~その7~ ブザーと鐘
一臣さんと帰る準備を済ませ、部屋を出た。受付にはまだ樋口さんがいて、何やらパソコンで仕事をしていた。
「あ、もう帰りますか。今、すぐに終わらせます」
「ゆっくりでいいぞ。それから車は正面玄関に回すよう等々力に言ってくれ」
一臣さんは樋口さんにそう言って、私の腰に手を回すと一臣さんのオフィスを出た。
「正面玄関って?」
なんでかな。役員専用出口からは出ないのかな。
「今、ちょうどみんなが帰る時間だろ。弥生と仲がいいところを見せつけないとな」
「それが目的で、わざわざ正面玄関に出るようにしたんですか?」
「もちろんだ」
「でも…」
私は大塚さんが言っていたことを思い出した。
エレベーターが来たので、それに乗り込むと、
「でも、なんだ?」
と一臣さんが聞いてきた。
「大塚さんが言っていたんです。フィアンセを嫌がっていたのに、あんなに仲よさそうなところを見せて、出来過ぎだって、そんなことを言っている人がいるって」
「出来過ぎ?どういうことだ?」
「…仲のいい演技でもしているんじゃないかって」
「仲のいい演技?俺と弥生がか?」
「はい…」
「なるほどな。まあ、確かに、俺がフィアンセであるお前を嫌がっていたことを、知っているやつも多いだろうしなあ…。誕生日パーティに来ていた連中だって、そう思っているだろうし、そんな噂が流れてもしょうがないかもな」
「じゃあ、どうしたらいいんでしょうか。仲良くしても演技だって思われたら…」
「う~~ん」
一臣さんは唸りだした。
すると、エレベーターが10階で止まり、ドアが開いた。中に一臣さんがいて、それも私の背中に腕なんか回していたからか、エレベーターを待っていた人は、乗るのをかなり躊躇しているようだ。
「乗るのか?乗らないのか?」
私が開けるボタンを押していると、一臣さんがその社員にぶっきらぼうに聞いた。まだ、20代だろうか、新しそうなスーツを着た男性社員だ。
「あ、の、乗ります」
あれ?乗らないかと思ったのに、乗るんだなあ。
ドアが閉まると、その人はエレベーターの隅に行き、息まで潜め、すっかり気配を消そうとしているようだった。
8階でまたエレベーターが止まった。待っていたのは若いOLと、男の人。
「あ…」
と、2人が同時に一臣さんを見て驚いていたが、黙って乗って来た。
やっぱり、一臣さんってみんなに顔を知られているし、怖がられているのかな。
先に乗っていた人は、また社員が乗って来てくれたからか、ほっと安心の溜息をついたのがわかった。
そのあとも、何人かの社員が乗ってきたが、一臣さんを見て、みんな一瞬固まっていた。
し~~んと静まり返っているエレベーターがようやく一階に着くと、一臣さんと私を先に降ろしてくれて、私たちが降りるとみんな、一臣さんに会釈をしてから、足早に逃げるようにエントランスに向かって歩いて行った。
でも、
「びびった~~。一臣氏が乗っているとは…」
「一緒にいたのって、婚約者の人でしょ?」
「ああ、噂のね」
というこそこそ話す声が、しっかりと聞こえてきてしまっていた。
受付嬢も一臣さんが受付の前に来ると、すくっと立ち上がり、綺麗なお辞儀をし、
「お疲れ様でした」
と挨拶をした。
「ああ」
一臣さんは一言だけ言うと、私の背中に回した腕に力を入れ、正面玄関に向かった。
その時も、受付嬢の、
「あの人、フィアンセなんでしょ?」
「上条グループの令嬢だって。見えないわよね」
というひそひそ話す声がしっかりと聞こえて来ていた。
みんな、聞えていないとでも思っているのかな。けっこう聞こえてきているもんだよね。
「弥生」
「え?」
「樋口がまだ来ていないから、ロビーで待っているか」
「え?ロビーでですか?」
「ああ。それか、前のカフェでお茶でもするか?」
一臣さんとカフェでお茶?なんか、イメージつかない。
「カフェでお茶なんて、デートみたいですね」
「それだけでも、お前、嬉しいのか?」
「はい」
「そうか。じゃあ、行くか」
一臣さんはそう言うと、私の背中に手を回したまま歩き出した。そしてビルを出て、道路を渡り、前のビルのカフェに二人で入った。
