~その11~ メイドの喜多見さん
朝食を食べ終え、顔を洗いに行ってもどると、病室には樋口さんと知らない女の人がいた。
「弥生様。おはようございます」
「おはようございます」
「こちらの方は、お屋敷で一臣様の身の回りのことを任されている、喜多見さんです」
「あ、上条弥生といいます。よろしくお願いします」
私はぺこりとお辞儀をした。すると喜多見さんも、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
と深々とお辞儀をしてから顔を上げると、
「とても可愛らしいお嬢様ですねえ、樋口さん」
と優しい笑顔でそう言った。
「喜多見さん。弥生様は上条グループのお嬢様です。なので、ほかのお嬢様とは、ちょっと違った…」
「わかっていますよ、樋口さん。今の挨拶を見ただけで」
優しそうだけど、なんだか眼光が鋭いというか、もしかすると怖い人かも?
「このあと、検査があるようですが、その検査の結果が出ましたら、退院ですよ、弥生様」
「あ、はい」
「では、喜多見さん。このあとはよろしくお願いします」
「はい」
え?嘘。
「帰ってしまうんですか?樋口さん」
「はい。お屋敷に一臣様を迎えに行って、それからいくつか、回らないとならないところがありますので」
「…一臣様、今、お屋敷ですか?」
「はい。行き違いで戻られたようですね。ずっとこちらにいたようですが…」
「あ、はい。6時頃起きて、帰られました」
「6時に起きたというと?」
樋口さんが、目を丸くして聞いてきた。
「え?えっと?」
「弥生様が6時に起きられたのですか?ああ。それで、一臣様もお屋敷に戻られた…?」
「はい。6時に目が覚めて、起こすつもりはなかったんですけど、結果的に一臣様のこと、起こしてしまって…」
「は?」
「あ、あの。とてもよく眠られていたのですが…。もっと、寝かせてあげるべきだったでしょうか」
「一臣様、こちらで昨日は休まれたのですか?」
あ。私、変なことを言ってしまった?ベッドは一つしかないし、一緒のベッドで寝ていたなんて、樋口さん、それで驚いているの?
「あ、あの。きっと、お疲れになっていたんですよね?それなのに、ずっとそばにいてくださって。えっと…。お仕事をされていました。書類の束を黙って見てらして…。それで、その…」
「はい」
「えっと」
嘘つけない。ごめんなさい。一臣様。
「眠くなって、ちょっとだけ寝るつもりが、朝まで寝てしまったようで」
「一臣様が…ですか?」
樋口さんだけじゃなく、喜多見さんまでが目を丸くした。
「え?はい」
なんか、とっても私は変なことを言ってしまった?
「一臣様、眠られたんですか…。そうですか。それは良かった」
「え?」
「あ。すみません。余計なことを…」
樋口さんが言葉を濁した。あ、もしかして…!
「不眠症…のことですか?」
私はいきなり昨日一臣様が言っていたことを思い出した。
「一臣様から、お話を聞いていますか?」
樋口さんが私に聞いてきた。その横で、喜多見さんも興味深そうな顔をしている。
「あ、はい。昨日言ってました。顔色が悪かったので、早く家で休んでくださいと言ったら、家でゆっくりと眠れたためしがないって」
「はい。一臣様は、ここ最近ずっと、不眠症で病院にも通われていたくらいです」
「え?!」
「一度、睡眠薬も飲まれたのですが、翌日具合が悪くなったので、仕事に差し支えるからと、薬の飲用はおやめになられました」
そんなに?そんなに大変だったんだ。
「樋口さん、弥生様のことは大丈夫ですので、どうぞ仕事に戻られてください」
喜多見さんがそう言うと、樋口さんは、
「では。失礼します」
と丁寧に頭を下げ、病室を出て行った。
「あ、あの…」
喜多見さん。いくつくらいかな。50代?もし、生きていたら母と同じくらいかな。
「私、一人でも大丈夫です。喜多見さんもお屋敷に戻られても…」
「そうはいきませんよ。一臣おぼっちゃまの大事な奥様になられる方です。ちゃんと身の回りのお世話をさせていただきます」
そう言うと、樋口さんが持ってきて置いていったカバンの中から、服や下着を取り出した。
「お着替えもなくて、お困りだったでしょう?」
「あ、ありがとうございます」
私の服。下着は違うみたいだけど。
