逃避行
「凪!ヒール寄越せ!」
「待ってmp足んないよ!」
「リョウ!前変わるよ!」
「ナイス由奈!これもう押し切ったほうがいいだろ」
「OK、うち先バフ入れる!」
何度も繰り返し、体に染みついた手順でコマンドウィンドウを操る。
白く光るクールタイム明けのコマンド。
割り振られたボタンを的確に押下。
画面の中で大きく広がる魔法陣。
そこから伸びる巨大な火柱は、轟々と揺らめきながら伸び、巨大な猿を貫くように焼き尽くす。
猿は大げさに後ろに倒れこむと、無数の光の粒になって散った。
ゲームなんて無意味だって、頭のいい人が言っていたらしいけど、僕はそうは思わない。
ここでは自分が、白瀬 凪が、物語の主人公になれる。
仲間と共に命懸けで、不思議な力で敵を討つ。
誰だって一度は憧れるだろ?
「これでおしまいかぁ、なんかちょっと物足りねぇな」
「そうね、ジョブ変えてやってみる?」
「僕は魔法使いのままでいいかな」
「凪っていっつも魔法使いだよな、飽きねぇの?」
小さいころから、魔法使いが好きだった。
騎士だとかアーチャーだとか、変わり種でいえば忍者とか、そうゆう実際にある職業の派生よりも、完全な創造物に憧れたい。そんな考えから始まった「好き」。
職業システムのあるゲームは迷わないし、アニメや小説でも好きになるのはいつも魔法使いだ。
そんな憧れは、大学生になっても変わることはなく、今でも子供がサンタを夢見るように、魔法使いを夢に見ている――幼稚だろうか?
「いいんだよ、好きなんだから」
「あ!やばいうち明日早いんだった!もう落ちないと!」
「じゃあまた明日、同じ時間でいいよな?」
「うん!」
「いいよ!」
ボイスチャットから離席音が鳴るのを確認して、ヘッドフォンを外す。
数秒前との賑やかしさからの落差で、一人暮らしの部屋は異様に静かに感じた。
「コンビニでも行こうかな。」
薄めのアウターを羽織り、内に着た古臭い部屋着を隠すように閉める。
少し肌寒くなった秋の風が心地いい。別にまっすぐ向かってもいいが、なんだか今日は思い立って、遠回りしてみた。
まぁせいぜい5分が10分になる程度だけどね。
思い返せばしばらく通ってない細い路地裏を通っていくと、なんだかいろいろなことが頭の中を巡る。
この頃急に肌寒くなってきたな。
あれ、この自販機ってエナドリ入ってたんだ。
もう引っ越してきて一年以上たつのに気が付かなかった。
あ、猫。
黒猫横切ると悪運が付くっていうよな。
それじゃあ黒猫飼ってるやつは毎日不運続きかな。
自販機もう暖かいの売ってるんだ。
見てるだけで汗出て来たよ。
だって、こんなに暑いのに…
え、暑い?
自分の思考に自分で違和感を覚える。
確かに、さっきまではとても涼しく、少し肌寒くすらあったのに、今は暑い、暑い……というか熱い!背中が焼けるように熱い!
「なんだこれ!」
思わず声を上げて振り向くと、そこには黒いレザーのトレンチコートを着た女性が一人立っていた。
男性と見間違うほど短く切りそろえられた黒髪、日本では珍しく通った鼻筋が、光に照らされて煌々と輝き、ガラス玉のような目が空を見上げる。もはや芸術品のような横顔は、少し引き攣るその口元すら美しい。
驚くほど美麗なその顔立ちに僕の目線は奪われる。
はずだった。
僕が目を離せなかったのは、その女性の右手。いや正確に言えばその手の少しだけ上、それは柔らかく揺らめき、ぼんやりと浮かぶ、炎だった。
「君、離れな。」
直後、上から風切り音。
間もなく、眼前に人が降る。
鳴り響く、水袋が落ちた音。
「はぁ?!」
思わず声を上げる。
続くのは、体を包むふわりとした浮遊感。
一瞬遅れて理解したが、女性が僕を抱え後方へと跳んだらしい。
どんどんと離れていく地面は、赤黒く染まっていた。
っていや、僕50キロはあるぞ?!