カフェでコーヒーを頼み、一臣さんは私の分のコーヒーも持って、席に着いた。
なんだか、すっごく新鮮だ。カフェでコーヒーを飲む一臣さんなんて。
「ああ、樋口か?まだ15階か?」
一臣さんは席に着くと、携帯を取り出して樋口さんに電話した。
「いいぞ、慌てなくて。今、弥生と前のビルのカフェにいるから。ああ…。一階に着いたら、電話してくれ」
そう言って一臣さんは、電話を切った。
「おい。砂糖そんなに入れるのか」
「え?はい。一つだけじゃ足りなくて」
「まったく。そんなだから太るんだぞ。早めに運動始めないと、結婚式までにぶくぶく太ったら、ドレス着れなくなるぞ」
グッサリ。
「わかってます。ちゃんとダイエットします。運動もします」
あ~あ。せっかくのデート気分が、ちょっとテンション下がった。一臣さんはやっぱりどこでも、嫌味や意地悪を言うんだなあ…。
そんな会話をしているのを、しっかりと周りの人に聞かれていたらしい。一臣さんとカフェに入った瞬間は、カフェがざわついたが、そのあとはみんな、耳をダンボにでもしているようで、し~んとなっている。
多分、緒方商事の社員もたくさんここにいるんだろうな。
「まあ、式のドレスはお前に合せて作るんだろうから、大丈夫って言えば大丈夫なんだけどな」
「あ、そうなんですか?既成のドレスじゃなくて?」
「オーダーメイドだ。誰がいい?お前の好きなデザイナーに作らせるぞ」
え、そうなの?ちょっとテンションあがってきた。
「知っているデザイナーって言ったら…。あ、ジョージ・クゼくらいかな」
「それは却下だ」
「え?」
いきなり却下って…。
「久世の父親だろ?久世とつながりを持つのは嫌だからな」
「……」
ああ、またテンション下がった。
一臣さんは、むすっとした顔をしてコーヒーを飲んだ。それからも、口はへの字のまま、怒ったのか黙り込んでしまった。
やばいことを言っちゃったのかな。久世君の名前を出したわけじゃないけど、お父さんの方でも駄目だったのか。
一臣さんのテンションまで、下がっちゃったかな。どうしよう。話題を変えて、盛り上げる?でも、どんな話題がいいのやら。
「そろそろ樋口が降りてくる頃だな。その前にトイレに行っておくから、お前、ここで待ってろ」
「あ、はい」
一臣さんは、まだへそを曲げていたのか、ぶっきらぼうな言い方をしてお店を出て行った。
あ、お店にはトイレがないのか。そうか。ビルのトイレまで行かないとならないんだな。
そんなことを思いつつ、ぼけ~~っとしていると、私のすぐ横に女の人が立ち、上から私を見降ろしていることに気が付いた。
「?」
知っている人かもと思い、顔を見るとまったく知らない人だ。
「ねえ、あなたが一臣様のフィアンセでしょ?」
「え?はい」
誰?またもや、めちゃくちゃ綺麗な人が現れちゃった。長い黒髪、スレンダーな体つき。もろ、一臣さんのタイプかも。目鼻立ちがくっきりしている、ちょっと日本人離れしている顔立ち。
「仲良さそうに見せてても、やっぱりわかっちゃうものよね。一臣様があなたのこと、嫌っているって」
「え?」
「今の見ててまるわかり。一臣様、途中からすごく嫌そうな表情していたじゃない」
あ、へそ曲げちゃった顔のことかな。クゼって名前を出したからなんだろうけど。
「あなたと婚約なんか、一臣様はしたくなかったって知ってる?あなたと結婚しても、私と付き合っていこうかなって、そう言っていたのよ」
その女の人は、髪をかきあげながら私の顔に顔を近づけ、周りの人には聞こえないくらいの小声でそう言った。
「いったん、手は切ったように見せて、そのあと、また私のもとにきっと戻ってくるわ」
何が言いたいんだ、この人は。
「あなたなんか、一臣様が相手にするわけないものね。まあ、せいぜい、結婚式までは一臣様に仲いい演技でもしてもらって、いい気になっているのね。それも、式までよ」
だから、何が言いたいんだ、この人は。
「跡継ぎを産むために、一臣様に抱かれるかもしれないけど、抱かれたからっていい気にならないほうがいいわよ。子供作るだけの為なんだから」
ム…。なんか、だんだんむかついてきちゃった。これって、私をいじめているのかな。それとも、何?
