~その3~ 幸せな車内
寂しくダイニングに行くと、
「おはようございます。今日はお一人ですか?」
と亜美ちゃんに聞かれてしまった。
「はい。一臣さんは部屋で一人でコーヒー飲むそうです」
ああ、私、声に元気が出ないなあ。
「どうぞ」
国分寺さんが椅子を引いてくれた。
「ありがとうございます」
そう言って椅子に座ると、国分寺さんは、
「朝、一臣様はまた、ジョギングを始めたようですね」
とそう私に言ってきた。
「あ、はい」
「とても元気に走っていらっしゃいました。最近は食事もよく召し上がりますし、顔色もいいですし、体調がよろしいようですね」
「はい、そうですね」
にこりと笑って答えたが、どうも作り笑顔になってしまう。
「きっと弥生様がおそばにいられるからですね」
「え?」
「以前は、一臣様はあんなに朗らかな方ではありませんでした。でも、最近は良く笑っていらっしゃるし、従業員の私どもにもよく話しかけるようになりましたし。前は怒る時だけでしたよ。それに、よく怒っていましたが、ここ数日、怒鳴った声を聞いたことがありません」
国分寺さんは、そう話を続けた。
「そういえば…。私が会社に入った頃や、このお屋敷に来た頃はよく怒っていましたよね。私も怒られていたし」
「ええ。とても気難しい方で、ちょっとのことでも怒っていたのですが、気が長くなったのか、おおらかになったのか。弥生様がお屋敷に来てからですよ。あんなふうに一臣様が変わられたのは」
そう言ったのは、日野さんだった。私に朝食を運びながら、そう話しかけてきた。
「私が変えたわけではありません。もともと、一臣さんは寛大でお優しい方なんだと思います」
私がそう言うと、カップに紅茶を注ぎながら、
「はい。そうですね。一臣様はもともとお優しい方ですね。その一臣様の良さをきっと弥生様が引き出されているんですね」
と国分寺さんが静かに言った。
私が?そうなのかな。
朝食を終え、コック長に美味しかったですと告げると、
「いつも朝食は洋食形式なのですが、弥生様が和食がいいということであれば、いつでも和食にいたします。どうなさいますか?」
とコック長が優しくそう言ってくれた。
「そうですね。では、私一人の朝食で、和食の材料がある時には和食にしてもらってもいいですか?」
「かしこまりました」
「無理に揃えなくてもいいですよ。たとえば、前日のお出しが残っているとか、たまたまお味噌汁の具があるとか、そんな時でかまいませんから」
「……はい。かしこまりました」
コック長は少し口元を緩めながらそう答えた。そして、くすくすと笑いながらキッチンに戻って行った。
もしや、私はまた変なことを口走ってしまったのだろうか。
席を立ち、ダイニングを出た。すると亜美ちゃんが後ろからついてきた。
「弥生様、来週行く従業員の慰安旅行を弥生様が提案してくださったと、樋口さんから聞いたのですが」
「はい。私と一臣さんが工場の視察をする時、温泉地に泊まろうっていうことになって、だったら、お屋敷のみんなで行っちゃうのもいいかなって…。ごめんなさい。突然の思い付きみたいなもので決めてしまって。もしかして、亜美ちゃんの都合悪い日でしたか?」
「いいえ!樋口さんがホテルのパンフレットを見せてくれたんです。私たち、そうそう温泉なんて行けないですし、慰安旅行なんて初めてですし、すっごく嬉しくって!弥生様、ありがとうございます。一臣様を説得してくださったんですね」
「いいえ。説得だなんて全然。すぐに一臣さんも、その気になってくれましたけど」
「そうなんですか。弥生様ってやっぱりすごい」
え?なんで?