「悪いことは言わない、子供は怪我をする前に逃げたほうがいいよ。」
「は?逃げるって何から?!」
「何って、あれ。」
自明だという顔でスラリと長い指が指したほうを向くと、全身に悪寒が走った。
「身の毛がよだつ、血の気が引く」とはこういうことを言うんだろう。
ソレは落下の衝撃で拉げていた四肢を、メキメキと音を立てながら無理矢理に直し、ゆっくりと立ち上がる人型の生物。
血だらけ、白い肌、細い四肢。
しかし外形だけは人間のようにも見える。
それでもその皮下に浮かぶ蠢きは、確実にそれが人ならざるものであることを告げている。
それは顎をゆっくりと開くと言葉を発した。
「貴様……殺してやる。」
「喋んのかよ?!」
半狂乱になりながらも、何とか生存本能を働かせる。
ソレに背を向け脱兎のようによろめき走る。
なんなんだあれは。
人身事故?違う。分かってる。あれは人じゃない。
だって普通人間は、四肢が折れれば動けない。
あぁ、足首が痛い。
どこかで捻ったんだ。
目に汗が入って痛い。
これが冷や汗をかくってやつか?
いや、この場合は普通に暑かったからか?
一瞬でも額に汗かくほどあの火は暑かった。あの火?あの女性は?!
自分でも中々傲慢だと思うが、こんな状況下で女性の安否が頭によぎった。
一度よぎれば我慢ならず、自分の中の何かがその足を止めた。
痛む足で無理に止まったもんだから、思わず前にすっ転びそうになるのを何とか踏み留まる。
「助けなきゃ。」
振り返る。
目に飛び込む業火。
それ迄の20年余の人生で、一度も目にした事の無い正しく雄大なる炎。
照り付ける放射熱だけで熱い、痛い、呼吸する度喉が焼ける。
女性はその中で、顔色一つ変えずに一点を見つめていた。
視線の先でソレは、炎を振り払おうと腕を大きく振る。
しかしそこから迸る血潮の一滴さえ、炎は包み焼いていく。
最悪な匂いだ。
一瞬、ポップコーンのような甘ったるい匂いが充満したかと思ったが、これは違う。
ドライヤーで髪を焦がした時に一瞬香るような、タンパク質の燃える匂い。
あれを数倍鋭く、重たくしたような、吐き気のする匂いだ。
夢にまで見た出会いは、想像していたどれより鮮烈で、想定していたどれより凄惨だった。
――
「調子はどうだ?嫌なもの見せてすまないね」
「え?あぁ、いえ、大丈夫です」
目が覚めると、知らないベッドに寝かされていた。
全身に負ったはずの火傷はその跡すら確かめられない。
打ちっぱなしの内壁で、世辞にも広いと言えない部屋に、何に使うのかわからない雑貨や、いつのかもわからない雑誌。
端的に言えば、散らかった狭い部屋だ。
女性は一層狭くなっている机で、コーヒードリッパーと見つめ合いながら半笑いで問い続けた。
「逃げろって言ったろ?なんでガタガタの足で戻ってきたのさ。」
「足は、急に走ってちょっと捻っただけです!なんで戻ったかは、自分でもよく分からないです……」
「ふふ、ありがとね、嬉しいよ。」
あの臭いに我慢ならず嘔吐しそのまま気を失った僕を、女性は介抱しここまで運んでくれたてくれたらしい。
「まぁ気にしないでよ、どうせ体調が戻ったら忘れてもらうから。」
「忘れてもらうって?」
「あんなものいつまでも覚えて居たくないだろう?」
小さい頃、よく妄想していた。
この世界には本当に魔法がないのか?
