~その15~ 上条家のご令嬢
そのあと、一臣さんは樋口さんと一緒に副社長と会って、仕事の引継ぎがあるというので、私は秘書課に行った。
「細川さん、手が空いているので、何か事務仕事手伝います」
「そう?助かるわ。大塚さん、めずらしく庶務課の仕事が午後に入っていてこっちに来られないから、事務の仕事がたまっていたの。江古田さんも片づけが終わったら来るから、この仕事をわけてやってくれる?」
「はい。わかりました」
江古田さん、片づけって応接室のかな。私、一臣さんとさっさと15階に行っちゃって、申し訳なかったな。
そしてすぐに江古田さんが戻ってきて、私を見ると顔を赤くさせ、
「さっきはごめんなさい。上条さん」
と謝ってきた。
「え?いいえ!」
私のほうが恥ずかしくなった。
そして私の隣に江古田さんは座り、パソコンを開き、2人で黙々とパソコン業務に打ち込んだ。
5時半過ぎ。仕事が終わった。
「終わりました」
と細川女史に頼まれていたファイルを持って行った。
「ありがとう。もう、15階に戻っても大丈夫よ、上条さん」
その時、湯島さんや、他の秘書の人も部屋に戻ってきて、
「あ、上条さんだ。なんか、久しぶり」
と、湯島さんが私に話しかけてきた。
「一臣氏の秘書の仕事しないでもいいの?」
「はい。時間が空いたので、事務仕事の手伝いに来ていたんです」
「そうなんだ。一臣氏って相変わらず怖い?怒られてる?」
「え?」
「最近、秘書室に怒鳴りこみに来ることがなくなって、ほっとしているんだけどさ。上条さんはいつも一緒にいて、気が休まる時がないんじゃないかって、心配していたよ」
あれま。心配してくれていたんだ。
「それはないでしょう?仲がいいって噂だし」
お。この嫌みったらしい声って大塚さん?
「大塚さん。なんでここに?」
くるっと振り向くとやっぱり大塚さんがいた。
「酷いなあ。手伝いに来たのに」
「終わりましたよ。今日の仕事は全部」
「え?でも、細川さんが、手が空いたら手伝いに来てって、3時ころ電話で泣きついてきたから」
「あ、大塚さん。来てくれたの?でも、上条さんが4時過ぎに来てくれて、無事終わったから大丈夫よ」
細川女史も大塚さんの存在に気がつき、そう大塚さんに告げた。
「みたいですね。上条さんだったら、軽く2人分の仕事くらいやってのけそう。じゃ、仕事終わったなら、早速今日飲みにでも行く!?」
「え?!」
飲みに?
「ええ?大塚さんと上条さんが?」
あ。湯島さんがびっくりしている。それもそうか。仲良くなったこと知らないんだもんね。
「ごめんなさい。今日はアメリカに転勤になった兄が日本に来ているので、一緒に夕飯を食べる約束をしているんです」
私は大塚さんにそう言って断った。
「へ~~。アメリカに転勤って、そんなお兄さんがいるんだ。ねえ、かっこいい?今何歳?」
「もう結婚もしているし、子供もいますけど」
「なんだ~~。お兄さんって一人だけ?他にはいないの?」
「いますけど、今月結婚するんです。あ!もうすぐなんです!」
そうだった!私ったら、結婚式に着る服も選んでいないし、なんにも準備していなかった!
「他にはいないの?独り身の兄弟」
「弟が。でも、婚約者がいます」
「なにそれ。がっかり。江古田さんにはご兄弟いないの?」
大塚さんはがっかりしながらも、江古田さんにまでそんなことを聞いている。
「え?姉しかいません」
「がっかり~~~~~~。豊洲さんは出向でいなくなっちゃったし、庶務課にいてもいい男と出会えないし。まあ、秘書課にいても専務とか、役員さんってじいちゃんばかりで、なかなか彼氏なんてできなかったんだけどさ」
「豊洲さんいなくなったら、大塚さん、素を丸出しにするようになったね」
湯島さんがそう言って、引きつり笑いをした。
「あ、ごめんなさい。湯島さんが思い切り眼中にないって丸わかりの態度しちゃって」
大塚さん、それ、かなり傷つけているような気が。
「いいよ。僕も大塚さんはタイプじゃないし」
うわ。湯島さんまでちゃっかり本音言ってる。
「湯島さんのタイプは?もしや上条さんみたいな子?」
「え?いやいや。僕のタイプはもっと、清楚で大人しい子だから、この秘書課にはいないね」
ん?今、何気に湯島さんに酷いことを言われた気もするけど。私が清楚でも大人しくもないって言ってるんだよね…?
