~その6~ 膝の上
会社に戻った。一臣さんは車から降りてもずっと、綱島さんと話をして、エレベーターも一緒に乗った。4階に着くと、
「今日のレポート出しておけよ。明日までな」
と、一臣さんは綱島さんに言って、エレベーターのドアを閉めた。
綱島さんは、ドアが閉まるまでお辞儀をしていた。
「さすがですね。綱島さん。リーダーに抜擢されただけのことはありますよね」
「そうだな」
あれ?なんだか、いきなり無口になっちゃった。2人きりのエレベーター、静かになっちゃったなあ。
15階に着き、一臣さんの部屋に行った。受付には樋口さんがいて、
「おかえりなさいませ」
と、すぐに椅子から立ち上がり挨拶をした。
「ああ。樋口は仕事、静かにできたか?」
「はい。おかげさまで、今までたまっていた仕事を片づけることができました」
「そうか。それは良かった。もう5時半だな。弥生と少ししたら帰るから。樋口も帰れるのか?」
「はい。大丈夫です」
「誕生日パーティもすんだし、あとは婚約発表と披露パーティだな。また、樋口は忙しくなるな」
「いえ。大丈夫ですよ。一臣様の身の回りのことは弥生様がしてくださいますし、助かっています」
「……こいつが?何もしてくれないぞ」
え。
「だいたい、俺から逃げていくばかりだしな」
う…。
「そのことですが、一臣様。あまり、無理強いするのはよくないかと」
「なんの、無理強いだよっ!樋口が口出すことじゃないぞ」
「…ですが、弥生様は大事な婚約者なんですから」
「大事にしているぞ!」
一臣さんはそう言うと、私の腕を掴んで一臣さんの部屋に引っ張り込んだ。
バタン!
思い切りドアも閉めると、掴んでいた腕を離し、上着を脱いでバサッとそれをソファに放った。
「は~~~あ。なんなんだよ、ったく」
うわ。一気に不機嫌になっちゃったのかな。
一臣さんはネクタイも外して、Yシャツのボタンを第二ボタンまで外すと、ソファに座った。
「コーヒーでも淹れますか?」
「いや、いい。お前も疲れただろ?ここで少し休んでいいぞ。多分、樋口はまだ仕事が片付いていないようだから、もう少しここで、樋口の仕事が片付くまで待っていようと思っているし」
え?そうなんだ。そういうのってわかるんだ。ツーカーの仲なのかしら。
そういえば、今日樋口さんを視察に連れて行かなかったのは、樋口さんの仕事がたまっていたからかもしれない。最近忙しくて休んでもいないって、一臣さん、気にしていたしなあ。
やっぱり、優しいなあ。一臣さんは…。
うっとり。
第二ボタンまで外すのって癖かな。それとも、楽なのかな。あ。鎖骨見えた。
うっとり。
「真ん前で、うっとりと見ているなよ」
「ごめんなさい」
「いいけどな~~~。俺に触りたかったら触ってもいいし、押し倒したくなったら、押し倒しても」
「し、しません。それに、そんな気にもなったりしません」
「嘘をつけ。俺に触れたくなるって言っていただろ?」
「あ」
言ったかも。
だんまり。一臣さんは、なぜか黙り込んだ。
あれ?もしかして、引いたのかな。あの告白。やっぱり、あんな告白しなかったら良かったのかな。
ドキドキバクバク。
なんだか、一気に一臣さんに嫌われちゃうような気がして、怖くなった。下を向いて私まで、黙り込んだ。
すると、目の前にいる一臣さんは静かにアタッシュケースから書類をひっぱりだして、それを読みだした。
そうか。今日のあの企画書、目を通したかったのか。
「……」
しばらく、書類を持っている一臣さんの手に注目してしまった。綺麗な指だなあとか、爪の形も綺麗だなあとか。
それから、今度は一臣さんの長い足が目に入った。長いからスラックスが似合うんだよね。それから視線をもうちょっとあげた。書類を見ている一臣さんの鼻筋とか、前髪とかが目に入った。鼻、高いな~。
じ~~~~…。
「お前って、視線がうるさいよな」
ビク!
「ごめんなさい」
「いいけど」
そうだった。前にも言われた。視線がうるさいって。仕事の邪魔になっちゃうよね。
クスン。でも、なんだか寂しいな。膝の上とか乗っちゃったら駄目だよね。うん。駄目だよね…。
私は自分の手を見た。どうしよう。なんか、手持無沙汰だ。やっぱりお茶でも淹れようかな。
「あの」
「なんだ」
「お茶でも淹れましょうか」
「いらない。喉は乾いていない」
くすん。
「あの」
「今度はなんだ?」
「肩でも揉みましょうか?私、祖父や父の肩、よく揉んであげているから上手ですよ」
「いい。肩は凝っていない」
グッスン。落ち込みそう…。
「あの…」
「今度は、なんだっ」
お、怒ってる?やっぱり、私うるさい?
