~その10~ クールじゃなくなる理由(わけ)
秘書課に行くと、来週から来る新人のために、ファイルの整理などを江古田さんと細川女史でしているところだった。
「あ、助かった。上条さんも手伝ってくれる?」
「はい」
10分後には大塚さんも来て、4人で手分けをして秘書課の中の大掃除をすることになった。
「ため込んでいるものも多いし、要らないものもたくさんあるのね。シュレッダーにかけるもの、溶解処分するもの、ちゃんとわけないとね」
細川女史はそう言うと、ふうっと溜息をつき、
「葛西さんはこういうことを、みんなにさせていなかったの?もっと常に整頓をしておかないと、こんな古いものため込んでいていいわけないのに」
と眉をひそめた。
「葛西さん、15階に入り浸っていて、ほとんどこの部屋にいなかったし、この部屋の管理は三田さんが任せられていたから」
そう大塚さんが言うと、細川女史はもっと眉をひそめた。
「葛西さんは、一臣様の第2秘書でもなんでもなかったのにねえ」
たくさんの書類を片づけ、ファイルを整理し、すっかり秘書課にある棚も、デスクの上も、綺麗に整頓された。
「すっきりしたわね。お疲れ様。喉乾いたでしょ。ちょっと休憩にしましょう」
細川女史にそう言われ、私たちは二人ずつ順番に、15分休憩をとることにした。
「細川さんと江古田さん、どうぞ休憩に行ってください」
そう私が言うと、2人は「じゃあ、お先に」と言って、秘書課を出て行った。残された私と大塚さんは、デスクについて、電話番をしつつ、おしゃべりを始めた。
「噂、すっごい広まってるよ、上条さん」
「え?」
「仮面フィアンセ」
それか…。
「大塚さん、どうしたら仮面フィアンセって言われなくなると思いますか?」
「ほっとくしかないんじゃないの?そのうち消えるでしょ」
「そうでしょうか。結婚まであれこれ言われ、結婚したら、仮面夫婦とかって言われないですか?」
「さあ、どうだろ。一臣様の行動次第かなあ。今までは派手に女遊びしていたし、それがいきなり、しなくなっちゃって、上条さんと仲いいところを社員に見せているからあれこれ言われてるけど、ずっとその状態が続いたら、みんな何も言わなくなるんじゃないの?」
「だったらいいんですけど」
「いいじゃない。言いたい人には言わせておけば。女性陣は結局嫉妬で言ってるだけよ。一臣様は怖いだの、ワンマンだのと言いつつ、みんな憧れている雲の上の人だしね。遊ばれていた人たちは、遊びとわかっていても、喜んでいたし、自慢もしていたみたいだし」
「自慢?」
「聞いたことあるんだ、私。この近くのバーにたまたま同期の子と飲みに行ったら、そこに一臣様と付き合っていた女がいて、一臣様に抱かれたって自慢していたのよね」
え!なんか、嫌だ!そう言う話を聞くのは。
「でも、聞いてて、哀れな女だなって思っちゃったけどね」
「哀れな女って、なんでですか?」
って、聞きたくないのに聞いちゃったよ。
「だって、一回抱いてもらったからって自慢していたけど、そのあとは音沙汰なし。社内で会っても無視されるし、よくよく聞いていたら、ホテルに行ったのに一臣様、その人残してさっさと一人で帰っちゃったって言うし」
そ、そうなんだ。
「ホテルがすごい部屋だったとか、自慢してた。一人でそのスィートルームに泊まって、翌日はタクシーで帰ったみたいよ。タクシーや、朝食の用意は一臣様が手配していてくれたらしいけど、それって自慢になる?結局、朝までは一緒にいてくれず、その日限りで縁も切られちゃうくらいの関係だったってことでしょ?」
「そ、そうですね」
「まあ、人のこと言えないけどね。私も一臣様狙ってたけど、まったく眼中にないって感じだったし」
「え?そうなんですか?」
「一臣様って、手を出す女がみんな同じタイプだったのよね」
「スレンダーで髪がロング?」
「そう。なんだ、上条さんも知っていたか。私、太ってるしね」
「え?そうですか?ナイスバディで私は羨ましいです、とっても」
「ありがとう。だけど、一臣様のタイプではないわけよ」
「それを言ったら、私もです。痩せてもいないし、ナイスバディでもないし。髪長くもないし、美人でもないし」
「今まで付き合ってたタイプとは、まったく違うわよね。だから、噂になっちゃうんじゃないの?」