「おい」
そこに一臣さんが戻ってきた。
「あ、一臣様、久しぶり」
女の人は、表情を一瞬で変えて、一臣さんに明るくそう言った。
「弥生になんのようだ?」
「弥生さん?この方、弥生さんって言うの?」
「知ってて話しかけたんだろ?」
「それより、一臣様、私にまで嘘ついたり、芝居したりしないでもいいのよ。いろいろと大変な事情があることもわかっているから」
「なんのことだ?」
「フィアンセのことよ」
女の人は、一臣さんの耳元でそう囁いた。
「弥生。樋口がビルの前で待っている。行くぞ」
「あ、はい」
私は慌てて席を立った。なぜか一臣さんは、女の人を無視して私の腕を掴み、つかつかとカフェを出て行った。
そのあとも、黙ったまま横断歩道を渡り、樋口さんのもとに行くと、
「帰るぞ」
と一言言って、正面玄関の前に停まっていた車にさっさと乗りこんだ。
私も慌てて後部座席に乗った。樋口さんも助手席に乗り込み、等々力さんが車を発進させた。
「遅くなって申し訳ありませんでした」
樋口さんがそう言うと、一臣さんはむすっとしたまま、
「ああ」
と一言答えた。
やっぱり、怒ってる?久世君のこと?あの女の人のこと?
「樋口、稲毛が弥生にちょっかいをかけてきたぞ。あの女、まだ本社にいたのか」
「稲毛さんですか?確か、静岡支店に転勤になったと聞いていましたが」
「俺がちょっと弥生から離れたら、弥生に話しかけていた。弥生、どうせ、嫌味か何か言われたんだろう?それとも、嫌がらせでもされたか?」
「いえ。ちょっとわけのわからないことを言っていました…けど」
「どんなことだ?」
「あの…。一臣さんは私を嫌がってて、演技しているだけなんだとか、結婚したらまた、自分のもとに戻ってくるみたいなことを」
「やっぱりな。は~~~~あ。しつこいよな、あの女も。上野と稲毛はしつこかったんだ」
「緒方商事の人ですよね?」
「ああ。システム課にいた人間だ。正式に婚約発表がある前に、付き合っている女全員と別れると、みんなに言ったんだ。で、それでもしつこく言い寄ってきたのが、上野と稲毛だ」
女全員って、何人いたのかな。ちょっと気になる。でも、聞くのが怖いから聞かないでおこう。
「上野は出向させて、稲毛は静岡支店に転勤にさせたんだけどな。なんで、まだ本社にいるんだ?あいつは」
「調べてみます」
樋口さんはクールにそう言った。
「弥生、気にするなよ。何を言われたとしても、でっちあげだからな?」
「でっちあげ?」
「俺は稲毛のもとに戻ろうなんて思っていないし、とっとと手を切って、それっきりにするつもりでいるんだからな?」
「はい」
だけど、綺麗な人だった。
「綺麗な…人でしたね」
「稲毛か?」
「どの人も美人ですね」
「…まあな。より好みはしていたって言えばしていたけどな」
そうなんだ。
「ただ、みんな性格に難ありだろ?」
「え?」
「本気で好きになったりしないような女ばかりだ。そういう女としか付き合わなかったし」
「付き合ってみたら、実はいい子だったとか、可愛い子だったとか、そういうのってなかったんですか?」
「ない」
また即答だったな~。
「それに、相手が本気になりそうだなって感じたら、付き合わなかった」
「そういうのってわかるんですか?」
「ああ。ぴんとくる。こいつは駄目だって、そうブザーみたいなのが頭で鳴るんだ」
へえ。センサーがついているのか。
「一臣さんが本気になりそうだなって、そう感じるセンサーはなかったんですか?」
「俺が?ないな。本気になりそうだなんて感じたことは一度も…」
そう言ってから、一臣さんは私から視線を外し、宙を見た。そして、あっという顔をした。
「あったんですか?」
「いや…」
一臣さんはまた私を見た。それもじっと私を見ている。
「あの?」
「……なんでもない」
そう言うと一臣さんは、窓の外を見て黙り込んだ。
なに?なんかすっごく気になるよ。もしかして今までに、本気になりそうだった子がいたの?