「でも、弥生様たちとは泊まる場所が違うと聞きました。それだけが残念で」
「はい。一臣さんが別のホテルにしろって」
「弥生様とお二人になりたかったんですね。お熱いですね」
ひょえ。そんなことを言われるとは。
「あ、あの。私、もう、会社に行く準備をしますね、亜美ちゃん」
私は恥ずかしくて、そう言って自分の部屋にそそくさと戻った。
それから、一臣さんの部屋に行くかどうか、しばらくドアの前で悩んでしまった。でも、ドアを思い切ってノックしてみた。
「入っていいぞ」
ほ…。いつもの一臣さんの声だ。
ドアを開けた。すると、もうすでにYシャツに着替え、時計を腕にはめている一臣さんがいた。今日は、ストライプのシャツだ。相変わらず麗しい。
時計を腕にはめるところも様になる。それから、ネクタイを手にしてするっと首に巻き、キュキュっと鏡を見ながら一臣さんはネクタイを締めた。その姿も優雅で素敵だ。
一臣さんって、絶対に仕草や動作が綺麗だと思う。別にわざとそうしているわけでもなく、きっと身についているんだろうな。上品さというか、育ちの良さなんだろうな、きっと。
だって、食べる時のマナーもしっかりとしていて、食べ方も綺麗だし、多少、スーツの上着を放ってみたり、適当に書類をバサッとその辺に置いたり、なんていうことはあるものの、乱雑にものを扱うこともないし、部屋もある程度は綺麗に片付いているし。
スーツの上着も羽織ると、一臣さんは、
「お前ももう出れるのか?」
と聞いてきた。
「はい。部屋にカバンも用意してあります」
「あ!口紅、塗ったのか」
一臣さんは、私の顔を見て片眉をあげて聞いてきた。
「え?はい。食事が終わってから塗りましたけど…」
「なんだよ。これからは塗る前に来い。キスできないだろ」
「………」
え~~~~。なんか、それって恥ずかしいかも。キスのおねだりをしに来るみたいで。でも、してほしいことはしてほしい。
ああ。今日もしてほしかったな。
なんて思いつつ、俯いていると、一臣さんが大接近してきた。
「?」
もしかして、口紅塗っていてもキスしてくるとか?
え?あれれ?
「なんで、ブラウスのボタン、外しているんですか?」
プチ、プチと、上から外しているけど…。
「あの?」
4個目くらいまで外して、ブラウスの胸元を広げられた。
なんで?なんで?あ。もしかして…。
「キスマーク、薄くなってるな」
やっぱり。それを見るために?
チューーーー。
ドキッ!
わあ。胸元に顔をうずめて、キスしてきた!
きゃあ。ドキドキが半端なくなってくる。顎にかかる一臣さんの髪がくすぐったい。
うずうず。胸の奥が疼く…。
顔を離すと、
「これでよし」
と言って、一臣さんは満足そうな顔をして、またブラウスのボタンを閉めだした。
「俺の印もつけたし…」
「し、印って?」
ああ、まだドキドキしてる。
「俺のものだっていう印。他の奴には弥生に手を出させない」
「……」
か~~~~~。ああ、顔が熱くなっちゃったよ。
「ずるいです。私にばかり、こういうのをつけて」
「ん?俺にもつけるか?いいぞ。どこにつける?なんだったら、首筋にでもつけておくか?」
一臣さんにそう言われてしまった。
「いえいえいえ!そ、そんなことできません!」
「なんでだ?つけたらいいだろ?弥生のキスマーク」
「無理です。恥ずかしくてできません!」
そう言って私は慌てて一臣さんの部屋を出た。
もう!まさか、俺にもつけていいなんて言って来るとは思わなかった。
ああ、顔がまだ熱い。
顔を一回ぱんぱんと叩き、カバンを持って部屋を出た。エントランスにはすでに、国分寺さんや喜多見さん、そして亜美ちゃん、トモちゃん、日野さんが待っていた。
私の後ろから一臣さんが早歩きでやってきて、私の腰に手を回して、一緒に玄関を出た。
「いってらっしゃいませ」
車に2人で乗り込むと、みんなが丁寧にお辞儀をして私たちを見送ってくれた。
「おはようございます、一臣様、弥生様。今日のスケジュールですが」
いつものように樋口さんが、スケジュールを伝えようとすると、
「昨日と同じで、分刻みか?」
と一臣さんは、むすっとしながら樋口さんに質問をした。
「そうですね」
「弥生とも別行動か?」
「そうですね。今日も午後は副社長といろんなお得意先を回ることになっていますので」
「あ~~~~~~。面倒だ。別に副社長は嫌いじゃないが、どうも話が長いしなあ」
また、面倒くさがってる。
「午前中には、機械金属部のプロジェクトのミーティングがございます」
「ああ。それは弥生も一緒でいいな。昼飯も今日は弥生と食べるからな」
「はい。では、そのように手配させていただきます」
グイッ!一臣さんは私の腰を抱き、自分のほうに私をいきなり引き寄せた。
うわ。べったりくっついちゃったよ。なんか恥ずかしい。
「弥生」
え?
ドキーーー!なんで、私の太もも指でなぞったの?なんで、こんなところでそんなことするの?!