「洋服は昨夜、アパートの荷物をお屋敷に運ぶ際、樋口さんが持ち出したものです。下着はさすがに勝手に持ち出すわけには行きませんからね、わたくしが用意させていただきました。サイズがわからなかったので、一応、確認はさせていただいたのですが」
「か、確認?」
「はい。一臣おぼっちゃまが用意するようにと言われたもので、大丈夫かどうか、一応細川女史にも確認いたしました。それで、二つのサイズをご用意しましたが、どちらがよろしいですか?」
「細川女史にも聞かれたんですか?」
「一番身近にいた女性なので、細川女史に聞くのが一番だろうと、樋口さんがおっしゃられていたので」
び、ビンゴ。さすが細川女史。っていうか、一臣様の用意したのって、ずいぶんと小さ目。私の胸がそんなに貧相だと思っていたわけ?ちょっと悲しいんですけど。
「そっちの、細川女史が言っていたサイズの方で」
「やはり。同じ女性に聞いたほうがよろしいですよね。一臣おぼっちゃまに、このサイズで用意しておけと言われたあと、一応確認をとってみて良かったです」
にこりと喜多見さんは微笑みながら、戸棚を開いた。戸棚の中には、昨日着ていた服がハンガーにかかっていた。
「検査がまだあるということですので、そのあと着替えたほうがよろしいですね」
「はい。ありがとうございます」
私は、戸棚に服をしまっている喜多見さんの横でしばらく黙っていたが、無言でいるのにも耐えかね、
「喜多見さんは、もう長く緒方財閥のお屋敷で働かれているんですか?」
と聞いてみた。
「はい。もうかれこれ…、35年になりましたか…」
「え?そんなに?じゃあ、一臣様がまだ生まれる前から?」
「はい。ですから、一臣おぼっちゃまが赤ちゃんの頃からお世話をさせていただいています」
そうなんだ。そうなんだ!
「あ、あの。子供の頃の一臣様は、どんなお子さんだったんですか?」
私はワクワクしながら、喜多見さんににじり寄ってそう聞いた。
「どうぞ、ベッドに入って、ゆっくりとなさってください」
「え?」
「わたくしも、あちらの椅子に腰掛けさせていただきます」
「あ、どうぞ。すみません。私ったら、そういうのも気が回らないで。あ!お茶とか入れてきましょうか?」
「いえいえ。お世話をするのはわたくしのほうですから、結構ですよ。弥生様の方こそ、何かお飲みになりますか?」
「大丈夫です!」
私は早くに話が聞きたくて、いそいそとベッドに潜り込んだ。そして、枕を腰に当てがい、座って喜多見さんの方を向いた。
「一臣おぼっちゃまは、とても無邪気で可愛らしいお子さんでしたよ」
「そうなんですか」
「龍二おぼっちゃまといつもお庭を駆け回って、私たちはおふたりを追いかけるので大変でした。いたずらもよくしていましたし」
へ~~~!
「ただ、奥様も旦那様も、いらっしゃらないことが多くて、寂しそうでした。特に夜は、おふたりで寄り添って寝ていることがほとんど…」
「龍二さんと仲良かったんですね」
「ええ、あの頃は…」
喜多見さんは遠い目をして、
「よく、おふたりに寝る前、絵本を読んで差し上げていました」
と、優しくまた話しだした。
「一臣様も、普通の男の子だったんですね」
「ええ。とても元気でやんちゃな男の子でした」
「…そうだったんだ」
「小学生に上がった頃から、がらりと変わってしまいましたが」
「え?」
「学校から帰ってくると、入れ代わり立ち代わり、大人がやってきて、一臣おぼっちゃまに勉強を強いるようになったんです」
「…英才教育?」
「はい。すっかり、一臣おぼっちゃまから笑顔が消えました。龍二おぼっちゃまも、一緒に遊んでくれる一臣おぼっちゃまが、急に忙しくなってしまって、一人で寂しそうでした」
「…龍二さんは英才教育は受けられなかったんですか?」
「受けていましたよ。でも、一臣おぼっちゃまとは量が違いました。龍二おぼっちゃまは他にも習い事をしたり、小学校のお友達もできて、一緒に遊ぶこともありましたが、一臣おぼっちゃまにはそういった時間が持てないほど、詰め込まれていましたね」
「……まだ、小学生なのに」
ぼそっと私がそう言うと、喜多見さんは私を優しく見た。
「弥生様のことは聞いております。上条グループは一風変わった子育ての仕方をしているようですね」
「いいえ。高校生までは、普通です。家族仲良くて、楽しくて」