ううん。もしいたとしても、もう過去の話だよね。今は関係ないんだもんね。
でも、なんで、顔をそむけて窓の外を見てるの?
こんなことでも、私は気になってしまう。まだまだ、自分に自信が持てないよ。それも、一臣さんが付き合っていた人たちって、みんな綺麗な人だし。
車内はやけに静かだった。等々力さんも樋口さんも何も話さず、静かなままお屋敷に車は到着した。
手だけは、一臣さんは繋いでいてくれた。その手まで離されていたら、きっと私は今頃、落ち込んで地の底にいたかもしれない。
「おかえりなさいませ」
国分寺さんがドアを開けてくれた。
「ただいま…です」
国分寺さんの横には喜多見さん、そしてお屋敷からは亜美ちゃんとトモちゃんがすっ飛んできた。
「おかえりなさいませ」
2人ともすごく元気だ。
「ただいまです」
そう言って、私はお屋敷に向かって颯爽と歩いている一臣さんの後を追った。
「弥生様、どこか具合でも悪いんですか?」
亜美ちゃんが聞いてきた。
「いえ。元気です」
「そうですか。ちょっと顔色が悪く見えたんですけど、気のせいですね」
そうか。暗くなっていたからかもしれないな。
私は思い切り作り笑いをして、
「全然元気ですから、心配しないで、亜美ちゃん」
とそう答えた。
一臣さんが階段の下で私を待っていてくれたようだ。私が一臣さんのところに行くと、私の腰に腕を回して階段を上りだした。
「また、お腹でも痛むのか?弥生」
「いえ。大丈夫です」
「そうか。だったらいいが」
心配してくれたんだ。いけない。暗くなっていないで、明るくしないと。
でも、なかなか気持ちはすぐにあがらない。
一臣さんの部屋に、一臣さんと一緒に入った。一臣さんは、すぐに上着を脱いで、ネクタイも外した。
「風呂、先に入ってくるか?弥生」
「あとでもいいです。一臣さんもお疲れですよね?」
「俺は、そんなに疲れていないから大丈夫だ。それより弥生、本当にどこも具合が悪いところはないんだな?」
「はい」
「なんだか、元気がないように俺にも見えるけど…」
「大丈夫です」
必死に笑ってそう言った。
「そのわりには、ほっぺたがひきつっているぞ」
う。ばれてる。それに、そのほっぺを一臣さんは指でつついてきた。
亜美ちゃんにはばれなくても、一臣さんにはばれちゃうんだな。
「弥生…」
一臣さんが、ほっぺをつつくのをやめて、ぎゅっと抱きしめてきた。
「稲毛のこと気にしているのか?」
「え?いいえ」
「本当に?何か他にも言われたんじゃないのか?」
「嫌味っぽいことは言われましたけど、でも、それは特に気になっていません」
「じゃあ、他に気になることがあるってことか?」
あ。また私、自分でばらしたかも。
「こっちに来い」
そう言われ、一臣さんはソファに腰かけ、隣に私を座らせた。
「お前は時々勝手に落ち込むからな…。言ってみろ。何が気になっているんだ?」
「一臣さんが…、静かだったから」
「どこで?」
「車で…」
「ああ。あれは…、思い出していたんだ」
「もしかして、一臣さんが本気で好きになりそうになった人のことですか?」
あ。また聞きたくもないのに聞いちゃった。
ううん。やっぱり、気になるからちゃんと聞かないと…。
「そうだ」
わあ。はっきりと答えられると、落ち込んじゃう。そんな人がいたっていうだけでも、すごく落ち込んでしまう。
「俺のタイプとは全然違うんだけどな…」
「黒髪ロングで、スレンダーな人じゃないってことですか?」
「ああ」
そうなんだ。やっぱり、その先は聞きたくないかも。
「いつも、相手が俺に本気だったら、ブザーみたいなのが鳴るんだ。こいつには近づかないほうがいいってぴんとくる。でも、その子に会った時は別の音が頭の中で鳴った」
「え?別の?」
「ああ。ブザーって言うより、鐘みたいな、当たりくじでも引いた時みたいな音だ」
は?
「ブブー!じゃなくて、カランカランみたいな音だった」
カランカラン。大当たりっていうあの音?