「ひ…」
そこまで言って、言葉が引っ込んだ。
一臣さんは私が黙ったからか、顔をあげて私を見た。
「ああ。大きな声を出して悪かったな。それで、今度はなんだ?」
あれ?一気に声が優しくなった。怒っているわけじゃないの?目つきも怖くないし。
「ひ…」
「だから、怒っていないから、さっきから、ひって言って、引きつるなよ。そんなに怖いのか?俺が」
「違います。ひ、ひ、膝の上に乗ったら駄目ですか?って聞きたかっただけです」
「……」
あ。思い切り片眉あがった。ダメってことかな。呆れたのかな。怒ったのかな。
「仕事しているんだけどな、俺は。見て、わからないのか?」
「ごめんなさい」
「……」
一臣さんはまた、バサッと書類を広げて下に目線を落とした。そして、
「まあ、お前が膝の上に乗っていても、書類は見れるからいいけど」
と、書類を見ながら、そう呟いた。
え?!いいの?!
ドキン。ドキン。
「お、お言葉に、甘えて…」
そう言って私はソファから立ち上がり、一臣さんの座っている前にすすすと静かに移動した。
それから一臣さんに、手でグイッと膝の上に座らせてもらうのを待ったが、一臣さんはいっこうに書類を見たまま、私のことはほっぽらかしだ。
あれ?
でも、いいんだよね?膝の上、座っても。
「お、お邪魔します」
ものすごく小さな声でそう言って、そっと一臣さんの膝の上にちょこんと座ってみた。
きゃあ。自分から座ってしまった!
一臣さんは書類を、斜め左側に持って来て見ていたから、私は一臣さんの右の膝あたりに座った。でも、浅く座りすぎたからか、グラッと体が斜めになった。
「お前、座るならちゃんと座れよ」
とそう言って、一臣さんが右手を私のお腹に回し、グイッと自分のほうに私の体を寄せた。うわ!思い切り接近しちゃった、
ドキドキドキ。一臣さんの右手は私のお腹を抱いたまま。左手で書類を持って、一臣さんはそれを静かに読んでいる。
「あ。しまった。お前のこと抱えているから、書類をめくれない」
「私がします」
そう言って私は、一臣さんの持っている書類をめくった。
「はい」
それからまた、一臣さんの左手に書類を持たせた。
「面倒くさいなあ」
う…。もしや、やっぱり私がここに座っているのが邪魔?私がここにいるのが、面倒?
「ちょっと持ってろ」
もう一度、一臣さんは書類を私に持たせた。それから、グイッと私の両足の膝を持ち上げ、お姫様だっこするみたいに、私を一臣さんの膝の上に乗せた。
うわ。
「しがみついてろ」
一臣さんは私から書類を取るとそう言った。
「は、はいっ」
左手を一臣さんの背中に回した。それからYシャツの背中の部分をギュって握った。右手は一臣さんの胸のあたりにぴとっと添えた。
一臣さんは私の背中の後ろから右手を伸ばし、書類を両手でしっかりと持って、また書類のほうに集中し始めた。
ドキン。ドキン。大接近できた。そっと顔も一臣さんの胸に近づけた。わあ。コロンの匂いに包まれた。
ほわわん。
「こんな格好で俺が仕事しているなんて、他の奴が見たら卒倒するな」
「え?」
ドキ!
「なにしろ、俺は淡泊で女に冷たいと有名だからなあ。こういうのをするのを、一番嫌がっていたし」
「ご、ご、ごめんなさい」
おたおたと一臣さんの膝の上から降りようとした。
「いいんだよ。言っただろ?お前は別なんだよ」
キュキュン。
「はい」
また大人しく一臣さんの膝の上に落ち着いた。
キュウ…。一臣さんの胸にしがみついた。ドキドキしているけど、ほわほわ夢心地だ。
部屋の中は時計の音と、一臣さんの書類をめくる音だけ。
「グ~~ギュルル」
あう!お腹!私のお腹~~~~!!!この、いい雰囲気をなんで壊すの?!