「仮面フィアンセ?」
「そう。一臣様のタイプでもない女と、仲いいわけがないって」
「……私がもっと綺麗だったら、そんな噂、流れませんよね」
「上条さん、落ち込まないでよ。一臣様は上条さんのこと気に入ってるんだから、それでいいじゃない。噂なんかほっといていいってば」
大塚さんは大きな声でそう言って、私を励ましてくれた。
「はい。気にしないようにします」
「そうそう。それより、いつ飲みに行く?」
「……いつかなあ。一臣さんが許してくれるかどうか」
「あ~~あ。一臣様って、上条さんのこと本当に可愛がっているんだ」
「え?」
「だって、心配しているわけでしょ?」
「私、お酒飲むとすぐに寝ちゃうし。へましないかってきっと、心配なんですよね。もっとしっかりとしていたら、心配なんてしないと思うんですけど」
「それだけ可愛がっているってことじゃないの?」
か~~~。そんなことを大塚さんに言われ、私の頬は熱くなってしまった。
細川女史と江古田さんが休憩から戻り、私と大塚さんが休憩に入った。大塚さんは、
「一回、庶務課に戻るね」
と言って、エレベーターに乗って下に行き、私は15階のオフィスで休憩をとることにした。
15階に着き、一臣様の部屋に入った。一臣さんのいない部屋は、しんと静まり返っていて、寂しくなった。
「やっぱり、他の場所で休憩すればよかったかな」
ぼそぼそと独り言を言いながら、紅茶を淹れて、ソファに座った。
いつもなら、目の前に一臣さんがいる。それか、一臣さんの膝の上に私は乗っかっている。
一臣さんがいなくても、部屋の中は一臣さんのコロンの匂いがしていて、ますます一臣さんが恋しくなった。
「重症だよね、私」
それにしても、大塚さんの話はなまなましかった。一臣さんに抱かれて自慢をしている人がいるなんて。
だけど、たった一回きりで、終わってしまうなんて。それに、朝まで隣にいてくれないで、一人だけ残されるだなんて、私だったら悲しくて、何日も落ち込んでいるかもしれない。
一臣さん、自分でも言ってたな。俺は淡泊なんだとか、クールなんだとか。終わったらシャワー浴びて、さっさと帰ってくるって、本当なんだな。
そんな日がやってきたりしないよね。
あ、不安がよぎる。私にまで淡泊になったり、クールになったりしないよね。
15分があっという間に過ぎ、慌てて私は14階の秘書課に戻った。大塚さんは、まだ来ていなかったが、細川女史と江古田さんはすでにパソコンで仕事を再開していた。
「手伝います」
そう言うと、細川女史はにこりと微笑み、
「じゃあ、これをお願い」
とファイルを渡された。
黙々と作業に取り組み、あっという間に5時半を過ぎ、次々に秘書課の人が戻ってきて、秘書課は賑やかになった。
そんな中、
「細川女史、まだそっちに弥生いる?」
という一臣さんの声が、インターホンから聞こえてきた。
「はい、います」
「じゃ、15階に戻して」
「はい」
細川女史はインターホンを切ると、
「上条さん、ありがとう。あとは私がやるから、15階に戻って」
と私に言ってきた。
「はい」
嬉しい。一臣さんが帰ってきた。心の中ではウキウキしていたが、にやけるのを必死に抑え、私は立ち上がった。
「お疲れ様でした」
秘書課のみんなにそう丁寧に挨拶され、私もお辞儀をしてから、部屋を出た。
「一臣様って、出先から帰ってくると、すぐに上条さんを呼ばない?」
「上条さんに用でもいいつけるのかな。それとも」
「それだけ仲がよかったり?あの2人って、どうなの?噂じゃ、仮面フィアンセなんて言われてるけど」
ドアを閉めても聞こえてくるほど、大きな声でしゃべってる。まだ、私、ドアの前にいるんだけどなあ。
「上条さんと、一臣様は仲いいですよ」
うわ。細川女史ってば、そんなこと言っちゃってる。
「そうです。仲がいいです。あんな噂、信じちゃ駄目ですよ」
この声は江古田さんだ。そうだよね。江古田さんには会議室で抱き合っているところも見られちゃっていたんだ。
それから15階に私はすっ飛んで行った。そして、意気揚々と一臣さんのオフィスに入り、
「お疲れ様です、樋口さん」
と元気にそう言って、そそくさと一臣さんの部屋のドアをノックした。
「入っていいぞ」
わあい!!!