「ストッキング、伝線してるぞ。会社着いたら履き替えろよな」
「あ!本当だ。今、一臣さんがわざと」
「するわけないだろ?」
「う…。太ったのかな。今朝履く時、履きづらかった。無理に履いたから伝線したのかも」
「ああ。太ったのかもな。油断しないほうがいいぞ。なにしろ毎日、車で送り迎えもしているし、あとはほとんどデスクワークだ。まったく歩かないし、運動もしていないだろ?どんどんブクブクと太って行くぞ」
「ええ?!困ります。どうしましょう。樋口さん、等々力さん。あ、私だけ電車通勤にしようかな」
「そういうわけにはいきません。危険ですから」
樋口さんにクールにそう言われてしまった。
「大丈夫です。ずっと電車通勤でしたし」
「いえ。一臣様のフィアンセだということで、誰に狙われるかもわかりませんし」
「え?」
狙われるっていうと…。
「誘拐とかされたら大変だろ?」
一臣さんも、私の横で真顔でそう言ってきた。
「誘拐?」
「ああ。俺だって、2~3回、狙われたことがある。ボディガードが常にいるから、誘拐されずにすんでいるけどな」
「そうなんですか」
「お前も、次期社長夫人なんだ。今から用心した方がいいんだぞ?」
「でも、自分の身は自分で守れますし」
「甘い!そういう考えは今すぐに捨てろ。いいか?」
「は、はい」
上条家の家訓は自分の身は自分で守れ。だったんだけど。
父にですらSPもボディガードもついていないんだけどな。秘書もついていないし、ほとんど、電車で一人で移動している。兄たちもだ。自分の車で移動することはあっても、運転手だっていないし、葉月にいたっては、自転車だし。
それに、こんなこと言ったら、なんて言われるかわからないから黙っておくけど、私も数回、誘拐されそうになったり、変な人につけられたりしたことがある。でも、撒いてみたり、投げ飛ばしたり、蹴っ飛ばしたり、それこそ本当に危ない時には、相手の動きを封じちゃったりして身を守ってきた。
…。やっぱり、これは秘密にしておいた方がいいよね。
「だから、ジムに通うか…、俺みたいにランニングでもするか…」
「ですよね。ジムに行きます。でも、とりあえず、お屋敷の敷地内、私も走りたいです」
「そうか。じゃあ、一緒に走ってみるか?」
「はい!」
良かった。突き放されずに済んだ。
「でも、お前、今は生理中だから、終わってからな?」
え?
きゃ~~。樋口さんや等々力さんもいるのに、なんつうことを!
もう~~~。
でも、一臣さんは、私が恥ずかしがっているのも知らないで、私の手を取って指を絡めて来たりしているし。それも、恥ずかしいんだけどな。
「指輪、買わないとな」
「え?」
絡めた私の指を見ながら、一臣さんは唐突にそう言った。
「婚約指輪。婚約パーティではそれも、披露するし。そろそろ見に行かないとな?時間作れるか?樋口」
「週末は特に予定が入っていないので、大丈夫ですよ」
「うん、わかった。じゃあ、週末、見に行こうな?」
一臣さんはにこりと私に微笑んだ。
わあ。可愛い笑顔だ。キュキュンってしちゃった。
「はい」
うっとりとしながら、そう答えると、
「そんなにうっとりとするなよ。阿呆」
と言われてしまった。
え。怖かったのかな。でも、一臣さん、なんだかにやけ顔だ。あ、喜んでいるのかな。
ふと視線を感じて前を向くと、バックミラー越しに樋口さんも等々力さんも私たちを見ていた。それも、優しく微笑みながら。
わあ!照れくさくて、私はすぐに俯いた。
「どんなのがいい?やっぱり、ダイヤモンドだよな。何カラットもするやつにするか?」
絡めた指を外し、今度は私の左手の薬指を触ってきた。
ドキン。
「そんな贅沢な。小さなもので十分です」
「そういうわけにもいかないだろ。緒方財閥の御曹司の妻になるんだぞ?」
「で、ですが。私の指には似合わないと思うし」
「確かに。お前、庶民的な指しているもんなあ」
どんな指だ。
「細めのリングで、小さめのダイヤで、でも、綺麗に輝いているのがいいな」
「はい」
うわあ。婚約指輪!なんだか、ドキドキする。
「くす」
あれ?一臣さんに笑われた?
「今からそんなに顔赤らめてどうするんだよ」
「だって、嬉しくて」
「ははは。本当に正直だな、お前って」
一臣さんはそう言って笑った。
「なんだか、いいですね~~。樋口さん。わたしたちまで嬉しくなってきますね」
「はい。そうですね、等々力さん」
等々力さんと樋口さんが、そんな会話をしている。
車内は今日も、幸せモード。ほわほわとした空気が流れていた。