~その6~ 「俺のフィアンセは…」
IDカードをかざし、一臣さんのオフィスに入った。受付には誰もいなかった。
トントン。部屋をノックしても返事がない。
あれ?もしかして、まだ帰っていない?それとも、寝てるとか?
「失礼します」
と、そっとドアを開けた。
「いない?」
奥の部屋も一応のぞいてみた。でも、一臣さんはいなかった。
「なんだ。まだだったんだ」
勝手に部屋にいていいのかな。
あ、こんな時に掃除でもしておこうかしら。とはいえ、どこをどう片づけていいものやら。
葛西さんが整頓していたって言っていたよね。勝手に葛西さんにさせていたのかな。勝手に動かしたりしたら、一臣さん、怒りそうなものなのに。スチームアイロンも、葛西さんに頼んでいたわけじゃなく、勝手に葛西さんがしていた感じのことを言っていたし。
む~~~。お屋敷の部屋は、喜多見さんしか掃除させないんだよね。他のメイドだと勝手にものを動かしちゃうから。
じゃあ、オフィスは?葛西さんだけが動かしてよかったの?それとも、どこに何を整頓するとか、そういうのを葛西さんと決めたのかな。葛西さんが決めたんだったりして。
「はあ…」
どこをどう整頓したらいいのかもわからず、ソファに私は座り込んだ。
デスクの上のファイルは動かしたら怒られそうだ。ソファに置いてある本も、読みかけかもしれない。
グルッと本棚や棚を見てみた。特に乱れている個所もない。
隣の部屋のクローゼットの整頓でもしようかな。
そう思い立ち隣の部屋に行った。クローゼットを開けると、整理整頓されて物がしまってある。
「スリッパも二つ。そういえば、バスローブも二つあるし…」
気になって洗面台に行くと、コップの中になぜか二つの歯ブラシ。
え、なんで?
バスタオルも二つ、フェイスタオルも二つ。全部、白い綺麗なものが揃っている。
多分、一つは一臣さんが使ったもの。
なんか、すっごく気になる。いったい、もう一つは誰の?
樋口さん?それとも、葛西さんがここで使ってた?
ガチャリ…。ドアが開く音がして、誰かが入ってきた。一臣さん?
慌ててクローゼットを閉めて、隣の部屋に戻った。
「あ、弥生。仕事終わっていたのか?」
「はい。おかえりなさい」
「疲れたぞ」
そう言うと、一臣さんは私に近づいて来て、ギュッと抱きしめてきた。
「ん?そういえば、なんで、そっちの部屋にいたんだ?トイレか?」
「いいえ。掃除とか、整頓とかしようと思って来たんです。でも、どこも綺麗だったから…」
「ああ。そんなに使わないからな。週末にクリーンスタッフも入ってくれているし」
「クリーン?」
「掃除をしてくれるスタッフだ。15階は他の階と違う特別のスタッフがいるんだ」
「へえ…」
そうだったんだ。
「弥生」
「はい」
「シャワーでも一緒に浴びて、ベッドで休むか」
「い、いえ。今、私…その…」
「生理だったっけな」
「はい…」
「ああ、そういえば、このトイレ、生理用品は置いてあったか?」
「いいえ。持参しています、ちゃんと」
「そうか。クローゼットにもなかったか?いろんなものを揃えていたと思うんだけどな」
「誰がですか?」
「青山とか、樋口とかが」
「…なんのためにですか?いろんなものがありますけど…。歯ブラシとかも2本…」
あ。聞いちゃった。つい、気になって聞いてしまった。
「1本使っていいぞ?昼飯食った後でも、ここに泊まる日にでも。あ、この前泊まった時にも使ったんだろ?そこにある歯ブラシ」
「いいえ。歯磨きセットはいつも持参しているので、それを使いました」
