5.契約の意味
“ついてくるといい”と言われ、大人しく付き従う。そうしなければどうやら契約違反の“警告”が出てしまうから。あんなところを誰かに見られでもしたら、私の居場所がなくなりそう。このたった一人の男性を、数百人の女の子たちでとりあっているんだから。
国の一番いい学校の競争率だってそんなにないわ。
王は一度も振り返ることなくスタスタと歩いていく。もう少しレディーに気を遣ってくれてもいいのに。
そっか、人間に気を遣う必要なんてないと思っているのね。
「あの」とその大きな背中に声をかける。「どうしてそんなに人間を見下すのです」
それに王は少しだけ顔をこちらに向け、「唐突すぎて話がつかめん」とぶっきらぼうに言い放つ。
それも確かにそうね。私は以前耳にしたことを正直に口にした。
「ウワサで聞きました。陛下は今までに何人もの女性と婚約し、短いときで当日、長いときでもふた月ほどでそれを解消されると。そしていつもこうおっしゃるそうですね“人間など本気で愛さない”」
それに王はくくくと笑った。そのままそれ以上、口を開こうとしない。
言い訳もできないんだ。
最低。
王はくるりと振り返って足を止めた。左手をトンと扉につき、反対側の手を腰にあてる。
それにまた何かされるのかと思って肩をすくめるように身構えた。でも――
あれ?
そこで初めて異変に気づいた。明らかに建物の雰囲気が違うということに。
そしてふと見た足元には……床がなかった。
「きゃああっ!」
断崖絶壁に声を上げながら跳ねるように壁に背中をつけてギュッと目をつむった。
けれどいつまでたっても落下するときの、あの浮遊感は襲ってこない。
あれ……?
王の可笑しそうな笑い声に目を開く。
足元に広がるのは、深い深い地獄の谷。底が見えないほどの奈落からはつぎつぎと悪魔たちが這い出し、通るものたちを引っ張り込もうと鋭い牙をむき出しにして手を伸ばしていた。
「床……絵?」
それに胸の中に滞っていた息を吐いた。屈みこんでそっと触れてみる。遠近法を巧みに用い、まるで今にも地獄へと吸い込まれそうな錯覚に陥る。
「フレスコ画?」
でも少し違う気もする。絵の具も人間界のものとは違うんだろう。どうやったら? と思うくらいに黒が美しい。滑らかな女性の髪のような、高級なピアノの黒鍵盤のような。いいえ、それよりもっとかもしれない。
その“黒”にぼうっと魅入られる。
聖堂なんかには精巧な天井画が描かれていて、訪れる人をまるで天空へ上らせているような感覚に陥らせるけれど、床に描くなんてやっぱりヴァンパイアの世界ね。少し勝手が違うみたい。
これほど素晴らしい床絵を見たのは初めてだわ。あまりの巧みさに本当に地獄の縁に立たされているようで、くらくらして意識を失いそう。
上はどうなっているんだろうと、ゆっくりと天井を見上げた。吹き抜けの高い天井はアーチを描き、平たい革紐のような線で構成されたストラップワークが格子状に彫刻されている。
けれど、その向こうにあるのは黒い天井だけ。床とは対照的に、とてもシンプルだった。上を見せず、下ばかりに目を引かせるのはここの文化なんだろう。そう、神なる建物とは真逆の手法で人々をとりこにする。
“堕ちてみたくなる”。
と言うのもしれない。
再び床に触れてみる。描きこまれたたくさんの悪魔たち。今にも動き出しそうに筋肉の線まで巧妙に描かれていた。指でそれをなぞる。噛みつかれやしないかと、無用な心配をしてしまう。それくらいに、滴る唾液さえもリアルだった。
「きれい」悪魔に対してその表現は正しいのか分からない。でも素直にそう感じた。地獄の奥の、儚げな堕天使の姿を見て。舞い落ちる黒羽が涙のよう。
