夏のはじまり1
「ね、松尾くんと喧嘩でもしたの?」
前期最後の日、あれから私と隼人は一度も口を聞いていなかった。
「あはは〜ちょっとね」
いくら真由が親友でも、あれが原因だなんて言えるわけがない。
「ふぅん、二人が喧嘩なんて珍しいね……あ、松尾くんこっち見てるよ」
真由の視線を辿ると確かに隼人がこっちを見……睨んでいた。
「早く仲直りした方がいいんじゃない?なっちは分かってないかもだけど、意外と人気あるんだよ」
そんなこと嫌って程知ってる。
付き合い始めた頃なんて、下駄箱に大量の不幸の手紙が入っていたことがあった。
「……だって説明しても聞いてくんないんだもん」
「なにを?」
言えない。
まさか愛を確かめ合ってる最中についうっかり別の男の名前を呼んでしまったなんて。
篝。
もちろん夢のことだって話したけど、隼人は聞く耳持たずって感じだった。
「本当の事話しても分かってくれない時はどうしたらいいのかなぁ」
「嵐が通り過ぎるのを待つだけじゃない?」
「嵐、ね。早く通り抜けて欲しいよ」
ちらりと視線を送ってみたけど、隼人はこっちを向いてくれなかった。
「……当分の間は無理そうだね」
夏休みに入って3日目、世間は夏だ海だと浮かれまくっているらしいが、高校3年生という世にも不幸な肩書きを持つ私は暗い面持ちで一枚の紙と向かい合っていた。
「し、C判定……」
「当然の結果ね」
「うっ……」
「やることが違うのよ、やることが」
そう言って綾子先生は、スカートから覗くしなやかで長い脚を組み替えた。
なんで分かっちゃうのよ……
これが大人の女の勘ってやつなんだろうか。
「特に古典が壊滅的ね……他はまだ何とかなってるみたいだけど、コレだけ平均下回っちゃってるもの」
「……どうしても好きになれなくて」
「そうゆう問題じゃないの。……まぁ、成績アップの参考になるかもしれないし、一応聞こうかしら。理由は?」
「なんだかバカバカしいから……」
「そうかしら」
「思ってもいないくせに愛しい、恋しい……下らなくて」
綺麗な響きで酔わせて、本当の気持ちなんて悟らせないように。
「どうかしらね……背景にもよると思うけど」
綾子先生は、長い睫毛に縁取られた瞳を細めた。
綺麗に手入れされた女の手が、長い髪をかきあげる。
「あなたは……」
その時、先生の声を遮るようにドアがノックされた。
「遅れてしまってすみません、芹澤ですけど……」
低い、だけど耳に心地よく響く声だった。
「あぁ、芹澤くんね。今開けるわ」
先生はパイプ椅子を軋ませて立ち上がると、こっちを振り返って、
「そうだわ、彼に教えてもらったらどう?私の後輩なんだけど、古典の事ならその辺の先生よりも詳しいし。ついでに優しいから宮田さんが全然問題解けなくても怒らないわよ」
私と違ってね、と言いながら先生はドアノブを回した。
ドアが少しずつ開かれる。
どくん。
心臓が早鐘のように騷いでいる。
どくん。
「……なの?」
「はい、今日は……」
二人の声が近くなる。
どくん。
「……宮田さん?」
「…………え?」
「どうしたの、目が虚ろだったわよ」
「あ、なんか急に不整脈が……夏バテかな」
適当に笑いながらごまかす。
今のは何?
見れば、掌が汗でじっとりと濡れていた。
「まぁいいわ。紹介するわね、こちら芹澤 昭臣くん。私の後輩でK大の学生さんよ」
「初めまして」
先生の後ろから現れたのは、背の高い、穏やかに笑う青年だった。同年代の隼人とは違う、年上の男、だ。
「は、はじめまして……宮田 南月です」
そろっと顔を上げると、ダークブラウンの瞳が私を見ていた。