「ああ、そう。そんな女、この世にいるかどうかもわからないけどね」
あ。大塚さんが湯島さんの言ったことに答えちゃったから、何も言えなくなっちゃった。
「そんなことはないさ!いるよ。現に会ったことあるしね。僕の祖父が入院している大学病院の院長の娘さん、綺麗ではかなげで、趣味がハープなんだよ」
え?まさか。
「それ、鷺沼京子さんですか?」
「そう!え?知ってるのかい?上条さん」
「ああ。知ってる。一臣様のフィアンセ候補者の一人」
「え?」
大塚さん、知ってるの!?
「うちの祖父もそこの病院に通院しているから。一回、手術も受けてるし」
「大塚さんのおじいさんも?」
湯島さんも驚いている。
「そう。うちの親も祖父も、けっこう緒方商事のことは詳しくて。そんな話、ついこの前、実家に顔を出した時にしていたもの。でも、会社でももう噂になってるけど、一臣様は上条グループの令嬢と婚約したんでしょ?それ、最初から社長が決めていたらしいわよ」
大塚さん、怖い。内情よく知っているのかもしれない。
あれ?じゃあ、私がフィアンセだってことも、すでに知ってるの?
「ここだけの話」
大塚さんは、周りに聞こえないようぐっと声を潜めた。私、湯島さん、江古田さんに顔を近づけ、
「一臣様は、その鷺沼京子って人が、一番気に入っていたみたい。だけど、体があまり丈夫じゃないらしく、跡継ぎを産めないかもしれないからって理由で断って、大阪の銀行の頭取の娘を選ぼうとしたようよ」
うわ~~~。もしかして、大塚さんの親戚か誰か、あのパーティに来ていた?それとも、社内でそんな噂が流れているの?
「でも、社長の、『上条グループの令嬢と婚約しろ』っていう鶴の一声で、決まってしまったわけ。結局一臣様には、選択権なんかなかったのよね。最初から決まっていたんじゃないの?上条グループの令嬢に」
「……」
江古田さんは私のことを知っているので、さっきからだんまりだ。
「上条グループの令嬢のことは、一臣氏、気に入ってないわけ?」
「そうじゃないの?だから、ほら。他の女性と付き合っていたって、そういう噂もあるでしょ?」
大塚さんが湯島さんの言うことに、そう答えた。
「だけど、今はみんなとお付き合いされてないようですよ」
ようやく江古田さんが話に参加した。というより、もしかすると私のためにそう言ってくれたのかもしれない。
「ああ、そういう噂は僕も聞いたよ」
湯島さんの耳にも入っているんだ。本当に社内のあちこちで、一臣さんの噂って流れているんだなあ。ちょっと怖いなあ。
「え?でも、フィアンセ以外とまだ仲良くしているんじゃないの?一臣様は。現にここにも、一臣様とラブラブの人が…。ねえ?上条さん。手だって繋いで歩いているくらいだし。もう、フィアンセから一臣様を奪っちゃったら?」
「は?!」
私の目が点になった。でも、そんなの無視して湯島さんと大塚さんは話を進めている。
「上条グループの令嬢から?でも、いったいどんなお嬢様なんだろうね。一臣氏が嫌がるって」
「さあ?あんまりよく上条家のご令嬢の噂は耳にしないし、いったいどんなご令嬢なのか、私も知らないなあ」
いえ。まさに、ここにいる私が…。え~~~っと…。ばらしちゃ駄目かな、やっぱり。どうなんだろう。
ちらっと私を江古田さんが見た。あ、江古田さんも困っているみたいだ。
「名前は?上条なに?」
そんな私と江古田さんの表情なんか無視して、湯島さんと大塚さんはいまだに話に夢中だ。
