~その4~ 社内の噂
エレベーターには、樋口さんも乗って来た。
「樋口、見送りとかいらないぞ」
「ですが、一応…」
樋口さんはそう言って、一階にエレベーターが付くと、私に虎屋の羊羹の入った袋を持たせてくれた。
「お気をつけて」
そう言うと、今乗って来たエレベーターでまた、樋口さんは15階へと戻って行った。
「なんだ?あいつ…」
もしや、一臣さんに私が迫られるのを阻止してくれてた?とかかな。
でも、役員専用のエレベーターじゃないから、10階から他の人も乗って来たし、大丈夫だったんだけどな。そういえば、役員専用エレベーターは、役員専用出入り口につながっているから、普通に一階のロビーに出る時は、社員用のエレベーターを使うんだけど、その時は、けっこう社員のみんなの面白い反応を見れることとなる。
エレベーターのドアが開いて、一臣さんがど~~んと真ん中に立っていると、みんな一瞬かたまり、一臣さんを避けながら、エレベーターの奥や端にそそくさと入り込む。だって、いつも一臣さんはど真ん中にいて、他人に場所をゆずったりしないから。それも、どんなに混んでいてもだ。
二人くらいで話しながら、エレベーターを待っていただろう人も、ドアが開き一臣さんがいるのを見ると、話しをピタッと止める。大あくびをしながら待っている人も、一臣さんの姿を見た途端、シャキっと背筋を正す。
一臣さんって、そこにいるだけですんごい影響力大だよね。
そして一臣さんも、社員の前ではすきを見せない。欠伸もしない。伸びもしない。笑いもしなけりゃ、挨拶をされてもお辞儀もしない。「ああ」とか「うん」とか、そのくらいしか言わないし、たまに無視しちゃうことすらある。あれは、社員の人、かわいそうだと思う。でもまあ、相手がかなり小声だったりして気づかないのかもしれないけれど。
私や樋口さんといる時、あと、等々力さんの車に乗っている時もそうかな。かなり、のんびりしているし、すきだらけなのにね。欠伸はする、伸びはする、愚痴る、駄々コネる、私をからかって笑う。
だけどそっちの一臣さんのほうが、私は好きだなあ。
ロビーに行くと、すでに綱島さんはいて、一臣さんの姿を見ると、シャキッと背筋を伸ばした。
「待たせたな」
一臣さんは一言そう言うと、さっさとエントランスに向かった。大股で颯爽と歩くので、それについていくのはけっこう大変だ。
2人きりだと、いつも背中に腕を回し、エスコートしてくれるから、歩く速度もぐっと落としてくれるんだけど、こういう時には歩く速度がぐっと早まる。
綱島さんも大股で、一臣さんのあとを追い、私はちょこちょこと二人の後を金魚の糞のように歩いて行った。
受付嬢は、一臣さんの姿を見つけると、すくっと立ち上がり必ずお辞儀をする。でも、一臣さんは、無視して通る。エントランスですれ違う社員も、一臣さんを見ると慌ててお辞儀をする。でもやっぱり、スルーして通り過ぎる。
だけど、ごくたまに、
「一臣様!」
と声をかける人がいる。そう言う人はほとんど、一臣様と付き合ったことがある女性だ。上野さんは声をかけてこなくなったが(姿すら最近は見ない)声をたまにかけてくる女性はまだ、他にもいるんだよね。
そして、みんながみんな、とっても綺麗な女性だ。
今日もまた、エントランスを出たところで、綺麗な女性に一臣様はつかまった。
「一臣様!ご無沙汰しています。同じビルにいるのに、会いませんでしたね」
誰だ?初めて見る顔だけど。
「……ああ。そうだな」
一瞬、間をおいてから一臣さんは返事をした。突然一臣さんが止まったので、後ろを歩いていた綱島さんは、一臣さんの後ろから回避して右によけた。そして私はそのままの勢いで、一臣さんの背中にドスンとぶつかった。
あ。やっちゃった、おでこぶつかった。痛い…。これは一臣さんにもかなりの衝撃が…。
「気をつけろ、上条弥生」
くるっと私を見て、一臣さんは眉をひそめてそう言った。
「ごめんなさい」
うわ。顏、怒ってる。
「一臣様、新しいプロジェクトに参加しているって聞きましたが」
また綺麗な女性が一臣さんに話しかけた。一臣さんの腕に触りながら。
「ああ。機械金属部のプロジェクトだ。市ヶ谷は生活品部だったな」
「ええ。主任から一気に課長に出世です」
「…へえ。すごいな」
「でも、名古屋支店のですよ?」
「転勤か?」
「一臣様のいるビルで働けなくなるのが、すっごく寂しくて…。あと一週間で名古屋に行くんです。よろしかったら時間開けてくださいませんか?」
「……悪いが、忙しいから無理だ」
「最後に食事でもと思っていたのに」
あ。一臣さんの腕に、腕まで回した。それ、やめて、離れて!