一臣さんの声に浮かれながら、私はドアを開けた。
一臣さんは、上着を脱ぎ、ネクタイも外してソファでくつろいでいる。
ああ、一臣さんがいる。さっきの寂しい部屋と同じ部屋とは思えない。
「おかえりなさい」
そう言って、私は一臣さんに抱きつきながら、膝の上に座った。
「ただいま、弥生」
嬉しい。一臣さんだ。一臣さんも私を抱きしめ、チュッとキスをしてくれた。
なんだかもう、ご主人が帰ってきた犬みたいな心境だ。尻尾がはえていたら、きっとぐるぐる回っているだろうな。
ギュッと一臣さんは私を抱きしめ、
「もしかして、俺がいなくて寂しかったのか?」
と聞いてきた。
「はい」
即答すると、一臣さんに笑われた。
「明日はデートしような?弥生」
「指輪、見に行くんですよね?」
「ああ。それからどこかで食事をしよう。どこがいい?」
「どこでも、一臣さんと一緒ならいいです」
「そうか」
そう言って一臣さんは、また私をギュって抱きしめた。
「指輪を見たあと、服でも見るか?他に何か欲しいものがあるなら、買いに行くぞ?」
「いいえ。何もないです。今ある服だけで十分だし」
「いいんだぞ、遠慮はしないでも」
「本当に充分です」
「カバンや靴はいいのか?」
「はい。十分です」
「そうか。だったら、俺の買い物に付き合うか?」
「一臣さんの?何を買うんですか?」
わくわくしながら、そう聞いた。
「服だ。夏場の服が欲しい。弥生もいるだろ?夏場に会社に着て行く服は、まだ揃えていないし」
「あ、そうか。ずっとスーツでいたら、暑いですよね?」
「そうだな。半袖のブラウスとスカートとか、ワンピースやツーピースがいるな。買いに行くか?」
「はい。じゃあ、私の服も選んでもらっていいですか?私よりもずっと一臣さんのほうがセンスあるし」
「ああ。いいぞ。弥生に似合う服、選んでやる」
そう言うと一臣さんは、私の髪にキスをして、
「そういえば、卯月氏の結婚式には何を着て行くんだ?」
と聞いてきた。
「あ…。まだ、考えていないです。着物がいいかなって思うんですけど」
「そうだな。お前、一番着物が似合うもんな。寸胴で撫で肩で」
「短足ですからね」
「ああ」
ふんだ。そんなこと言われても、もう傷つかないもん。開き直っちゃってるから。
「着物も新調するか?買ってやるぞ?」
「い、いえいえ!高いし、いいです」
「弥生、俺はこれでも、緒方財閥の御曹司なんだけどな」
「駄目です。無駄使いをしたら、働いてくれている社員さんたちに申し訳ないです。その人たちのおかげで、暮らしていけるんですから」
「それは、もしやお父さんから教えられたことか?」
「はいっ」
「さすがだなあ、上条グループは…。そんなこと親父から言われたこともないぞ」
「だから、着物はいいです。それに、母が残してくれた着物もけっこうあるんです。成人式に着た振袖のほかに、小紋や訪問着も何着か…」
「そうなのか。じゃあ、それを全部、上条家から持ってこないとな」
「桐のタンスごと持って来ることになりますけど」
「ああ、いいぞ。楽しみだな。時々、屋敷で着て俺にも見せろ。たまに着物でデートするのもいいな」
「……はあ」
そんなに私の着物姿、気に入ってくれたのかなあ。
「それでまた夜は、裾よけだけになって、俺に抱かれろよな?」
そこか!一番気に入ったのは…。もう、相変わらずスケベだ。
だけど、そんなことを言う一臣さんが、クールだとはとても思えないな。他の女性の前だと、まったく違う反応を示すんだろうか。
でも、会社に入ってすぐの頃は、一臣さん、私にも思い切り冷たかったっけ。怒ってばかりだったし。そのあとも、気持ち悪いだの、怖いだのって、平気でさっくりと傷つくことを言っていたしなあ。
チュウっとキスをしてきて、一臣さんは私を抱きしめると、
「帰るとするか」
と言って、私を膝の上から降ろして立ち上がった。
ネクタイをくるっと巻いて、上着を着ると、一臣さんはスーツケースを持ち部屋を出た。私もカバンを持って後に続いた。
樋口さんはすでに帰り支度を済ませ、
「おかえりになりますか?」
と一臣さんに聞いてきた。
「ああ、帰るぞ」
「はい。では、車を呼びます」
樋口さんは、等々力さんに連絡を入れ、それから私たちと一緒にオフィスを出た。
「最近は、まっすぐ屋敷に帰られることが多いですね、一臣様」
