~その10~ 見せつける
会社に着いた。いつものごとく、役員専用の入り口で入るのかと思ったら、
「あ。これからは、社員と一緒のエレベーターに乗るぞ。等々力、正面玄関の前に車を止めてくれ」
と一臣さんはそう言った。
「はい、かしこまりました。早速仲がいいところを見せつけるんですね?」
等々力さんは嬉しそうにそう言った。一臣さんは何も答えなかった。
それから、正面玄関に車を止め、樋口さんが先に降りてドアを開けてくれた。時間は8時40分。9時から始まる会社に続々と社員が出社している時間だ。正面玄関にも、1階のロビーにも人はたくさんいる。
そんな中車が止まり、一臣さんの秘書が後部座席のドアを開いたのだから、みんなが一斉にこっちに注目して、一臣さんが降りてくるのを期待の眼差しで見るのも無理はない。だけど、降りてきたのは、単なる女性社員。
「誰?」
「知らない。でも、あの人って一臣様の第一秘書の樋口さんでしょ?一臣様は乗っていないの?」
あきらかに一臣様を一目見れるとワクワクしていた様子の、女性社員がぼそぼそとそう私の近くで話している。
私のあとに一臣さんが車を降りてきた。すると、
「あ、一臣様よ。朝から見れちゃった。ラッキー」
と、そういう声が後ろから聞こえてきて、
「おはようございます」
と、その女性が一臣さんに元気に挨拶をした。
さっき、ブツブツ私のことを言っていた女子社員とはまた別の子だ。本当に人気あるなあ。
男性社員も、
「おはようございます」
と、姿勢を正しお辞儀をした。
一臣さんは特に答えず、私の背中に腕を回し、正面玄関を入って行った。
受付嬢はすぐに一臣さんに気が付き、席を立ち、
「おはようございます。一臣様」
と綺麗なお辞儀をした。
「ああ」
受付嬢にだけは返事をするのかな。あ、でも昨日はお辞儀されても無視していたから、きまぐれなのかしら。
それとも、綺麗な人だから…なんてことはないよね。
それからエレベーターホールの前に行くと、さらに注目を浴びた。一臣さんはまだ私の背中に腕を回したままだし。
「おはようございます、一臣様」
にっこりと微笑みながら挨拶をしてきた女性がいた。あ、日吉さんだ。
「ああ、おはよう」
顔見知りだとちゃんと答えるんだな。
「おはようございます」
私も日吉さんに挨拶をすると、
「……おはようございます。上条さん」
と私の背中に回っている一臣さんの腕を見てから、日吉さんは私に挨拶をした。
「昨日は視察いかがでしたか?」
「ああ、また明後日のミーティングで報告をする。今日は日吉は視察に行くんじゃないのか?」
「私は明日です。今日は菊名さんが行っています。張り切っていて、直接工場のほうに行くと言っていましたよ。また、綱島さんも行くらしいから、綱島さんも大変ですよね」
「いいんじゃないか。リーダーなんだし。でも、あの二人で行ったのか?」
「はい」
「それじゃ、綱島も大変だな」
「どうしてですか?」
日吉さんが不思議そうに聞いた。
「ああ、あの菊名っていう社員は、気が強そうだからな」
一臣さんはそう言うと、来たエレベーターに乗り込んだ。やっぱり、ど真ん中に。私はそっと隅に行こうとしたが、がっしりと一臣さんに腰を抱かれていて、動けなかった。
それも、エレベーターには多くの社員が乗ってきて、思わず一臣さんに引っ付いてしまった。
あれ?日吉さんまでが一臣さんにくっついていない?混んでいるから仕方ないけど、一臣さんの胸のほうに顔を向け、まるで一臣さんの胸に抱かれているみたいな体勢になってる。
それ、ちょっと、いや、かなり嫌かも!
やっぱり、役員専用エレベーターで、2人きりで行きたいよ~。
「ごめんなさい。一臣様。エレベーターが混んでいて、こんなに接近することになって」
そう日吉さんは上目づかいで一臣さんを見た。あ!今日の日吉さん、スーツの下に胸元がかなり空いているタンクトップを着ているけど、上から見たら胸の谷間しっかりと見えちゃうんじゃないの?
それも、けっこう胸大きいし、なんか、嫌かも。その胸の谷間、一臣さん、見ないで!