まがまがしくなければ、おどろおどろしくもない。どこか幻想的で儚い。
教会の宗教画は暗いバックに人が浮き出るように描かれているけれど、その堕天使は暗闇に溶け込むかのようだった。それなのに、その瞳の僅かな光が心をくすぐる。
えっと何ていうのかしら、そう。愛するが故に誰かを手を掛けてしまった苦しみがにじみでているような。
悪の感情と同時に繊細な脆さが見える気がした。思わずその堕天使の元へ行ってしまいたくなるような。
ああ、ダメダメ。これが悪魔の囁きなんだわ。
「ここは北棟だ」
「北棟……」
いつの間に後宮を出たのかしら。
このヘルグスティンキャッスルは、東西南北の棟から構成されている。
重要な施設が集まったこの国の中枢が北棟、王もそこに居を構えていた。
その背後にまるで町のように広がるのが、人間の女の子たちを集めた後宮だった。
後宮と北棟は長い渡り廊下で繋がっているとはいえ、彼の背中をずっと睨みつけるように見ていただけだからこっちへ来たことに全く気づかなかった。人間が逃げ出したりしないよう、出入り口は警備が敷かれてあるはずなのに。
あぁ、何だかとっても惜しいことをした気分。もしかしたら素晴らしい床絵がずっと続いていたかもしれないのに。帰りに見られるかしら。
今更ながら後ろを振り返ってみた。一番奥が見えないくらい長い。
なんて広くて美しい廊下だろう。
左右は明かりを持った人魚の像が等間隔にずらりと並ぶ。その古拙の微笑は見るものをおとぎの国へ連れ込んでいくかのような、霊験あらたかな佇まいだった。
たった一角の廊下。されど月明かりにきらめく湖のような輝きを放っている。思わず魂を手放すかのようにぼうっと眺めた。とても精巧な作りの彼女らが、今にも動き出しそうに微笑んでくれている。
ドンドンドンドン! とんでもなく巨大な白の扉を王は乱暴に叩く。それに肩をビクつかせた。
わざとね、全く……。
「はい」と出てきたのは優しそうな侍女さん。王の姿にスカートをつまんで頭を下げる。
顔が全部真っ赤だけれど、怒っているわけではない。額からツノが一本にょきりと出ていた。
王は休めの姿勢で私をチラリとだけ見る。
「彼女を着替えさせてやってくれ。あとはきちんと化粧も。宝石も適当に選んでやれ。あんなみすぼらしい身なりではせっかくの食事がまずくなる。ああ、手も洗わせろ」
それだけ行って自分はどこかへ行ってしまった。
まあ、なんて優しい王様かしら。
感動的だわ、と唇をかみしめながら両手の拳を握りしめた。
「さ、こちらへどうぞ」
そう言って扉を開けてくれた向こうから黄金の光が差し込み、何十人もの侍女さんと何百着ものドレスがずらりと並んでいて、私は思わず一歩後ずさった。
†
「まあおキレイですわ」
最後に口紅を引きおわると、メイク担当の侍女さんがそう言ってくれた。
ドレスを選ぶのはとても大変だった。サイズの問題ではなくデザイン。
なぜかどれも露出の多いもので、お尻の辺りまでスリットが入っていたり、布が透けていたり、胸元がパックリと開いていたりと散々だった。王の好みなのかどうかは分からないけれど、その中でも一番無難なものを選ぶ。
淡いピンク色のそれは、肩や背中はかなり露出してたけれど、かなりマシなほう。デザインもすごく可愛らしいし。
胸の前の大きなリボンの真ん中にはまん丸な宝石がついていて、それで家が買えるらしいことを知って唖然とした。何もかもケタが違うわ。
化粧を施され、鏡に映る自分に言葉を失う。
艶やかにきらめく口元、頬は薄くピンク色のチークが引かれ、目元もドレスに合わせた赤系統のアイシャドーが入っていた。ビューラーでまつ毛がくるんと上げられ、ブルーノ先生が褒めてくれた目元が一層はっきりする。そのせいでよりたくさんの光で瞳がゆらめき、まるで濡れたように潤っていた。
