわね」
「変わったよ。もう心の穴も塞がったしな」
「弥生さんのおかげなわけ?」
「ああ」
「………」
ユリカさんが私を見た。
「そう。あなた、すごいわね。上条グループの令嬢でしょ?なのに、一臣が緒方家から追い出されても、平気なわけ?」
「弥生は、6畳一間の暮らしにも、銭湯通いにも慣れているからな」
「え?」
ユリカさんが驚いた顔をして一臣さんを見た後、また私を見た。
「慣れているの?なんで?」
「上条グループの方針は変わっているんだよ。こいつはずっと貧乏暮らしもしてきたし、6畳一間だろうが、風呂なしだろうが平気なんだ。な?」
私ではなく、一臣さんが全部答えてしまった。
「はい」
「それどころか、俺と銭湯に行くことを望んでいたりする変な奴だ」
「変な奴ですか?」
私が聞くと、
「そうなの」
と、ユリカさんはちょっと驚きながらまた私を見た。
「一臣君、弥生ちゃんと結婚することを覚悟したって言っていたわよね」
祐さんがまた話に加わってきた。
「ああ、言ったな」
「私はてっきり、緒方商事のために政略結婚を受け入れたんだと思ったわ」
「………」
一臣さんは片眉を上げ黙り込んだ。それから、一瞬にやって笑い、
「こいつを初めて祐さんの店に連れて行った時の話だよな」
とそう確認してから、
「あの時、俺はもうこいつに惚れていたんだ」
と躊躇もせず、どうどうとそう言った。
「え?あの時にはもう弥生ちゃんに?」
「じゃなきゃ、祐さんの店にも連れて行かないし、二人で食事をしになんて行かないさ」
「…そう。そうだったの。な~~んだ。あんなに婚約することを嫌がっていたのに、婚約者を連れてきたっていうところで、私、気づけばよかったのね。ううん。そうかなって思ったりもしたんだけど、でも、ユリカのこと、引きずっているのかと勘違いしていたのよね」
「祐さんのほうがよっぽど、ユリカのこと心配していたり、気にかけていたんじゃないのか?だったら、祐さんがスポンサーになりゃいいだろ?それか、スポンサー世話してあげたらどうだ?いるんじゃないのか?」
「そうね。当たってみるわ、ユリカにまた輝いてほしいからね」
「じゃあ、もう俺のところにユリカをよこすなよな。弥生がまた不安がって、泣いたり落ち込んだりするからな。こいつ、俺のこととなると一気に弱くなるんだ」
そう言うと、一臣さんは私を後ろから抱きしめた。
うっわ~~~~~~~~~~~~!祐さんもユリカさんもいるっていうのに!
「おっどろいた。一臣君って、淡白でクールで、女といちゃつくのは嫌いだって噂聞いていたのに」
「ああ。嫌いだ。でも、こいつは別だ」
ひゃ~~~~~。顔がほてりまくっていくよ~~~。
「こいつだけは、特別なんだ」
もう一回一臣さんはそう言って、私の髪にキスまでしてきた。
ひゃ~~~。ひゃ~~~~。亜美ちゃんやトモちゃんもいるのに。ううん、喜多見さんも国分寺さんもいるよ~~~。
でも、みんな優しい目で私を見ている。亜美ちゃんとトモちゃんなんて、ちょっと涙ぐんでいるし。
「それで、付き合っている女とは全員手を切ったってわけ?弥生ちゃん一筋なわけ?」
「ああ。こいつがいればそれだけでいい」
うっひゃ~~~~~~~~~~~~。もうやめて。顔から火が出る。恥ずかしいやら照れくさいやらでおかしくなりそう。
「なんだか、一臣じゃないみたい」
ユリカさんはそう言うと、首を横に振り、
「クールな一臣が良かったのに、ちょっとがっかりだわ」
と肩をすぼめて、くすっと笑った。
「ユリカに呆れられても、別に痛くもなんともない。それに、こいつはこういう俺のほうがいいんだよ。変にそっけなくするとすぐに落ち込むからな」
うわ。ばれてた。そういうのも、バレバレなんだ。もしや、私を不安がらせないように、わざとこんなことして見せているのかな。
ユリカさんと祐さんは、等々力さんの車で駅まで送り届けることになった。
一臣さんは私の腰に手を回し、べったりくっついたまま玄関まで二人を見送りに行き、
「もう祐さんも、屋敷まで来たりするなよな。迷惑だから」
と冗談めいた口調でそう言った。
「わかったわよ。もう、弥生ちゃんを不安がらせないから安心して」
祐さんはそう答えると車に乗り込んだ。そしてユリカさんは一臣さんを見て、
「幸せにね」
と笑った。
「もう俺は幸せだ。ユリカは頑張れよな」
一臣さんの言葉に、ユリカさんは微笑むと車に乗り込んだ。そして静かに車は発進した。
車の影が見えなくなると、一臣さんは私の腰を抱いたままお屋敷に入った。そしてそのまま、2階へと昇って行き、一臣さんの部屋に一緒に入った。
「弥生」
ドアを閉めた途端、一臣さんは私をぎゅと抱きしめ、
「悪かったな」
と謝ってきた。
「え?」
「不安がらせて悪かったな。俺もユリカが突然来たから、驚いてお前のことまでフォローできなかった。なんで、今頃ユリカがやってきたのか、まったく理解もできなかったし」
「……」
「なにしろ、ユリカ見た途端、どうやって追い返そうかとか、どうしたらお前を傷つけずに済むかとか、そんなことばっかり頭に浮かんで、その場にいるお前になんにも言葉もかけられなかった。でも、ユリカと話をしていても、お前のことがずっと気になっていたんだ」
「私のことが?」
うそ。
「お前、すぐにあれこれ妄想して暴走するからな。この間に変な妄想でもして、屋敷から出ていきやしないかって気が気じゃなかったぞ」
「で、出て行ったりはしません。でも、不安でした」
「変な妄想したか?俺がお前から離れていくとか」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないだろ?すでにお前、泣いていたもんなあ」
一臣さんはそう言うと、優しく私の髪を撫で、それから優しくキスをしてきた。
「いつも言っているのにな、俺は。お前だけだって」
「はい」
「いい加減、俺のこと信用しろよな?」
「はい」
「愛し方が足りないのか?今夜は絶対にするからな」
「いえ」
「なんでそこで、拒むんだよ」
「だってまだ…」
「ああ、まだなのか。は~~~。俺は別にかまわないけどなっ」
「ダメです。かまいます。私が…」
そう言いつつも、私は一臣さんの胸に思い切り抱き着いた。
「言っていることと、行動が真逆だな。これじゃ、誘っているようなもんじゃないのか?」
「だって」
「なんだよ」
「すごく不安だったから」
「あほ」
一臣さんは優しい声でそう言って、ぎゅうって抱きしめてきた。
ああ、一臣さんのぬくもりを感じていると、安心する。
ギュウ。私も一臣さんを抱きしめた。一臣さんのコロンも、胸のあったかさも私をどんどん安心させ、また胸が満たされていった。