「へえ。用意周到だな。いつでも俺と、お泊りできるようにか?」
「違います。お昼ご飯のあと、歯を磨く為です」
「そうか。でも、持参しないでも、そこのを使え。お前のだから」
「え?!そうなんですか?」
「だから、いろんなものを用意させたって言っただろ?」
「いつですか?」
「いつだったかな。お前を俺付きの秘書にするって決めてすぐだったかな。いや、その前にお前、ここに泊まったっけ。だから、もっと前か…」
「……」
一臣さんはしばらく宙を見て、
「お前がアパート引き払った後かな。ああ、そうだ。秘書課に移動になってすぐだ。俺の部屋にも来ることになるし、カードキーもそれで作ったんだもんな」
と思い出したらしい。
「…私が使うスリッパとか、バスローブとか、バスタオルなんですか?全部二つずつ揃っていたけど」
「他に誰が使うんだ。まさか、樋口か?」
「いえ、えっと」
「…あ」
一臣さんが片眉をあげた。そして、むすっとした顔をして、
「葛西のかと思ったのか」
と聞いてきた。
「ちょ、ちょっとだけ、そうかなって」
「阿呆。そんなんじゃないって、前にも言ったろ?」
「はい」
グイッと一臣さんに腕を引っ張られ、また一臣さんの膝の上に座らされた。
「いいよ、弥生は、掃除なんかしないでも」
「え?」
「お前の役割は、掃除とか整頓とかじゃなくて、ここに座っていることだから」
「は?」
「だから、俺の膝の上にいたらそれでいい」
「でも」
「でももくそもない」
くそって、汚いなあ…。一臣さんの口から、そんな言葉が出て来るとは…。
「こうやって、俺のことを癒してくれたらそれでいい」
「癒し?私、一臣さんのことを癒していますか?」
「ああ。癒されているぞ。こうしてお前のぬくもりを感じているだけで」
ドキン。
「これからは、俺もお前も忙しくなるんだからな。2人きりでいる時は、俺にひっついてろよ。2人きりでいられる時間だって、そうそうなくなるんだから。この時間、いちゃついていなかったら、もったいないだろ?」
「……はい」
ギュウ。また一臣さんは後ろから抱きしめてきた。そのたび、キュンって疼いちゃう。疼いちゃっても困るだけなのに…。そうだ。話でもして気を紛らわそう。
「一臣さん、今日も、分刻みで動いていたんですか?」
「いや。そうでもない。会社の中を案内してもらったり、仕事のことを教わったりしたから、一社に1時間はかけていたしな」
「いつ、副社長は大阪に行くんですか?」
「7月だよ」
「え?そんなに早く?来月ですよね」
「ああ。副社長だって、大阪のことをいろいろ知らないとならないわけだし。でも、9月くらいまでは、こっちと大阪を行き来するらしい。その間にも、いろいろと引き継ぐから、あと3ヶ月かな」
「大阪支社はいつ…」
「11月だ」
「そうしたら、11月に一臣さんは副社長に?」
「そういうことだな」
そうなんだ。あともうちょっとじゃないか。
「そしたら、副社長室に移動するんですか?」
「いいや。この部屋にいるぞ。このオフィスが副社長室になる」
「じゃ、今の副社長室は?」
「しばらくそのままだ。たまに副社長も帰ってくるだろうしな」
そうか…。
「そして、めでたく12月、俺は結婚するんだ」
「え?!12月ですっけ?」
「ああ。政略結婚だ。親父が決めた相手と結婚するんだ。俺が18の時から、決まってた相手だ」
「はあ」
それ、私のこと…だよね。まあ、いいか。言わせておこう。
「上条グループの令嬢だ。そこの会社と提携を結んだから、しかたなくその令嬢と結婚するんだ」
しかたなく?!