「ごめんなさい。一臣様」
そう日吉さんがまた謝った。ちょっと恥ずかしがりながら。すると、
「後ろ、空いているんじゃないのか?もっと詰めたらいいだろ」
と一臣さんは、むっとしながらそう言った。
私の後ろにいる人たちが、慌てたように詰めだした。一臣さんの後ろも隙間があくと、一臣さんは一歩後ろに下がり、なぜか私を自分の胸のほうに引き寄せた。
あ…。日吉さんと一臣さんの間に、入り込むみたいになっちゃった。それも、一臣さんは思い切り私を抱き寄せたから、私はべったりと一臣さんの胸に顔をうずめる形になってしまったし。
それだけじゃない。アタッシュケースを左手で持ち、私の背中に回している右手は、がっしりと私を抱きしめている。
どひゃ~~。これでは、抱き合っているみたいだよ。
4階に着いた。エレベーターの扉が開くと、日吉さんは、
「一臣様、申し訳ありませんでした」
と謝りながら、エレベーターを降りようとした。
「ああ、これからはあんまり俺に引っ付くな。女に引っ付かれるのはあまり好きじゃない」
一臣さんは謝ってきた日吉さんに、クールにそう言ってのけた。日吉さんは顔を引きつらせながらエレベーターを降り、扉は閉まった。
エレベーターの中にはまだ、社員が何人もいる。でも、途中で降りた人もいるから、隙間は空いた。だけど、一臣さんは、私をがっつりと抱きしめたままだ。
どこのだれが、女の人に引っ付かれるのが好きじゃないって?じゃあ、この状況は何?私は女じゃないわけ?
「一臣様、弥生様も15階でよろしいですか?それとも、一度秘書課に行かれたほうがよろしいですか?」
エレベーターの隅にいた樋口さんが、静かに一臣さんに聞いた。
「ああ。そうだな。特に今日はこっちに用事もないし…。秘書課も忙しいようだから、秘書課の手伝いに行ってもらおうかな」
「はい、わかりました」
私はそう答えながら、一臣さんの腕から抜け出そうとした。が、無駄な抵抗だった。
し~~ん。何人も社員は乗っているのに、すっごくエレベーターの中は静かだ。そして、各階に止まりながら、エレベーターは10階まで行くと、そのあとは私、一臣さん、樋口さんの3人だけになり、ようやく私はほっとした。
でも、一臣さんは私の背中から腕を離してくれない。
「やっぱり、役員専用にするか。毎朝、こんな混んでいるエレベーターに乗るのもなあ」
「はい。私も、役員専用がいいです」
「なんでだ?混んでいるエレベーター、お前なら慣れていそうだけどな」
「はい。でも、あんなふうに女性社員が一臣さんに引っ付いている図は、見たくないっていうか」
「だから、お前のことを抱き寄せて、日吉のことは引き離しただろ?それも、引っ付かれるのは好きじゃないって言ったんだから、もう引っ付いてこないぞ?」
「日吉さんは、そうかもしれませんが」
「ああ。そうか。お前、あんまり知らないのか」
「え?」
「俺に挨拶してくるくらいの女性社員はいるが、それ以上はそうそう寄ってこないのも、俺が女性に対して冷たいとか、あんまりべたべたされるのが好きじゃないとか、そういうのを知っているからだぞ?」
それ、今の私を抱きしめている状況で言われても、説得力ない。
「まあ、たまにいたけどな。上野みたいな懲りないやつが…。ああいうのは面倒だよな。付き合い出した途端に、やたらとくっつくようになったし」
「……へ、変なこと聞いてもいいですか?」
「い、や、だ。何度言ったらわかるんだ。変な質問は受け付けない」
「…。はい。私もやっぱり、いいです。聞きたくないです」
「……ん?聞きたくないのに聞こうとしたのか?」
「はい。でもいいです」
「……」
一臣さんは片眉をあげた。そして黙り込んだ。
14階に着いて私だけ降りた。そしてすぐに秘書課に向かった。
「おはようございます」
そう言ってドアを開くと、みんながいっせいに私を見た。もう秘書課のみんなは、席に座って仕事を始めていた。
そうだった。ここの人たち、8時半には来ているんだよね。遅くなっちゃった。
「上条さん、一臣様のお仕事のサポートは今日はいいの?」
細川女史が聞いてきた。
「はい。秘書課の手伝いに行けと言われたんですが」
「助かった。昨日も人が足りなくて、大塚さんに来てもらったの。今日も午前中、みんな会議だのなんだのって、要請が来ているから、事務の仕事が終わらなさそうで大塚さんを呼んでいたのよ。でも、上条さんもいるなら、たまってしまった仕事も終わりそうだわ」
「そんなにたまっているんですか?」
「ええ。早速で悪いけど、この仕事を頼んでいいかしら」
「はい」
私はすぐに席に着いて、パソコンを起動させ、頼まれた仕事を開始した。
9時を過ぎると、要請を受けた秘書たちが、秘書課の部屋を出て行った。江古田さんも会議の準備があるらしく、