私は一臣さんの後ろから、心の中でそう叫んでいた。すると、
「市ヶ谷、引っ付くなよ。そういうのは嫌いだって知ってるだろ」
と、一臣さんは、低い声でそう言った。
「一臣様、相変わらず冷めているんですね?でも、最近はそちらの秘書と仲がいいって聞きましたよ?腕を組むのすら嫌がる一臣様が、手を繋いで歩いていたとか。あれって、デマですよね?」
「弥生とか?いや…」
一臣さんはそう言うと、私の背中に腕を回し、私をグイッと自分のほうに引き寄せた。
うわ。え?なんで?背中に腕?!
ほら。市ヶ谷さんよりも、綱島さんのほうがびっくりしている。
「噂は本当ですの?その秘書とできているっていう噂」
「本当だ」
うわ~~~~~~~~~!なんだってまた!
「でも、婚約発表も間近だから、付き合っている女性と一気に手を切ったって…。ねえ?だから、わたくしの誘いも断るようになったんですよね?そうおっしゃっていましたよね?」
ドキ~~。この人、綺麗で仕事ができる女性っていう雰囲気があったのに、今は色気がグッと出て、やたら女っぽいんだけど!
一臣様と付き合ったからこうなっちゃったの?それとも、もともとこういう色っぽい女性が好みだったの?だけど、こんな色っぽい女性、私、太刀打ちできないよ。ここまでお色気出そうもないもん。どんなに頑張っても無理。
一臣さんは片眉をあげ、溜息をつくと、
「まあ、いっか。そのうちわかるさ」
と一言そう言った。
また、「ま、いっか」で済ませてる!
「そのうちって?」
市ヶ谷さんのほうがしつこく聞いた。
「名古屋でも、社内報やホームページに載るから、そうしたら市ヶ谷も納得がいくだろ」
「え?」
不思議がる市ヶ谷さんをその場に残し、
「行くぞ」
と一臣様はそう言って、エントランスの前にすでに停まっていた等々力さんの車に乗り込んだ。
私も後ろに乗ろうとした。すると、
「上条弥生は助手席だ」
と言われてしまった。
え?なんで?じゃあ、後部座席に、一臣さんと綱島さん?
私はがっかりしながら、助手席に乗った。綱島さんはかなり緊張しながら、後部座席に乗り込んだ。等々力さんがドアを閉め、運転席に乗り込んでくると、すぐに車を出した。
「綱島は、まったく今日行く鉄工所や工場の知識もないよな?」
「はい。申し訳ありません」
「車酔いしやすいほうか?」
「いえ。大丈夫です」
「じゃあ、この資料に目を通せ。一応簡単に俺から説明する」
な、なるほど。車内でも打ち合わせするわけね。それで、綱島さんが隣に。ってこと?私が一臣さんを怒らせたわけじゃないよね。
あ。それとも、大胆になるって告白、実は引いてたとか。
サ~~~~~ッ。一気に血の気が下がって行く。まさか、まさかね?