「そういうところが、変わっていられるところです」
「え?なぜですか?どこがですか?」
「一臣おぼっちゃまのように、ご両親が忙しく家にいない。そんなおぼっちゃまやお嬢さまがほとんどですよ」
「……でも、私は嫌です。そんな家庭」
「では、弥生様もお子様が生まれたら、ずっとおそばにいられるのですか?」
「もちろんです!私の母は私が中学生の時に、病気で亡くなりましたが、ずうっと私たち子供のそばで、見守っていてくれました。元気だった頃は、一緒にお料理したり、買い物に行ったり、旅行に行ったり。それから、みんなでハイキングや、キャンプ、いろんなことをしたんです」
「へえ。一臣おぼっちゃまが聞いたら、さぞかし羨ましがるでしょうねえ」
「だったら、子供が生まれたら、一臣様もされたらいいんです!」
「は?何をですか?」
「子供たちと一緒に家族でキャンプ。旅行。花火大会。海水浴や、あ、あれも楽しかったです。肝試し!」
「………」
「一臣様が、ずうっと寂しい子供時代を過ごしたのなら、これからはいっつも周りには誰かがいて、賑やかで楽しい毎日を送られたら…。いくらでもやり直し出来ますよね?」
「そうですね。弥生様が奥様でしたら、きっと」
「私が?あ…。それって、一臣様にはご迷惑になったりしますか?また自分勝手に思い描いて、自分よがりだって思われますか?」
「一臣様にですか?」
喜多見さんが静かに私に聞いてきた。
「はい」
「……いいえ。もし、一臣おぼっちゃまがそう言ったとしても、心の中では喜ぶと思いますよ」
「本当ですか?!」
「幼少の頃、本当に一臣おぼっちゃまは、やんちゃで無邪気で…。きっとその頃のことを思い出し、喜ぶと思いますよ。わたくしも、あの頃のような賑やかなお屋敷になったら、とても嬉しいです」
喜多見さんはまた遠い目をしてから、それから私を見た。
「弥生様」
「はい」
「……お屋敷に来られたこと、わたくしども従業員一同は心から喜んでいます」
「え?」
「弥生様にお仕えできることを、心から喜んでいますよ」
うそ。
じわ~~~~~~~~ん。な、涙が出てきた。
「弥生様?何かわたくし、変なことを申しましたか?」
「あ、あの。いえ!ちょっと今、感激して。私もとってもとってもとっても、嬉しいです。喜多見さん!よろしくお願いします!」
私はそう言ってから、布団に頭が沈み込むくらい深くお辞儀をした。すると、喜多見さんが優しく笑いながら、
「こちらこそ」
とそう言ってくれた。
ああ、ちょっと怖そうな人だなんて思ってごめんなさい!
お父様、私、緒方財閥のお屋敷でも、頑張っていけそうです。
そうだ。一臣様も言っていた。私のひとつだけの取り柄、それはこの訳のわかんないヘンテコパワー。前向きさと元気!
元気に、やっていきます!!!
すっかり私は元気を取り戻し、そのあとも喜多見さんと一臣様のお話や、お屋敷で働く人たちの話を聞かせてもらった。
喜多見さんは今、56歳。
「母が生きていたら、喜多見さんと同じくらいの年齢なんです。なんだか、母を思い出します。母と思って慕ってもよろしいですか?」
そう聞くと、喜多見さんはものすごく嬉しそうに頷いてくれた。
お屋敷には、今、社長と奥様、そして一臣様が暮らしている。
弟の龍二さんはアメリカにいて、社長と奥様も、出張やホテルに泊まることも多く、ここ数週間、ずっとお屋敷にも戻られていないそうだ。
だから、お屋敷に常に戻られるのは、一臣様だけなのだそうだ。
お屋敷というくらいだから、かなり大きいんだよね。そこに一人で住んでいるだなんて。
喜多見さんや、ほかの従業員の方は、敷地内にある従業員用の寮に寝泊まりしているらしい。
そこには、社長付きの運転手、一臣様の運転手、コックさんや、メイドさん、それになんと、秘書の樋口さんまでが住んでいるらしい。
「樋口さんって、ご結婚は?」
「していませんよ。独身です」
「あ、では、喜多見さんは?」
「わたくしは結婚もしておりますし、もう娘も結婚していて、子供が二人もいる。わたくしは立派なおばあちゃんなんですよ」
「え?でも、喜多見さんも寮にお住まいじゃ」
「ええ。旦那はコック長をしています」
そうか。職場恋愛ってやつか。
「娘は一臣おぼっちゃまより8つ年上ですが、よく可愛がっていました。一人っ子なので、可愛い弟ができたみたいに」