「そんな時間か?ああ。もう6時半だな。樋口もさすがに帰れるかな」
一臣さんは腕時計を見て、そう言った。
「ごめんなさい。お腹なっちゃって」
「いや。お前の腹時計正確だから、助かってるけど?」
う~~~ん。複雑。こんな役の立ち方はあまりしたくない。
だって、いつもムードを台無しにしている気がする。
「ほら!降りろ。帰るぞ!」
そう言って、一臣さんは私の背中に回していた腕をどけた。
「はい」
私は素直に一臣さんの膝の上から降りた。
なんか、いつもとどこか違う一臣さんが気になりつつも、上着を着て、カバンを持って、私は先に部屋を出た。
「ゆっくりお休みになられましたか?」
樋口さんが私に聞いてきた。
「え?はい」
ドキ――ッ。ゆっくりも何も、一臣さんの膝の上に乗っていただけなんだけど。顏、真っ赤かも。
「樋口、等々力に車を回してもらうよう連絡入れてくれ」
「はい」
一臣さんは上着を肩にひっかけ、アタッシュケースを持って部屋から出てきた。ネクタイは…どこかな?アタッシュケースの中にしまったのかな。
それから、一臣さんはアタッシュケースを床に置き、上着を着た。あ、上着のポケットに入っていたのか、ネクタイ。
ネクタイもポケットから出すと、くるっと首に巻き、緩めに締めた。
「お屋敷に帰るんですよね?」
廊下を歩きながら私は一臣さんに聞いた。
「どこかに寄りたいところでもあるのか?」
「いえ。帰るだけなのにちゃんと上着を着たり、ネクタイをするんだなあって思って」
「ああ、これか。まあな。屋敷に着いたときに、メイド達があんまり酷い格好だと驚くだろ?」
「え?」
「ある程度、緩んでいるくらいならいいが、上着もネクタイもしていないってなると、変な心配をするんだよ。2~3回それをして、喜多見さんにやたらと心配されたから、なるべくちゃんとして帰ろうって、それからは気を付けている」
「…やたらと心配って?」
「一回は、酒飲んで酔っ払ってぐだぐだになった時で。まあ、あれはしょうがないよな。酔っているのもわかっていたから、そんなに心配されなかったが。もう一回は、具合が悪くて、帰る途中でその辺の公衆トイレいって吐いたりした時で。それ以来、服がやたらと乱れていると、また具合が悪くなったんじゃないかって、心配しちゃうんだよ。喜多見さん、心配性だから」
「そんなことがあったんですか?」
エレベーターホールに着くと、一臣さんはIDカードをかざした。後ろから樋口さんも、エレベーターホールに静かにやってきた。
「ああ。あの時は樋口にも心配かけたな」
「はい?なんの時ですか?」
「俺が、帰りの車で具合が悪くなって、途中で車から降りて吐いたりしたことがあったろ?」
「ああ。そんなことがありましたね」
「喜多見さんは、おふくろよりも俺を心配してくれるからなあ。まあ、ある意味、母親みたいなところもあるし」
一臣さんはそう言うと、来たエレベーターに乗り込んだ。私と樋口さんもそのあとに続いた。
そして、カードキーを差しこみ、1階のボタンを押した。
扉は閉まり、エレベーターは1階に向かっておりだした。
「喜多見さんも、もういい年だし、あんまり心配ばかりかけられないしな」
「いい年は悪いですよ。まだまだ、喜多見さんは若いですよ?」
樋口さんが、口元に笑みを浮かべてそう言った。
「だけど、心配するとあの人、寝なくなっちゃうだろ?弥生が婚約破棄するって言って、みんながストライキした時も、喜多見さんだけは夜中に、こっそりと俺の様子を見に屋敷に来ていたしさ」
そうだったんだ。あ、そういえば、一臣さんが具合悪いの知っていたもんなあ。
「一臣様の心配は、わたくしも等々力さんもしていましたけどね」
「……。お前の場合、今は弥生のほうが大事なんじゃないのか?」
「は?」
「まあ、いいけどなっ。ただ誤解を解いておくけど、俺は別に無理強いはしていないぞ」
「………」
あ。樋口さん、無言だ。無言でただ、エレベーターのボタンを見つめている。
一臣さんは例のごとく、ど真ん中に立ち、私はその斜め後ろくらいにいた。
グルッと一臣さんは私のほうを振り返り、
「お前からもちゃんと言え!だいたい、お前が逃げ出したりしたから誤解を受けたんだろっ!まるで俺が力づくで何かしようとしたみたいになっているだろがっ」
と怒ってきた。
う…。そうだった。今日のお昼に私、部屋から飛び出しちゃったんだった。なんか、樋口さんに助けを求めるみたいに。
「えっと。あれはですね。えっと」
どう説明しよう。顏がどんどん熱くなってきた。
「樋口さん、あれはですね。その…、私がですね」
「はい」
樋口さんはようやく口を開き、私のほうを向いた。
「私が、覚悟をしていなかったからってだけで、一臣さんが悪いわけじゃないんです」
「は?覚悟?」
「はい。か、一臣さんは、わ、私のことを、そそそ、そのですね」
ギュウ。斜め前にいる一臣さんの腕を勝手に私は握りしめた。
言うのがものすごく恥ずかしい。でも、誤解をさせたままじゃ、一臣さんに悪いよね。でもなんて言っていいのか。
「すごく大事に思ってくれているんですけど、男の人と付き合った経験もゼロだし、恋愛初級者、若葉マークの私は全部を受け入れるのがなかなかできなくて、覚悟ができなくて、恥ずかしくてドキドキが半端なくて、逃げ出しただけなんです」
ああ。一気にまくしたてちゃったけど、通じた?