耳元は豪華なイヤリングが銀河のように揺れ、耳たぶが少し引っ張られる。胸元にも見たこともないくらい大きな青い宝石の重量がずっしりとのしかかっていた。
頭にはティアラが鎮座していて、まるでお姫様になったかのよう。今までこんなおしゃれをしたことがなかったから嬉しい反面、何だかとても気恥ずかしかった。
お化粧のせいでいつもよりとても大人っぽい自分の姿。
慣れない口紅にぎこちなく上下の唇を中へ巻き込んだ。
これが、私? 自分自身すら見たことのない表情に戸惑いを覚える。こんな格好でこれから王と食事なんて……。
正直今からでも帰りたいわ。
「さ、陛下がお待ちかねです」侍女さんが優しく案内され、しぶしぶついていく。
広間の扉の前に立ちながら、大きな不安を覚えていた。明らかに身分不相応な格好だったから、笑われてしまうんじゃないかって。
いえ、彼の評価なんてどうだっていいわよね。笑うなら、笑って!
「陛下、お待たせしました」
ドキドキする。侍女さんにやんわりと背中を押された。壁にかけられた絵を眺めていたらしい彼と目が合う。
一瞬彼の双眸が大きく見開かれた。私はそれ以上彼の顔をみることができずに俯く。
「驚いたな」
後ろでそっと扉が閉められ、王が足音を響かせながら近づいてくる。
「どこのプリンセスかと。キレイじゃないか」
それにおそるおそる顔を上げた。何だか体が少し震える。
「ありがとうございます」
どうせ社交辞令だろうと思いつつ、じっと見つめてくる王に居心地の悪さを覚えた。
きっとこれも演技ね。何が何でも私を“手なずけよう”としてる魂胆が見え見えだわ。もちろん自分が優位な立場で。
気を紛らわせようと広間を見渡した。
中央に長いテーブルが置かれ、その向こうには透明人間のシェフさんとミイラのボーイさん二人、それに赤いドレスのガイコツさんの四人だけ。
シルクのように光沢のある黒いテーブルクロスには光を放つ花や高級そうな食器が並べられ、木の枝のような燭台のロウソクがそれらを照らしていた。
部屋にシャンデリアがあったけれど、どうやら今日はそれを使わないらしい。テーブルの明かりと柔らかなオレンジ色のランプだけで照らされた室内。とっても瀟洒な雰囲気で、空気だけでも宝石が買えそうなほどの高級感あふれていた。
「さあ」
エスコートのつもりなんだろう。手を差し出してきた。その手を握るとゆっくりとテーブルまで案内してくれた。けれど慣れないヒールで足をグニャリとひねってバランスを崩す。
「あっ」ヒヤッとした。
「大丈夫か」
体を包むように支えてくれた。ふわっと優しい香水が鼻腔をくすぐる。
王は心配そうに覗き込んでくる。不安げにキュッとひそめられた眉が悩ましげでトクンと胸が高鳴った。だめだめ、キレイなのは外見だけだと自分に言い聞かせる。
「へ、平気です。失礼しました」しっかりと立ち上がる。
「気をつけたほうがいい。このサロンの床は大理石だからな。鼻の骨でも折ったら大変だ」そう言って「ここへ」とイスまで引いてくれる。
さっきとは桁違いに扱いが丁寧だった。まるで私がワラ人形からガラスの人形にでもなったかのように。
ときめかないといえば嘘だった。でも何だろう、何か違和感がある。
無理に“優しさ”を演じているような。心にマスクをかぶっているような。何かが“違う”気がした。
クッション部分がやけに柔らかなイスに腰掛けると、王は私の両肩に手を置いた。
「今身につけているものは全て君にプレゼントしよう」
反射的に王を見上げた。ドレスの宝石だけで家が買えるというのに!