でもその妄想は、大抵一つの壁に当たる。
もしあるなら、広まっていない訳がない。
一昔前でなら、この世界のどこかに……という可能性もあっただろうけど、今は情報社会をも超えた超情報社会。世界の裏側ともスマホ一つでやり取りできれば、ただの一般人が、ボタン一つで動画を撮影できるし、それを世界中に公開するの立って容易だ。
でも、もし魔法で人の記憶をも操れるのなら、あるいは隠し通すことも可能なのかもしれない。
「忘れたくないです。」
それは当然の返答だった。
「変わり者だね、君は。」
「それでいいです。忘れたくありません!絶対に誰にも―」
「悪いが駄目だ。君にそのつもりがなくとも、秘密というものはどこからでも漏れ出る。私に命を救われた人間は大抵私に従順になる。秘密を守ると誓いを立てるものも少なくない。それでも、私のために忘れてもらう。そこに例外はないよ」
「じゃあ、あなたは?」
「……どういう意味だ?」
「あなただって初めは誰かに教わったはずだ!それでもその人はあなたに忘れさせなかった!」
「うーん、悪くない反論だ」
「なら――
「でも惜しいね、なんてことはない。私の師匠は人の記憶を操れなかったというだけさ。こんなことが必要になったのはごく最近の話だからね」
女性は少し残念そうに笑って見せた。
それはひどく儚げで、とても美しかった。
その表情に、多くのことが読み取れた。
読み取れてしまった。
事情も経緯も何も知らないが、その顔は何人もの、もう忘れられてしまった人との記憶を思う憂いだった。
そう読みとれてしまうと、これ以上食い下がることは容易じゃなかった。
「……じゃあせめて、あなたの名前を聞かせていただけませんか?」
「分かってくれてありがとう。私の名前はユキ、カンダ ユキだ。似合わんだろう?」
「そんなことありません。素敵な名前です。命を助けていただきありがとうございました。」
「気にするな。じゃあまたどこかで。」
感謝を述べようと諦めかけた時、彼女の物憂げな顔を見ると、ふとよぎった。
衝撃で忘れかけていた、確かにあの時と同じものが。
「じゃあ、あなたは誰が助けるんですか?」
「……どうした?」
「人があなたに助けられるように、あなただって人に助けられるべきだ!そしてあなたが人を助けるように、僕はあなたを助けたい!」
数刻、部屋は静まり返った。
換気扇の音がいやに大きい。
ユキさんは眉間に手を当て俯き、考える。
しばらく経つと、観念したように顔を上げ笑い出した。
「ははっ!君はやっぱり変わり者だ!第一、君は事情も何も知らないじゃないか!」
「関係ありません!僕にユキさんを守らせてください!」
「まったく、こんなにも情熱的な告白は初めてだよ!だが残念ながら、君じゃあ少々若すぎかな?」
そう言われて初めて、自分の発言のクサさに気が付いた。
最悪だ!自覚すると途端にみるみる顔が熱くなるのを感じる。
今なら彼女のように炎だって出せそうだ。
でももうここで引き下がるわけにはいかない。
「僕にできることだけでもいいので、手伝わせてくれないでしょうか……」
「わかった、私の負けだ!その代わり約束が二つある!」
「はい!」
「一つは私のことを他言しないこと。これには無意識にでも漏れてしまうのを極力防ごうとする努力も含まれる」
「勿論です!」
「次に危険は決して冒さないことだ、私を助けたいってんなら足引っ張ることするんじゃないよ!」
「任せてください」
「それと、君の名前は?」
「凪です!」
――――――
「ねえユキさん、そろそろ僕にも魔法を教えてくださいよぉ」
「駄目だ。そもそもこれは魔法じゃなくて魔術だ」