「そういえば、綱島は何か聞いたりしているのか?」
「は、何をですか?」
「俺とこいつの噂だ」
「え?!」
綱島さんの声がひっくり返った。
「いえ。僕は、そういうことは」
「聞いていないのか?何も?」
「……。いえ。部の女性が噂をしているのを聞いたことはあります」
「どんな?」
「……ただ、仲がいいようだと、そういう噂です」
「じゃあ、俺のフィアンセのことは?聞いたことはあるか?」
「あ。ええとですね。どうやら、候補者の中から決まったようだと、そういったことだけ耳にしました」
「それだけか?相手は誰だとかそういうことは聞いていないのか?」
「あ。それはですね」
バックミラーで綱島さんの顔を見た。わあ。真っ青だ。
「緒方商事が関西やアメリカにシェアを広げるプロジェクトを、上条グループと組んでいて、そ、その提携を結ぶ条件に上条グループのご令嬢とのご結婚があるとか、っていう話をちょっと耳にしましたが。本当に上条グループのご令嬢が相手かどうかは、まだ、みんな知らないようでして」
「ふん。知っているだろ?だいたい、海外事業部のやつらなら、みんな知っているだろうし、それに、昨日の俺の誕生日パーティに呼ばれたやつから、すでに噂は広まってるだろ?」
「ぼ、僕はそのようなことはあまり」
「興味がないのか?」
「女性社員のほうが興味があるようですね。あ。そういえば、お昼を食べ終わった日吉さんと菊名さんが、6階の食堂で、一臣様のご婚約が決まったと噂を聞いたと言っていましたね…」
「なんだよ。聞いているんじゃないか。で?相手は誰だって言っていたか?」
「……えっとですね」
「聞いてるんだろ?」
「ぎ、銀行の頭取の娘…を選ぼうとしたら、社長が上条グループのご令嬢に決めてしまったと」
「は~~~ん。そんなことまで、噂になっているのか。ああ、そうか」
わあ。一臣さんの声も顔も怖い。隣りで綱島さんが震えあがっているよ。
「等々力、こういうのはどうしたもんかな?」
「は?わたくしに相談ですか?」
「ああ。あとで樋口にも相談する。まあ、パーティにはうちの会社のやつも来ていたし、こんな噂が流れるだろうとは思っていたんだがな」
「そうですねえ。仲のいいところでも見せつけてみるとか?」
「それ、もうしているんだけどな。変な噂が立つばかりだ。もう、さっさと発表しちまってもいいかな」
「い、いえ。正式に発表されるのは、6月末ですよね。婚約披露パーティも、6月30日でしたよね」
「ああ。そうだ。それまでの間、この噂はどうすりゃいいんだ?」
「………社長に相談されては?」
「親父にか?いい案なんかあると思うか?なあ?弥生」
「ひょえ?!わ、私に聞くんですか?!」
あ。バックミラー越しに一臣さんの顔を見たら、かなり真剣な顔だ。そして、その隣では綱島さんが真っ青どころか、目を白黒させている。こんな会話を聞いてもいいんだろうか、みたいなそんな表情だ。
「どうしたらいい?弥生。お前の兄貴にもし、変な噂でも耳に入ってみろ。上条グループとの契約、白紙にされるかもしれないんだぞ」
「如月お兄様ですか?」
「ああ。一臣氏は今、フィアンセとの結婚を嫌がり、秘書と仲良くしています…なんて噂が兄貴に入ってみろ。まず、白紙だな」
「え~~~~!!!じゃあ、説明します。あ。まだ、如月お兄様が日本にいるはず。すぐに会って説明します!」
「なんて?」
「なんてって。えっと。その噂の秘書は私で、私と一臣さんはとっても仲が良くって、ちゃんと一臣さんに大事にされてて、何も如月お兄様が心配する必要はありませんって。もし、疑うなら、私と一臣さんと一日一緒にいて、行動を共にしていただいてもいいです!くらいの勢いで…」
「ははは!いいな、それ。ぜひとも如月氏がうだうだまた言って来たら、頼んだぞ?弥生」
「え?」
本気だったの?