「上条さん、もし時間があったら、お昼一緒に食べましょうね。では」
と言って、部屋を出て行き、そのすぐあとに、大塚さんが秘書課の部屋に入ってきた。
「あ。上条さん!」
「おはようございます」
「わあ。良かった~~~。昨日、私一人で事務仕事終わらなくて、今日にまでまたがっちゃったのもあったのよ。申し訳ないって、朝一で来たんだけど、上条さんがいてほっとした」
「大塚さん、すみませんでした。庶務課の仕事もありますよね」
「ううん。ないっ!」
「え?」
「あそこ、本当に仕事がないわね。私がいなくたって、臼井課長と新しく来た新人でどうにかなるもの。ずっと忙しくても秘書課にいたいぐらいだわ。秘書の仕事楽しかったし」
そう言いながら、大塚さんはもといたデスクに着くと、パソコンを開いた。
「細川さん、昨日残してしまった仕事の続きしますね」
「ええ。よろしくね、大塚さん。あなたが来てくれて、本当に助かる。臼井課長にも感謝だわ。それより、新人君、元気?」
「はい。最近はいじめても、うまくかわされてしまって、私としては面白くないんですけどね」
「あら、そう。じゃあ、けっこう生き残って行けそうなタイプね」
「はい」
細川女史も、新人いびりを容認しているのかなあ。どんな人が庶務課に入ったのか気になる。今度こっそりと様子を見に行ってみようかな。臼井課長にも会いたいし。
「でも、変わったお名前の人ですよね。伊賀野さんなんて、忍者みたいなお名前」
大塚さんがそう言った。細川女史は、
「そうね」
と引きつり笑いをしていた。
あ、まさか。また日陰さんのように忍者の出の人だったり。それも、伊賀野忍者?
それから、細川女史、大塚さん、私だけになった秘書課は、パソコンをうつ音だけが響いた。
12時近くになり、頼まれていた仕事も終わり、ファイルを細川女史に返すと、
「もうできたの?午前中には無理かと思っていたんだけど、本当に上条さんは仕事が早いわね」
と喜ばれた。
「私もできました。上条さんと一緒に、お昼を食べて来てもいいですか?」
大塚さんがそう言って席を立った。
「あ。でも、江古田さんにも誘われていたんです」
そう私が言うと、
「その前に、一応上司に何もお昼に用事がないか、聞いたほうがいいかも、上条さん」
と、細川女史に言われてしまった。
上司…?あ。一臣さんか!
「は、はい。ちょっと15階に行って、確認してきます。大塚さん、待っていてくださいね」
「え?じゃあ、一臣様が上条さんの上司?上条さん、第二秘書にでもなったの?」
「いいえ。でも、一臣さん付きの秘書なんです。ではちょっと、聞いてきます!」
私は15階にすっ飛んで行った。そういえば、カバン、樋口さんが15階に持って行ってくれたんだ。そしてその中に携帯も入れっぱなし。もし、一臣さんからメールが来ていたらどうしよう。怒られるかも。
それも、お昼をどうするか聞きもせず、勝手に大塚さんや江古田さんとランチをしそうになったし。
どうもまだ、私は一臣さん付きの秘書なんだとか、補佐なんだとかっていう自覚が足りていないよなあ。
IDカードをかざして、一臣さんの部屋に入ると、受付には樋口さんがいた。
「弥生様、秘書課の仕事は済みましたか?」
「はい。それで、お昼を大塚んや江古田さんに誘われて…。一臣さんは?」
「もうお部屋にいますよ。I物産の社長も帰られましたし」
「そうですか」
「大塚さんと江古田さんとお昼を食べるなら、そう一臣様にきちんとお話しした方がいいですよ。特に昼は何もないですし、弥生様は自由にお昼休憩をとられてもいいと思います」
「はい」
樋口さんにそう言われ、私は一臣さんの部屋のドアをノックした。一臣さんは、
「弥生か?入れ」
とそう言って来た。
「はい」
ドアを開けて入ると、
「お前って、インターホン使ったためしがないな。まあ、俺の部屋のドアをノックをするのはお前だけだから、わかりやすくていいけどな」
と言われてしまった。
「インターホンで会話するの、なんだか恥ずかしくて」
「なぜだ?」
「な、慣れていないので」
「面白い奴だな。そういえば、変な質問、受け付けてやるぞ。なんだったんだ?」
ああ、朝の…。
「いいんです。それより、お昼なんですが」
「ああ。俺も時間があるし、どこかに食べに行くか?」
「……えっと」
「なんだ?」
「大塚さんと、江古田さんにランチ、誘われて」
「え?!」
うわ。思い切り眉間に今、しわが寄った。
「ら、ランチ、行ったら駄目ですか……?」
ああ、声が最後のほうは、フェイドアウトしちゃった。
「………」
黙り込んじゃった。へそ曲げた?断らないと駄目だったかなあ。
「そうか。お前は恋人より、女友達をとるのか」
え?こ、恋人!?一臣さんのこと?だよね。
「ああ、そうか。薄情な女だったんだな、お前って」
え~~~~?!