「その違いも、教えてくれなきゃわからないですよ!」
あの日から僕は、ユキさんの家に通うようになった。
もう一週間が経つのに、ユキさんに頼まれた事といえば部屋の掃除、片付け、インスタント麺のストック買い足し。郵便物の山の中から請求書なんかを引っ張り出したり、ベットのシーツを夏用のものから冬用の温かいものに変えたり。
まさに"雑務・雑用"のそればかりだった。おかげで僕の家事スキルは順調に伸びている。
「そろそろ僕も役に立ちたいんですよ!」
「そうは言うがね、君は君の思っている以上に私の役に立っているよ?」
「それでもやっぱり教えてほしいです。僕はユキさんの隣に立ちたいんです。」
「君だって見ただろう。私は強いからね。戦闘面で君の助けは今のところ求められていないのだよ」
「じゃあせめて、もう少し僕にできることはないですか?」
「そうだね……料理をしてくれると助かるよ、毎日インスタント食品というのも飽きが来るんだ。」
「結局家事じゃないですか……」
何度も何度も、口説き落とそうと試行錯誤はしてみたものの、寝泊りすらそこで済ますようになって、さらに数日が経ってもついぞ、ユキさんは魔術についてどころか、それに関わる何も教えてくれることはなかった。
でもその代わりに、ユキさんのことは少しずつ分かってきた。
カップラーメンは醤油よりシーフードが好き、普段は全く飲まないのに週に一回急にふと牛乳が飲みたいって言いだす。一度寝たらなかなか起きないし、寝つきはあんまりよくない。”仕事”に出る時間はバラバラだけど、大体5~6時間は戻ってこなくて、帰宅後の第一声は大体「腹減ったー!」だ。
正直少しがっかりした。
現実にあってくれとあれほど夢見た魔法使いは、皮肉なほどリアルで、よっぽど人間らしかった。
ネズミのしっぽを鍋に浮かべることもなければ、不思議なインクで本を書いたりもしていない。
部屋はすっかり片付き、ユキさんのいない部屋に寂しさを感じるようになったころ、ユキさんを知ったデメリットをまた一つ見つけてしまった。
帰宅時間の予想がついてしまうと、その時間になるとなんだか落ち着かなくなってしまう。今か今かと待ちわびていると、来訪者があった。
部屋に鳴り響くインターフォン、それ自体は特段珍しくもなかった。
寧ろ「君がいるから通販が捗ってしまうよ!」と笑う彼女のせいで、二、三日に一度は使用用途のわからない雑貨が届き、置き場所に悩まされていた。
「はぁい!今出まぁす!」
とりあえず、いつものように聞こえているかわからない返事をしながら、印鑑を持って玄関に向かう。
ドアを開けるとそこにいたのは、いつもの配達のおじさん――ではなかった。
「あ?オマエだけか?」
背筋が凍り付いた。
脳の奥まで響くような男の声。
見た目はおおよそ人と同じ。
しかしその白くガサついた継ぎ接ぎの肌は、思わず息が詰まるほどの腐臭を放っていた。
間違いない、これはあの時見たような、人ではない何かだ。
思わず後ろへのけ反――
「質問に答えろ、あの魔女はどこだ?」
僕が体を一歩下げるより、コイツが一歩距離を詰め髪の毛をつかむほうが早かった。
「ここには、僕しか住んでいません」
「先に断るが、冗談は通じんぞ」
「い、いまは!僕しか住んでません!前に住んでた人は知りません!」
「それが本当だとすれば、お前の腹を抉る必要がある」
「……どういうことですか?」
「同情する。あの盗人から何も聞かされておらんようだな。」
「助けてください!命だけは!」
やばいやばい頭を回せ!
こいつが何言ってんのかもわかんないし、どうすればいいのかもわかんないし!
だから僕は魔法を教えてくれって言ったんだ!