「え~~?なんだったかな。父がちらっと言ってた…。興味ないし、聞き逃したけど、確か…上条…」
「上条弥生だ」
え?後ろからいきなり、私の名前を誰かが言った…。
うわ!振り返ると、一臣さんが立っていた。それも、仁王立ちで眉間には深いしわが寄っている。
「弥生。遅いぞ。何してるんだ!仕事がまだ終わらないのか?」
「終わりました。ごめんなさい」
「帰るぞ。お前の兄が来るんだろ?来る前に帰って、いろいろと打ち合わせをするぞ」
「はい」
「…え?上条弥生って、上条さんの名前」
大塚さんが、ぼけっとした顔で一臣さんにそう聞いた。
「ああ、そうだ。こいつの名前だ」
「上条グループの令嬢の名前は…?」
また大塚さんは、ぼおっとした顔つきでそう聞くと、一臣さんは、
「上条弥生だ。お前の父親そういえば、俺の誕生日パーティに来ていたぞ。聞いたらわかるんじゃないのか。俺のフィアンセに選ばれた女性の名前」
とクールな表情でそう答えた。
「……え?じゃあ、上条さんがまさかフィアンセ?」
「上条グループのご令嬢?」
大塚さんと湯島さんが目を点にして私を見た。
「苗字が上条ってところで、いい加減気づけよな。ほら、弥生、行くぞ」
そう言うと、一臣さんはグイッと腰に手を回して、私を連れて秘書課のドアをあけた。
「え~~~~~~~~~~~!!!」
という、ものすごい叫び声が秘書課の部屋から聞こえてきたが、一臣さんはそんなの無視してエレベーターホールへとどんどん歩いて行った。
「あの、ばれてもよかったんですか?」
「ああ。樋口や親父も、秘書課にいる上条が、実は上条グループの令嬢だっていうことを、噂として広げている。あと2~3日中には会社中に広まるだろ」
「え…」
「そうしないと、変な噂が社外に漏れてやばいからな」
「え、でも」
「なんだ?なんの問題もないだろ?何か問題でもあるのか?」
「……まだ、正式発表の前じゃ…」
「いいんだよっ。俺の誕生日パーティで発表したのが、すでに正式発表みたいなもんだ。あれで、各企業には知れ渡ったし、ライバル社やマスコミにもどんどん情報が流れていってるみたいだしな」
「そうなんですか」
「もう少し待てば、上条グループにも、俺とフィアンセは仲がいいって噂がいって、如月氏が憤慨して怒鳴り込みに来ることもなかったんだがな」
「そ、そうですね。じゃ、今日兄に来てもらうのはやめますか?」
「やめると思うか?あの如月氏が」
「いいえ」
「だろ?有言実行。言い出したらきかない。引き下がらない。そんな熱い男なんだろ?」
「その通りです…」
「じゃ、無理だな」
「ですよね…」
一臣さんと一臣さんの部屋に入った。そしてすぐに一臣さんは、上着を羽織り、アタッシュケースを手にした。
「あれ?本当にすぐに帰るんですね」
「ああ。樋口がもう車も呼んだ」
あわわ。私も慌てて上着を着て、カバンを持った。
「弥生」
「はい?」
「屋敷に着いたら、とことんいちゃつこうな」
無理です。喉まで出かけた言葉を飲み込み、黙って頷いた。だけど、きっと顔は引きつっていたと思う。
とことんいちゃつくって、どんな?かなり怖い。
車の中ですでに私の心臓はバクバクだ。エレベーターは樋口さんがいたから、一臣さんもべったりしなかったし、車内も2人きりじゃないから、手を繋いでくるぐらいで、べったりじゃないし。
いや。手を繋いでいるだけでも、いちゃついていることになるよね。最近は、車では必ず、手を繋いでいるから、当たり前になってきてた。
これって、バックミラーにもちゃんと映ってるよね?