「け、結構です。お返しします!」
トータルでいくらすることか。見返りを要求されたらたまったものじゃない。でも見上げた黒い瞳は、優しい光を湛えていた。
「礼だ。今夜食事に付き合ってくれた」
こんな薄暗くて雰囲気のある部屋では、彼の声は一層の重厚さをもって鼓膜を絶妙に揺らした。バロック音楽を聴いているような心地よさが胸に落ちた。
ただでさえ男性にあまり免疫がないのに……恥ずかしさに俯いてしまう。
王は耳元に唇をよせた。髪に何度か口づけを落とす。それに何だか腰がこそばゆくなった。
素肌の出た肩を、熱い掌でなでられながら耳にピッタリと唇をつけられる。キュッと身をこわばらせた。顔が熱い。緊張しすぎて息もまともにできない。
「本当にキレイだ」熱っぽい吐息がかかる。
アゴを持ってグイッと上を向かされた。肌はまるで白い磁器だわ。艶やかで毛穴もなく、殻をむいたゆで卵のように繊細。涼しげな目元がジッと私を見つめる。まるで夢のような現実だった。
そっと長いまつ毛を閉じ、王は唇をよせる。
「随分と冷たい唇じゃないか」
王はそう言って、スープスプーンを持った私の手を持った。
「ナイフでなくてよかったですね、陛下」と得意げに笑ってみせる。私の方が一枚上手になった気がしたから。
優しくしたのは、やっぱりそれが目的だったのね? 油断もすきもない。
けれど王は「そうだな」と笑うと、換えのスプーンを持ってきてくれたボーイさんに「必要ない」とイジワルそうに言った。
それに戸惑った。もしかして……と彼の意図を察し、王の唇がついたスプーンを急いでナプキンでゴシゴシと拭う。
「ナイフでなくてよかったな。おかげで私と間接キスができる」
悔しい。でも何も言い返せなかった。
わざと落としてしまおうと手を離すと、王はそれを何ともなしに途中で掴んで私に差し出した。
素直に受け取りつつも、お礼は言う気になれないわ。
王が満足げに向かい側へ座ると、すぐに腕に布をかけたミイラのボーイさんが近づいてきた。
「お肉の焼き加減ですが、陛下はいつもどおりレアで」王に目配せし、王もそれに頷く。
「そちらさまはどうします?」
王がレアなら私は――!
「スーパーウェルダンでお願いします」
ボーイさんはそれに困ったのか、一瞬目だけで天井を見上げた。
「ええっと、スーパー……?」確かめるように片方の耳を軽くこちらへ向けた。
「お肉の赤い部分が大嫌いで。こげつく寸前まで焼いてください」
「ああ……了解しました」と愛想笑いを浮かべてシェフの元へ歩いていった。そっと耳打ちし、軽く肩をすくめる。ヒソヒソ話なんて失礼な。
「そういえばまだ名前を聞いていないんだが?」
ジュウと何かの焼ける音がし始める。それとハーモニーを奏でるかのようにドレス姿のヴァイオリン奏者が弓を動かした。甘い音が高い天井で弾けるように広がる。
とっても優雅なひと時。思い描いていた貴族の食事風景だわ、まさしく。やっぱりこんな感じなのね。お話の中のそれは、大げさに表現されているだけなのかしらとも思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。
目の前にいるのがあの王でなければ、もっと胸は躍っていただろう。馬の像をずらしてその憎らしいお顔を覆い隠したいくらい。