クソ、何とかしてユキさんに連絡を……
その瞬間、目の前の男の頭がブレた。
メキメキという嫌な音を立てながら、男の頭部は横の壁面にめり込んだ。
「危ないところだったね」
奥から顔をのぞかせたユキさんは珍しく少し焦ったような、申し訳ないような表情だった。
――
「申し訳ない。私が迂闊だった」
「いえ、僕の方こそ不用心に扉を開けてしまいました、次からはちゃんと相手を確認してから開きます。」
あのゾンビ?は結局ユキさんが燃やしてしまった。
記憶というものは残酷で、少し忘れかけていたあの日の光景も、たんぱく質が焦げる臭いでまた、強く強く呼び起された。
おそらくここで「身を守るために」と提案すれば、ユキさんといえど以前のようにはあしらわれないだろうと思う。
それでも良心に付け込みたくなかったのか、その世界に踏み込むことに臆したのか、そんなつもりにはなれなかった。
「今日のは事故みたいなものですよね、夜ご飯にしますか!おなか減って――
「話くらいはしておこうと思う、また巻き込むのも忍びないしね」
「……わかりました」
「どこから話すかな。まず失望させるようで悪いが、魔術ってのは教えられるような代物じゃない。私が使えるようになったのも、私の先生が死んだ後だった。君も創作物で名前くらいは聞いたことがあると思うんだが、魔術を使うには賢者の石ってのが要るからだ」
「でもユキさんはそんなの何処にも……」
身の回りのことであれば大抵何でも知っているのにという困惑をよそ眼に、透き通った目を下に向け、長い指で自身の下腹部を指しながら続けた。
「こぶしより大きいくらいだったかな、飲み込むのには難儀したよ。石が持っている不思議な力、平たく言えば魔法の力だね。それを利用して炎を起こしているから、魔法を利用する術という意味で魔術と先生は呼んでいた」
ユキさんが魔術という呼び方に固執していたのは、あくまで力を利用しているだけに過ぎないという自戒だったのかもしれない。
夢の存在の現実でのありように、衝撃なのか落胆なのか、何も言葉が出なかった。
「11世紀ごろに隕石と共に降ったとも、どこかの宗教人が象に会うため信者に地面を掘らせ続けて出土したともいわれているが、昔はそれなりに数があったらしい。でも奪い合って破損したり、そもそも使い方が分からなくて紛失したり。今となっては私が知ってるのはこの一つだけだね。」
「じゃあ、あの怪物は?」
「送り込んでいる奴は知ってる。先生の昔馴染みだ。もともと石を使って二人で研究をしていたこともあったらしいが、使い道で揉めたらしくてね、以降研究成果でもって、石を奪い取ろうと躍起になっているらしい。向こうは石の独特な波長を追っているらしいから、君が一人の時に襲われる心配はないと思って胡坐をかいていたんだが、どうやら向こうの追跡もさほど精密ではなかったみたいだね」
何度言っても魔術を教えようとしなかったり、外に出るとき傍においてくれなかったり、彼女なりに色々と僕のことを考えてくれていた結果だったらしい。
そう思うと、不謹慎にも少しうれしかった。
「僕はもう、ここにいない方がいいかもしれませんね」
口に出してしまえば案外それほどの抵抗感はなかった。
今回のことで彼女の力も全能でないことは痛感したし、何より自分が枷になっているのは自明だ。
勿論彼女への憧れは未だ変わらずここにある。
だがそれ以上に、自分のせいで負担がかかるのは許せなかった。
「それは……賢い選択だと思う……」
「ユキさんのことは内に秘めておきます。あぁでも、念のため消した方が安心ですかね?」
押し殺して精いっぱいの笑顔を作っていつの間にか落ち切っていた視線を上げると、ユキさんの頬には静かに垂れ落ちる涙が光っていた。
「一つ、我儘を聴いてもらうことはできるかな?」
「えぇ、なんでも」
「君にはここにいてほしい。君がここでお帰りと言うだけで、私の心のひどい疲れだとかキリのない不安だとか、その内の大半が居なくなるんだ。君に危険が及ぶことは承知の上だが、こんな頼みごとをする私をどうか許してほしい」