しっかり映っていて、樋口さんも等々力さんも黙っているんだろうなあ。
そう思うと、ちょっと恥ずかしい。
「樋口。例のAコーポレーションの専務、どうだった?なんか言っていたか?」
「いえ。特には」
「そうか」
「今、調べさせていますが、やはりあまりかかわらないほうがいい企業のようですね」
「そうだろうな。ほっとくか」
「そういうわけにも。お電話でしっかりとお断りした方がいいと思いますよ」
「秘書がいただろ?」
「はい」
「なんか言って来たか?お前に相談があるとか」
「いえ。ですが、何かの時のためにと、名刺をいただきました」
「専務からか?」
「秘書からですよ」
「…へえ。そりゃ、珍しい。いったいどういうつもりなんだろうな。俺にも相談に乗ってほしいと言って来たぞ」
「調べさせましょうか。彼女のことも」
「そうだな」
「……大変なんですね」
「ん?」
私はいきなり2人の話に割って入ってしまった。でも、一臣さんが優しく聞き返してくれた。
「みんなを一度は疑わないとならないなんて…大変ですね」
「ああ。それが緒方財閥を支えてきた家訓みたいなもんだ。でも、疑ってかかって、そのあとこいつなら大丈夫だと確信を得たら、俺も親父もとことんその相手を信頼するぞ?」
「え?」
「そうやって、信頼した人間が親父や俺の周りにはいる。樋口もそうだし、屋敷で働く連中もそうだ。エロ集団だが、一応役員たちもな?」
「目黒専務も?」
「ああ。単なるスケベ親父ってだけで、仕事はできるし、信頼はおけるからなあ。まあ、青山ゆかりが見張っているから、もう、そうそう女性社員に手を出すこともできなくなるだろ。今は上野もいないし」
「上野さん?」
「あいつは横浜にある子会社に出向させた」
「え?!そうなんですか?だから最近見なかったんですね?」
「ああ。俺の周りをウロウロしすぎだし、内情も知りすぎてて危ない奴だったからな」
「本当に何かあったんですか?たとえば、スパイだとか」
「ないようだ。だが、あんまりうろうろされて、変な噂でも立ってスキャンダルになったら困るだろ?それにお前も、上野が俺にひっついていたら、いい気しないだろ?」
「はい」
あ、思わず素直にはいって言っちゃった。でも、一臣さん、ちゃんとそういうこと考えてくれているんだ。
「あいつの家は横浜にあるし、あいつの婚約者と同じ会社に飛ばしたから、もう男遊びもできなくなるんじゃないか」
「え?婚約者…」
「その子会社の社長の息子だ。もう、遊べないどころか、そのまま結婚まであの会社に縛られるんだ。ざまあみろだな」
「は?」
「ははは。あいつも俺と似たり寄ったりで、親が決めたフィアンセなんだよ。あいつの父親の会社と、その会社は提携を結んででかくなった。緒方ヘルシーフーズの製品を一手に引き受けて作っている工場なんだよ。その男と結婚するまでは遊んでいようと思っていたんだろ」
「はあ…。なるほど」
一臣さんの、女番っていう感じなのかな。そういえば、いろんな人と付き合っている感じのことを言っていたっけな。
「あわよくば、俺とうまくいったら、そいつと婚約も破棄できるとふんでいたんじゃないのか?上野は。まあ、俺のフィアンセには釣り合いがとれないって、自分じゃわかっていなかったんだろうな」
「釣り合い?」
そんなの、私にもないと思うけどな。あ、そうか。上条グループか。そう思うと私って、上条グループがないとなんにもできない、なんの力もないってことかな。それになんの魅力もなかったりして…。
「ん?なんだよ。まだ、なんか気になることがあるのか?やたらと静かになったな」
「釣り合いがとれるとか、とれないって、どういうことかなって思って…」
「そりゃ、俺に気にいられるかどうか。俺に惚れられるかどうかだろ?」
「…え?」
「それに、他のやつからも好かれるかどうか。俺の仕事をしっかりとサポートできるかどうか。俺と一緒に会社を盛り上げていけるかどうか。それから…。ああ、俺の子供を元気に産んで、一緒に楽しく育てていけるかどうか」
「……そ、そういうことですか?」
「俺がこいつじゃないと駄目だって、思えるかどうか。唯一この世の中で俺が惚れた女かどうか」
「……」
「上野じゃないだろ?それは」
「……」
「お前しかいないだろ?ん?」
そう言って一臣さんは、私の顔を覗き込んだ。
うひゃ~~~~~~~~~~~~~。顏、熱い。湯気立ってるかも。
私は思い切り下を向いた。きっと、バックミラーに私の顔が真っ赤なのが映っているはず。
「すみません。さすがに今のは、聞いているこっちが感動して泣きそうですよ」
等々力さんが、運転しながら鼻をすすった。
え。泣きそうって?
「弥生様、良かったですね。でも、わたくしもそう思いますよ。弥生様以外で、一臣様に釣り合う女性などいません」
ええ?!等々力さん、そんなふうに思っていてくれたの?
「そうですね…。逆に一臣様にはもったいないくらいですね」
「樋口!お前、一言よけいだ!」
樋口さんに一臣さんがそう言うと、樋口さんはくすくすと笑った。その横で等々力さんも笑っている。
聞かれたことは恥ずかしかったけど、そう2人が言ってくれたことは嬉しかった。