「娘さんも寮で一緒に暮らしていたんですか?」
「ええ。一臣おぼっちゃまも、龍二おぼっちゃまも、私や旦那、娘によくなついていましたが、奥様に従業員の寮に来ているのを見つかると、とても叱られて…」
「なぜですか?」
「…なぜでしょう。わかりませんが、奥様はそういうことにとてもうるさい方でした。従業員と仲良くしたりするのを、よく思われていなかったようです」
どうしてかな。一臣様も龍二さんも、そんなに慕っていたなら、それでいいと思うんだけどな。
「信頼されていなかったのかもしれませんね」
「え?」
「奥様は、あまり人を信頼なさる方ではなかったので」
「……」
疑ってかかる。人を信用しない。それが緒方財閥の考え方だって言っていたっけ。えっと、あの怖そうな社長の第一秘書の…。
「あ、まさか、辰巳さんって人も、寮にいるんですか?」
「社長の秘書の?ええ。20代の頃までいらっしゃいましたが、ご結婚されてからは出て行かれましたよ」
そうか。ちょっとホッとしたりして。
「……樋口さんは、なぜ独身なんでしょうか。とても優しくて、紳士な方なのに」
「ご結婚はされたんですが」
「え?」
「奥様は、結婚して2年で、家を出て行かれてしまったんです」
「え?え?なんでですか?」
「樋口さんは、本当に仕事熱心なので、奥様よりお仕事を優先されて、奥様は寂しい思いをしていたんではないでしょうか。詳しいことは知りませんが」
「………」
そうか。でも、確かに樋口さんって、お仕事熱心っていうか、常に一臣様に仕えているって感じだもんなあ。
「樋口さんと一臣様には、とても深い絆っていうか、信頼関係がありますよね」
「そう見えますか?」
「はい」
「……。樋口さんは、社長からも信頼されていて、一臣おぼっちゃまのお世話をするように仰せつかっていたんですよ」
「へえ。社長が信頼するって、もしかしてすごいことなんじゃ…」
「社長は社長夫人とは違って、本当に信頼できる人間だと認めると、とことん信頼する人ですよ。だから、社長の周りには、彼を信頼し、慕っている部下が何人もいるんです」
「樋口さんもそのお一人?」
「はい。わたくしもです。だから、一臣おぼっちゃまの身の周りの世話を任せられています」
「そうなんですね」
「きっと弥生様も、社長は信頼していると思いますよ」
「え?私ですか?」
「お屋敷に住まわれるのは、一臣おぼっちゃまの意向だけではなく、社長の意向でもあると思います」
「婚約発表も近いからって、一臣様は言っていましたが」
「本来は婚約発表されてから、お屋敷にお出迎えする予定でしたから。早まったということは、それだけ社長から信頼されたということではないですか?」
あ。樋口さんもそんなこと言ってたっけ。でも、私、何かしたっけ?トイレのつまり直したり、電気交換しただけだよ。信頼されたっていうより、監視するようになったんじゃないかなって、思うんだけど。
その後、看護師さんに呼ばれ、検査を受け、なんの異常もなく私は、無事退院した。
喜多見さんとは、ほんの数時間一緒に話しただけだけど、とっても仲良くなれた。
病院には一臣様付きの運転手の等々力さんが、迎えに来てくれた。
一臣様は、樋口さんが運転する車で移動をしているらしい。
「一臣おぼっちゃまも、信頼している人しか、側近には置きません」
「え?」
「弥生様のことを、ちゃんと大事に思われているんですね。自分の運転手の車を迎えにこさせるくらいですから」
車に乗ると、喜多見さんがそう言った。
「あ、あの。私、上条弥生といいます。これからお屋敷で住むようになります。よろしくお願いします」
まだ発進する前に、私が等々力さんにそう言うと、
「こちらこそ、よろしくお願いします。わたくしは、一臣様の運転手の等々力ですが、これからは弥生様の運転手でもあるのですから。いつでも、用を言いつけていただいでいいですよ」
と、等々力さんは、優しくそう言ってくれた。
私は、なんとなく漠然と感じていた。一臣様の周りってもしかすると、優しくて温かい人ばかりなんじゃないのかなあ。
一臣様が信頼している人だからだろうか。
そんなことを感じながら、屋敷に向かって走り出した車の中で、私はなぜか安心する気持ちでいっぱいになっていた。