ウエイターさんが何か細長い革のメニューを差し出してきた。お酒の銘柄がずらりと並んでいる。ワインやシャンパンなんていう種類はわかるけれど、あとは正直何が何だか分からない。
「まさか名前を秘密にするとは言わんだろう? 互いの名も知らなくては、君の言う手順の友達にもなれんのだから」
さっそく王はスパークリングワインを注文したらしい。そういえば食前酒には食欲が刺激されるそういったものがいいんだと、お作法の授業で習った気がする。でも私はそもそもお酒なんて。
ソムリエさんが手際よく栓を抜き、ゆったりと洗練された動作でそれを注いだ。小さな気泡が浮上して弾ける。
「アマンダです」とっさに偽名を使った。人間を見下しているようなヴァンパイアに本名を教えるのは気が進まない。どうせすぐに忘れるでしょうし。
「アマンダ……ブレイズ。あの、オレンジジュースお願いします」
「かしこまりました」
名前なんて、大勢の中から私を識別するためのもの。ならそれが本物である必要なんてないはずだわ。罪悪感なんて……ほらこう、ニックネーム的な感じだもの。
「そうか、アマンダ」
王はそのワインごしに私をしばらく見つめ、一口含んだ。満足げに吐き出される吐息が、とてもサマになる。視線を上げた王の濡羽色の目が合って急いでそらした。王はそれを笑ったのか、軽く空気のすれる音がした。
全く、余裕ぶって。
「ここへ来てどれくらいなんだ?」運ばれてきたメインのお肉を切り分けながら王はそう尋ねた。私の前に置かれたものに比べて随分と赤かった。
そういうのが好きだなんて、やっぱりヴァンパイアね。
「さあ。お部屋にカレンダーがなくて」
白くホカホカと湯気を出すお肉にナイフを入れる。切れ目からジンワリと肉汁があふれ出て、まだ表面からジュージューと油が飛んでいる。口に入れると噛まずともとろけた。 ああ、すごく柔らかくておいしい! あれ、でもこれ何のお肉かしら。
牛肉……よね?
「なぜ貴族から支援を受けない」と口元を丁寧に拭いて私を見る。なんて所作がきれいなんだろう。
「カレンダーくらいなくても困りませんから」
王はふんと笑って、今度は赤いワインを含んだ。
「面白いことを言う。では普段は何をしているんだ」
「授業以外は閉じこもって外を眺めています。することがなくて」
王はトンとグラスを置くと、眉をひそめて私を見つめた。
「アマンダ、一体何を怒っているんだ?」
「怒ってません」スルスルとフォークを抜けるつけ合せのふかしイモを突き刺した。けれどそれは真っ二つに割れて引き上げる寸前にポロリと落ちる。やっぱりこういう場は慣れないわ。
「私が人間など愛さないと言ったからか?」
口に食べ物が入っていたこともあって、黙っていた。
王はやれやれと言った表情で私を見る。
けれど次の瞬間、彼はゾッとするような眼をした。黒かった瞳が真っ赤にそまり、空気がナイフのように突き刺さる。それなのに口元にはおぞましいほどの笑みを浮かべていて、真っ赤な口の中が見えるほどに大声で笑う。
突然のことに手が震え、フォークを取りこぼした。
カシャンと甲高い音が響く。
王は一度静かに眼を閉じ、次に開けたときには瞳の色は元に戻っていた。
「プロポーズの言葉は、今まで全てベッドの上だった」
「――!」
ベ、ベッドの上?
「どうやら私は女自身ではなく、女の体だけを愛してしまうようだ。だがそれでは少しすれば飽きる。だからいつも破棄する」
何てこと。自分の言っていることが分かっているの?