「え~~~~~~~~~~~!!!っていうことは、この上条さんは、あの上条グループの!」
突然、車内で綱島さんの驚く声が響き渡った。
「隣ででかい声を出すなよ」
「も、申し訳ありません。でも、あまりにもびっくりして」
「なんでだろうなあ?」
一臣様は溜息をつき、
「上条って名前聞いただけで、普通ぴんと来ないか?これが、佐藤とか、鈴木だったらわかるぞ。そこら中にある名前だからな。でも、上条だぞ?そうそういないだろ?なんで、上条弥生が上条グループのご令嬢かもって、そう思わないんだろうな?誰一人として…」
と一臣さんはそう言って、また大きな溜息を吐いた。
「それはやっぱり、私があまりにも、ご令嬢っぽくないから…」
「それだ。それしかない。お前、もっとご令嬢っぽくなれよ」
「そんなこと言われても…」
「か、上条さんが、上条グループの…。それ、知ったら多分、菊名さん、腰抜かします」
まだ、綱島さんは驚いたままのようだ。
「なんでだ?」
「なんか、お昼前に上条さんにいろいろと文句を言ったそうで。あ。本人じゃなく、日吉さんが教えてくれたんです。菊名さんが上条さんのことを気に入っていないようだから、ちょっと気にかけたほうがいいかもって」
「お前、菊名から文句を言われたのか」
「いえ。注意です。文句じゃないです」
「どんな注意だ?」
「えっと。意見も言わないし、もっとしっかりしろ…みたいな?あと、一臣さんじゃなくて、一臣様と呼べ…と」
「はあ?何様だ。あいつは。俺の婚約者なんだから、弥生はさん付けでいいんだよ。言っただろ?」
「はあ。でも、秘書だって思っているから、そう注意を受けるのもしょうがないかなって」
「あ~~~~。なんか、むかついてきた」
え?
「いろいろとむかついているんだ。龍二のせいで気をもんだし、ずっとお嬢様方に、使いたくない気も使って、やっと解放されたのに、今度は社内であれこれあれこれ、勝手に噂流しやがって」
「か、一臣様。すみません。僕がなんか、変なことを…」
「綱島にむかついているわけじゃない。俺がむかついているのは、勝手に噂を流しているやつらや、弥生に勝手に文句を言って来るやつだ。だいたい、もし秘書だったとしても、俺の秘書だ。お前だったら、樋口に口のきき方が悪いって、そんな注意できるか?」
「めっそうもないです、そんな、一臣様の秘書に向かって」
「だろう?じゃあ、同じだろ?弥生だって俺の秘書だ。本当言えば、フィアンセで、のちの社長夫人だぞ?!」
「で、ですよね」
ああ。もっと綱島さんがびくびくしちゃった。
「弥生。お前、俺のことはさん付けでいいからな。もっと堂々としててもいいんだぞ?みんなに自分は一臣さんの婚約者なのよって顔をして、俺に堂々と引っ付いてていいんだからな」
「そ、そう言われても…」
「そういうキャラクターじゃないですもんねえ、弥生様は」
等々力さんが運転しながら話に加わってきた。
「…そうか。じゃあ、どういうキャラだ?」
一臣さんが等々力さんに聞いた。
「かいがいしく、一臣様に仕える奥様っていう感じですね。それは、結婚したらかもしれませんが。今は、あれじゃないですかね?想いがやっと伝わって、毎日幸せな気分でいる恋人みたいな…」
きゃ~~~~~~~~~~~~!なんていうことを!
それは的を得ているんだけど、でも、はっきりと言われると思い切り恥ずかしい!
ぼわっと私の頭から、湯気が出た勢いで顔が熱くなった。
「恋人?仲のいい恋人に見えるのか?等々力には」
「それはもう、お二人は仲いいじゃないですか。いつもお二人が後ろに乗っているだけで、車内はアツアツですからね」
きゃ~~~~~~~~~~!なんてことを!
で、でも、そう言えば、平気で一臣さん、いちゃついていたかも。
「そうか。だったら、そのまんまでどこでも、恋人でいたらいいのか」
「はい。それでいいと思いますが…。そのうちに、一臣様は婚約者ととても仲がいいと、そう言われるようになりますよ」
「ふ~~ん。そうか」
「………」
まさか、お屋敷でいちゃいちゃし放題にするって言っていたけど、社内でも、どこでもそうするわけじゃないよね?
ドキドキ。
で…。
私と一臣さんが恋人のように振舞っても、私が上条家のご令嬢だと認識されなかったら、結局は今とあまり状況は変わらないと思うんだけどなあ。
ただ、にんまりと後部座席でふんぞりかえっている一臣さんの姿を見ると、私は一抹の不安を感じられずにはいられなかったのであった。
なにか、絶対に、企んでいる顔だよね。あれって。