「上条グループは一風変わった方針があって、子供を高校入学と共に、家の外に追い出しちまうんだ」
「……そうなんですか」
もう~~。何が言いたいのかなあ。
「その令嬢も、すごい貧しい暮らしもしてきたし、とにかく見るからにお嬢様にはとても見えない、ごくごく一般的な庶民的な狸みたいなやつなんだ」
「酷いっ。狸って…」
「まあ、いいから聞けよ。そのとんでもないお嬢様は、こともあろうか、俺を初めて見た時から一目ぼれ。ストーカーのごとく、俺を物陰から見つめたり、あとをつけて来たり…」
むむむ~~~。いったい、どうしてそんなことを言ってるんだろう。怒らせたいのかな。それとも、からかっているのかな。
「そいつは、俺の会社にまで入ってきたんだ。はじめは庶務課。脚立持って蛍光灯の交換をしたり、トイレのつまりも、すっぽんでなおしたり。な?とんでもないだろ?普通考えられるか?いいとこのお嬢様のすることじゃないだろ?」
「そ、そうですね…」
思わず、顔が引きつったんですけど。
「貧乏暮らしも耐え抜き、自分で大工仕事までしちゃうし、ペンキは塗っちゃうし、服も縫うし、料理もするし。何があってもそのお嬢様は生き抜くだろうな」
「何があっても?」
「なあ、弥生。たとえばだぞ。たとえば、俺が緒方財閥を継げなくなって、屋敷からも追い出され、仕事も失い、財産も名誉も何もかも失っちまったら、どうする?」
「え?どうしたんですか?いきなり」
「たとえ話だよ。俺が緒方財閥から追い出されてしまったら、お前どうする?多分、そのへんの町工場かなんかで働いて、6畳一間の風呂もついていないようなアパートで、質素に、いや、相当貧しく生きていかなきゃならないんだ。そんなふうになったとしたら、お前、さっさと婚約破棄するか?」
「まさか!」
私は、ぐるんと一臣さんのほうを向いた。そして一臣さんの目を見ながら、
「そうしたら、私も働きます。そうですね。掛け持ちで、スーパーとか、コンビニとかで働いて、残ったお惣菜を分けてもらったり、売れ残りのお弁当をもらってきます」
と話し出した。
「…掛け持ちか。大変だぞ」
一臣さんは片眉をあげた。
「慣れていますから、大丈夫です。それから、服はリサイクルショップか、あ、フリーマーケットも楽しいですよ。そういうところで買ってきて、ちょこっとリメイクするんです」
「なるほどな」
一臣さんの口元が緩んだ。
「それから、えっと。おやつとかは、あれがいいですよ。パンの耳をただでパン屋さんからもらってきて、お砂糖まぶして揚げるんです。美味しいんですよ。たまに、大家さんと作って食べてました」
「へえ~~。ただでもらえるのか。すごいな」
一臣さんは、目を丸くした。
「それから、お風呂は銭湯に一緒に行くんです。腕組んで、石鹸とかタオルを持って。それで、男湯から一臣さんが、こう叫ぶんです。弥生、そろそろ出るぞ~~!それで、私は、は~~い、一臣さん!って答えるんです」
「……俺がそんなことをでかい声で言うのか」
あ、また片眉あがった。
「はい。そして、お風呂から出たら、やっぱり、フルーツ牛乳を飲まなくちゃ」
「なんだ?それは」
「美味しいんですよ。でも、甘いんです。一臣さんだったら、コーヒー牛乳のほうがいいかな。それで、蓋をぽんって抜いて、片手は腰に当てて、ゴクンゴクンと飲むんです」
「必ずそのポーズをするのか」
あ、興味があるのかな。
「そうです。見ててください」
私は一臣さんの膝の上から降りて、肩幅に足を開き、左手は腰に当て、右手で瓶を持つふりをして、ゴクンゴクンと口で言いながら、飲んだふりをした。
「それから…。ぷは~~~~っ!」