「最低です!」
「それはどうだろうな」なんて冷たい目。勢いがそがれる。
「それを分かっていて擦り寄ってくるのは人間の女の方だ」
王はグラスを持って立ち上がると、壁に掲げられた巨大な悪魔の絵の前に佇んだ。
「お前たちとて私の外見にしか興味はないのだろう? それとも王たる地位か。だからこんな心を持った私にでも“愛してくれ”と媚びてくる。そして真意も見極められずうわべだけの言葉を信じて、心も体もあっさりと開いて許す。そんな人間どもを、永遠に愛する価値がどこにある」とグラスを空にした。
「そんな人たちばかりでは――」
「そんなありきたりな言葉は聞き飽きた」振り返って私を見すえる。急ぎ足で私のそばへ近寄ってくると、タンッとグラスを叩きつけるようにテーブルへ置いた。私を覗き込むように凝視する。
「違うというなら証明してみるがいい。君自身で」
私……自身で?
「私に正しく順序を守らせながら、プロポーズさせてみろ」
「え?」
我が耳を一瞬疑った。
プロポーズ……させる? 王に?
「そんなこ――」
「できるだろう? 我々には“契約”があるのだから」
悪魔の絵を背にした彼は、とても鋭い光と威圧感を湛えていた。
それであんな契約を。
「それができたら……君を人間界に帰してやってもいい」
え?
人間界……。
思わず手をついて立ち上がってしまった。食器がぶつかってゆれる。倒れかけたイスを、ナイフを持って来てくれたウエイターさんがたくみに支えてくれた。でも今はそんなことどうだっていい。
彼はなんて言った?
なんて言ったの?
「人間……界に、帰れるのですか?」唇がやけに震える。
「ただし無制限というのも面白くない」
メインが片付けられ、デザートのアイスクリームが運ばれてきた。
王はデザートを断ると、席について別のワインを注がせる。
彼はよほどお酒に強いんだろう。ワインを数本あけたというのに顔色一つ変えていないし口調もしっかりしている。
それとも本当は酔っているからこんな話を?
王はグラスを置くと、ぐっと背もたれに体重を乗せた。
「期限は今日からちょうど一〇〇日」王は品定めするように私を見つめた。
一〇〇日ですって?
「短すぎます」
「なら諦めろ。こんなことをだらだらやっても意味がないだろう」
なんて人。自分から吹っかけておいて。
「やるか? それともやらないのか」ゆっくり上下する目蓋の後ろで、氷のような目が見え隠れする。
人間界に帰るチャンスが目の前にある。でも……。
「期限をすぎたらどうなるのですか?」
王は笑みを漏らした。
「君はヴァンパイアが嫌いなんだろう」
「え?」
「血に穢れたモンスターだと思っている」何もかも見透かしたような目。こんな瞳に見つめられる、異国の王たちの苦悩が垣間見える気がする。
唇をかんだ。確かにそう思っている節はあるけれど、本人を前にしてそんなこと。
「期限をすぎたら、君の思うその怪物と結婚させてやる」
「――!」
それに、まるで声が喉の奥にひっかかったように出てこなくなった。
「私には弟がいる。もし一〇〇日以内に私がプロポーズしなければ、次の日は私の弟と結婚だ。そうしておけば、私が必ず一〇〇日以内にプロポーズするという保証にもなるだろう。君を愛せばの話だが」
弟さんまで巻き込む気? どこまで身勝手なのかしら。
「弟さんに許可を取らなくていいんですか?」立ち上がったままだったことにいまさら気づいて、椅子に腰かけながらつぶやくように言い放つ。
「問題ない。いずれどこぞの人間と結婚するのだ」
そう。王族にとって、結婚なんてそもそもそんな感覚なのね。跡継ぎさえ得られれば、妻なんてどうでもいいんだわ。
「つまり私が無事に人間界へ帰るには、陛下から真剣なプロポーズを受けるしかない。できなければ他の男性と即結婚……というわけですね」
「その“他の男性”を私の弟にしてやったのは、ありがたく思ってもらいたいところだがな」
王は楽しそうにまたワインを口にした。
今から一〇一日後には、愛してもいない闇の住人と結婚させられるかもしれない。
けれど今から一〇〇日以内に、みんなのいる人間界へ帰れるかもしれない。
不安と期待が入り混じって、小刻みに震える両手を握りしめた。