「ああ。弥生がコック長の料理を気に入っているしな。それに、弥生が帰るとみんなが喜ぶだろ?俺一人だったころは、俺が帰るとみんながびくびく怖がって、気を張っていたんだろ?俺のことを一番に怖がっていると、喜多見さんに聞いたぞ」
「昔の話ですよ。今の一臣様は、怖がられていませんから」
「威厳がなくなっているのか?」
「そうではありません。雰囲気が柔らかくなりましたし、弥生様のおかげですね、きっと。一臣様、最近、怒ることもなくなりましたよね」
「そんなに俺は、しょっちゅう怒っていたか?樋口」
「そうですね。怒鳴ることもけっこうありましたよね」
「そうか。まあ、いつもイライラしていたしな。気が休まることがなかったからな」
「今は、弥生様とご一緒にいられたら、気が休まりますか?」
樋口さんはそう言いながら、来たエレベーターに先に私と一臣さんを乗せ、あとから乗り込むと、カードキーを差して1階のボタンを押した。
一臣さんは、いつものごとく私の腰に手を回している。
「ああ。弥生はほら、小動物みたいだろ?それか、狸だ。一緒にいると、なんか癒されるだろ?」
酷い。もっと他に言いようはないわけ?もう~~~。
「あ、膨れた。あははは!」
笑ってるし。
って、なぜ、樋口さんまで一緒になって笑っているの?樋口さんも私のこと、狸だって思っているわけ?
「確かに、弥生様にはわたくしも癒されます。一緒にいると、気持ちが明るくなりますし」
樋口さんは優しい声でそう言ってきた。
「お前も、他の連中といる時と弥生といる時では、ガラッと態度が変わるぞ。屋敷ではお前、秘書の顔じゃなくなるけど、会社では知ってるか?みんなにロボット秘書って言われているぞ。表情があまりないし、クールだし、あまりお前も笑わないしな」
「知っていますよ。わたくしも一臣様同様、怖がられていることも」
そうなんだ。知っていたんだ。確か、豊洲さんか湯島さんが言っていたよね。樋口さんも怖いって。
「でも、弥生様の前では、クールじゃいられなくなります」
「え?どうしてですか?」
思い切り気になり、そう樋口さんに聞いてしまった。
「どうしてと言われましても…。つい、微笑んでしまう何かが、弥生様にはあるんですよ」
なんだろう。それ…。褒められてるの?喜んでいいの?
「だから、小動物か、狸みたいだって言ってるだろ?目の前に小動物がきょとんとした顔でいたり、目を潤ませていたりしたら、いらいらも吹っ飛んでいくと思わないか?弥生も」
「…え?」
小動物って何かな。聞いてみる?こうなったら。
「小動物ってなんですか?」
そう正直に聞くと、横で樋口さんがくすくすと笑い、一臣さんは片眉をあげた。
「だから、お前みたいな生きものだ。たとえば、ハムスターとか、まるまるしたウサギとか」
まるまるはよけいだと思う。
「フェレットとか、オコジョとか。あ、でもその辺は痩せているから違うか。やっぱりお前の場合は…、狸?あ、レッサーパンダとかアライグマとか、その辺にも似てるな」
微妙すぎる。結局、太っていると言いたいのか?!
「あはは。レッサーパンダですか!似ていますね」
樋口さんまで~~~!
その時、一階に着いた。そして等々力さんの車に乗り込むと、
「なあ、等々力、弥生ってレッサーパンダに似ているよな」
と突然一臣さんがそう聞いた。
「は?」
等々力さんは、一瞬目を点にして私を見ると、ブブーッとふきだし、
「似てます。レッサーパンダ!」
と笑ってしまい、しばらく運転することすらできなくなった。
酷い。みんなして…。
「な?弥生も想像してみろよ。お前、妄想得意だろ?いらいらしている時、目の前にレッサーパンダが現れて、黒目がちな大きな瞳で見られてみ?ほわんって一気に和むだろ?」
「確かに」
「それだよ。わかったか?クールでなんかいられなくなるんだ」
「ははは。まさに、それです!」
珍しく樋口さんが大きな声で笑った。
「あははは。例えが素晴らしすぎて、お腹がよじれます」
一回、おさまりかけたのに、また等々力さんはお腹を押さえて笑い出してしまった。
む~~~。わかるけど、微妙だってば。それに、いつ帰れるの?これ…。
しばらく、樋口さんと等々力さんは笑っていた。そして私の横では一臣さんが、なぜか知らないけど、満足げな顔をしていた。