目をギュって閉じ、顔を少し上に向け、満足そうな顔をして私はそう言った。
「ぷは~~~?」
「はい、そうです。ぷは~~~~っ!一気飲みした後にこれを忘れちゃ駄目なんです」
「待て。なんだって、そんなに詳しいんだ。お前のいた下宿先には、風呂がなかったのか?」
「ありました。でも、一つだけなので、男の人たちが入った後って汚くて。だから、大家さんとよく、近くの銭湯に行っていたんです」
「待て待て。お前の部屋には風呂がついてなかったのか?」
一臣さん、相当びっくりしているのかな?目が丸くなってるけど。
「はい。トイレも共同でしたけど」
「………そ、そうか。じゃあ、俺がさっき言ってた、6畳一間で風呂がないっていう部屋に、お前はまさに住んでいたってことか」
「はいっ。だから、大丈夫です。全然、大丈夫ですから、婚約解消なんかしません。っていうか、そんな暮らし、すっごく楽しそう。そうなっても、いいな~~」
「い、嫌。俺が困る」
「ですよね」
「…ふ」
一臣さんは一回俯いてから、上目づかいで私を見て、
「あははははは!」
と、突然お腹をおさえて大笑いをした。
「あの?」
なんでそんなに大笑いをしているのかな。
「腹いて~~。本当にお前は面白いよな。な?弥生。俺のフィアンセは、俺がたとえ緒方財閥から追い出されても、ついてきちゃうようなすごいやつなんだ。おかしいだろ?」
「おかしくはないですけどっ」
もう。なんでおかしなやつになっちゃうわけ?
グイ…。とまた、一臣さんが腕を引っ張り、私を膝の上に座らせた。
「俺は、そのフィアンセのことを嫌がっていたんだけどな。でも、今はそいつじゃないと駄目だって思っている。それに、そいつはきっと、一生俺を楽しませてくれる」
「え?」
「いつか、一緒に銭湯行こうな?弥生」
「本当に?行ってくれるんですか?」
「ああ。コーヒー牛乳、飲んだ後にぷは~~~ってやるぞ?」
「じゃあ、子供がいたら、子供も一緒に…。ダメですか?」
「楽しそうだな」
「はいっ。私も家族で行ったことがあります。母と女風呂に入って、男湯から、父が、冬子、弥生、出るぞ~~って叫ぶんです。すっごく楽しかった」
「上条グループの社長が銭湯?温泉じゃなくて?」
「はい。富士山の絵が描いてある、立派な銭湯でした。今は、なくなっちゃいましたけど、家の近くにあったんですよ」
「あはは。やっぱり、すげえよな、上条グループは」
そう言うと、一臣さんは、私の髪にチュッとキスをして、
「とんでもないお嬢様だろ?俺のフィアンセは」
と耳元でそう言った。
「そ、そうですか?」
「ああ。この俺が惚れまくっているくらい、とんでもないんだ。誰も代わりなんかいないくらい、最高の女なんだぞ」
最高?
キュキュン!
「12月に、そいつと結婚する。そんな俺は幸せ者だろ?」
「私もです!」
「ははは。そうだな」
一臣さんは笑ってから、また私をギュって抱きしめた。
「やばいな」
「はい?」
「なんだかお前のこと、前よりも惚れたかもしれないな」
「え?」
「……。ぷは~~~~。可愛かったし」
「…」
そこ?そこに惚れたってこと?
「面白い狸だよなあ」
「狸じゃないです!もう~~~~~~~~」
あはは。って一臣さんはまた笑った。それから膨れている私の頬にキスをして、
「可愛いよな、お前は」
と耳元で囁き、またギュって抱きしめた。
ああ。むくれたりしているけど、本当はさっきからドキドキだし、うずうずだし。
でも、我慢なんだよね?今は…。
ギュウって抱きしめている一臣さんの腕の中で、私はドキドキしながらも、悶々としていた。
それは、一臣さんには内緒。言ったら、襲ってくるかもしれないから。