「弥生」
「はいっ」
「そこまで詳しく説明しなくてもいいだろ。恥ずかしい奴だな、お前は」
「ご、ごめんなさいっ」
私は樋口さんの顔も、一臣さんの顔も恥ずかしくて見ることができず、一臣さんの後ろに隠れて一臣さんの背中に顔をうずめた。
そ、そうだよね。もっと違う説明の仕方もあったよね。でも、口からべらべら出ちゃっていたから。
キュウ。
一臣さんの背広を知らぬ間に握りしめていた私は、エレベーターを降りたあとでその部分がしわしわになっていることに気が付き、また一臣さんに平謝りをすることになってしまった。
帰りの車内でもまだ、私は謝っていた。
「あ~~あ。まあ、いいけどな。どうせ、すぐにスチームアイロンでこのしわも取れるし」
「すみません」
「いい。屋敷に帰ったら、誰かにやらせるから。でも、オフィスではお前がすることになるんだぞ?」
「アイロンですか?します。ばっちりします!」
「そうか?じゃあ、たまには頼むぞ。今までは葛西がいたから、いっつも俺の上着はしわがなかったけどな。あいつ辞めてから、くしゃくしゃになっていること多いしな」
「え?」
ドキ!葛西さん?
「葛西はそういうところ、神経質だったから。俺は適当にその辺に上着を脱ぐと放っているだろ?だから、すぐにしわくちゃになって、あいつがいちいち、スチームアイロンでしわを伸ばしていたんだよ。な?樋口。あいつは神経質だったな」
「そうですね。まあ、そのおかげで、一臣様のお部屋はいつもきれいに片付いていましたが」
そうか。やっぱり、葛西さんが片づけていたんだ。整理整頓、ちゃんとしていたもんなあ。
「あれ?」
「なんだ?」
「じゃあ、えっと。前に一臣さんが言ってた、葛西さんもフックにハンガー掛けて、アイロンしていたっていうのは、葛西さんのスカートじゃなくて、一臣さんの上着をだったんですか?」
「はあ?当たり前だろ。どこの世界に秘書が自分のスカートを、上司の部屋でアイロン掛けるような、そんな失礼なことをするっていうんだよ。あほか、お前は」
「え」
でも、目の前にいたりするんだけど。私が、それ、しました。
「ああ、ここにいたな。お前、俺の部屋で自分のスカートのしわ伸ばししていたっけ」
そう一臣さんが言うと、等々力さんと樋口さんから小さな声が漏れた。「え?」「は?」と同時に。
「あ!樋口、また誤解するなよ。俺が襲ったわけじゃないぞ。こいつが添い寝していた時に、スカートをしわくちゃにしただけで、俺がこんなみょうちくりん、襲うわけないだろ。そこまで女にあの頃は不自由していたわけでもないし」
そこまで一臣さんは一気に言ってから、ハッとした表情で私を見て、
「あ、今のも嘘だ。あの時にはもう、他の女とは手を切ってた」
と、いきなり私に言い分けをした。
「あ~~~。くそ。何だって俺は、こんなことを樋口や弥生に言ってないとならないんだよっ」
一臣さんはそう言うと、口をへの字に曲げたまま黙り込んだ。あ、へそ曲げた。それも、かなり激しく。
でも、真相がわかってほっとしている私がいる。心のどこかで、葛西さんが一臣さんの部屋でアイロン掛けたっていうのが、気になっていたのかもしれない。
その時は、ほっと安心して、へそ曲げちゃった一臣さんのことも、可愛く思えたりしていた。だから、一臣さんが、やけに私と座っている位置を開けているとか、そのあともずっと黙っていたこととか、そういうことにも不自然さを感じなかった。
お屋敷に着くまでは、一臣さんの異変に気が付かず、逆にほっと一安心なんかしてのほほんとしていたのだ。