「ごめんなさい。断ってきます」
慌ててそう言うと、一臣さんは私のことを抱きしめ、
「あほ。冗談だ。たまには秘書課のやつとも、つるんでいいぞ?」
と優しくそう言ってから、チュッと頬にキスをしてきた。
「でも、一臣さんは?」
「俺か?そうだな…。たまには、樋口と二人でどこかで食べるか…、等々力も誘ってみるかな」
一臣さんはおどけた顔をして見せた。
「お、女の人と、一緒にランチとかは…」
「そういうのはしない。面倒くさいしな」
「面倒?」
「ああ。まあ、お前は気にしないで行って来いよ。あ、金あるのか?カード持って行くか?」
「大丈夫です。5月のお給料もまだ残っているし」
「ああ。お前もちゃんとお給料もらっているんだっけな?」
「はい」
「じゃあ、うまいもん、食って来いよ。な?」
キュキュン!なんか、一臣さんの声も表情も優しい。
ムギュ!一臣さんに抱きついた。それから、私からも一臣さんの頬にキスをした。唇にすると、口紅がおちちゃうからだ。
でも、うっすらと一臣さんの頬に口紅がついてしまった。
「あ、ごめんなさい。口紅ついちゃった。今拭きます」
「ああ。いい。自分で拭くから。でも、ついでだから、唇にもつけていけよ」
そう言うと一臣さんは、私の唇にキスをしてきた。それも、大人のキス。
「ん…。ん~~~~~」
長い。腰に両手を回され、離れることもできない。腰、砕けそう。
やっと唇を離してくれたときは、腰に力が入らなくなっていた。
へなへなと座り込むと、
「あ~~あ。また腰抜かしたな」
と呆れながら言われてしまった。
腰抜かすほどのキスをしたのは、一臣さんなのに。
両腕をつかまれ、ソファに座らされた。そして、
「ほら、口紅出せよ。塗ってやる」
と一臣さんも隣に座った。
「でも、もうお昼を食べるだけだし」
「あほ。俺の部屋に来て、口紅が取れているってなったら、いろいろと大塚に詮索されるぞ?いいのか?」
「だ、駄目です」
「俺はいいけどな」
「駄目です。塗ってください」
私はそう言いながら、口紅を一臣さんに渡した。一臣さんはまた、私の顎を持ち、真剣な目で私の口紅を塗った。
「なんだか、だんだんとお前の口紅を塗るのもうまくなってきたぞ」
「……」
そんなことを言われても、なんて答えていいのやら。これからもお願いしますとでも、言ったほうがいいのかな。でもそれって、キスをこれからもしてくださいって言っているようなものだしなあ。
「ほら、行ってこい。午後は俺の仕事の補佐だぞ?1時になったらさっさと15階に来いよ?」
「はい。行ってきます」
カバンを持って、一臣さんの部屋を出た。
「樋口さん、お昼に行ってきます」
「はい。一臣様のお許しが出ましたか?」
「もちろんですっ!だって、一臣さんは、寛大ですから」
そう言うと、樋口さんは一回目を丸くして、それからくすっと笑った。
「いってらっしゃいませ、弥生様」
「はい。行ってきます」
そして私は、14階におりていった。