――
俺、安田亮介には好きな女子がいる。
塩崎由奈。
中学からの腐れ縁で、あいつのことで知らないことはないと思う。
運動神経は悪くないのに運動嫌いで、食べ物はなんでも好きなのに、飲み物は水しか飲まない。
あいつの好きな歌も知ってる。
あいつの好きなゲームも知ってる。
あいつの好きな、男子も知ってる。
あいつはたぶん、というか絶対、俺の親友に惚れてる。
凪は……変な奴だ。
高校からの知り合いだけど、普段何を考えているのかわかんないし。
俺からすればかなり頭がよく見えるのに、子供みたいなことを不意に言い出しては、ふらっと一人旅に出ることもある。
でも嫌いじゃない。
よく笑うし、気が回るし、人を下に見ない。
俺みたいな馬鹿の意見でも、よく聞いてくれる。
だから困る。
「あれ、今日って約束21時からで合ってるよね?」
「そのはず。寝てんじゃね?」
「あり得るなぁ、うちちょっと電話かけてくる!」
「頼むわ」
最近三人で遊んでいるオンラインゲームで、いつも通り遊ぶ予定だったが、時間になっても凪は来なかった。
時間に正確な凪にしては珍しい。
昨日は曖昧な約束だったし、22時と間違えてるって感じかな。
通話に一人残されて、手持無沙汰なのをキャラクターを右往左往させて何とか誤魔化そうと試みたが、3分ほどで限界が来た。
「電話するにしたってかかりすぎだろ。二人で話したり、してないよな……」
根拠のない疎外感に苛まれていると、待ちわびた入室音が鳴った。
「おう、どーだった?」
「だめ、何回かかけてみたんだけど出ないや。どうする?」
「寝てんだろ、とりあえず二人でやるか?」
「ちょっと亮介からもかけてみてよ」
「わかった、ちょっと待ってろ」
何とも言えない心情のまま、数度凪に呼び出しをかけてみたものの、結局成果は得られなかった。
対象のわからない苛立ちを込めてスマートフォンをベットに投げ戻し、通話に戻り由奈に結果を伝えるた。
正直ちょっとうれしかった。
ここ最近じゃあ由奈と遊ぶときは必ず凪もいたから、二人きりなのはすごく久しぶりで、結局進展はと言われればゼロと答えるしかないが、やはり俺は由奈が好きなんだと思い知らされた。
結局0時過ぎまでゲームを続けたが、凪からの連絡はなく「きっと疲れて寝てるんだろう」ということになり、そのまま解散した。
しかしその後、丸一日が経ち三日経ち、一週間が経ってもオンライン通知もSNSの通知も鳴らなかった。
初めのうちは由奈の焦り様に嫉妬心すら感じていたが、ここまで連絡が取れなくなると、さすがに俺だって心配が勝る。
「さすがに心配だよね……」
「家でも行くか」
「え、凪の家行ったことあるの?」
「無ぇけど、大学行ってから住んでる所は知ってる。目の前に小さい公園があって、夏場にセミがうるさいってぼやいてたんだ」
すっかり二人だけで育て切ってしまったキャラクターをほとんど手癖のように動かしながら、別に深く考えずにそう提案した。
「じゃあ様子だけでも見に行ってみてよ」
「は?由奈は来ないのか?」
「うちはいいよ、急に押しかけても迷惑だろうし」
「別に気にするような奴じゃねえだろ、なんで気にすんだよ」
自分にはしないような気使いを見せる由奈に少し腹が立った。
でもまぁ、自分でも今のは失言だったと思う。
一瞬の沈黙がひどく長く感じる。
「いいから行ってきてよ」
「……わかった」
翌日、すっかり冷え込んだ外気を尻目に、前に少しだけ聞いていた情報を頼りにアパートに着いた。
一人暮らし用の部屋が並んだところらしく、控えめな外観のわりにドアがいくつも連なっている。
部屋番号までは知らなかったが、一階なのは知っていたから表札を見ればと思っていたが、計算外だ。
表札を下げている部屋がほとんど、というか一部屋しかない。そこも全く見当違いの苗字。
ここにきて唐突になんだか胸にざらつくものが通った。毎日のように声を聴いていたのに、こうなってしまうともう凪と連絡を取る手段が一気になくなって、なんだか関係性すらもさらと消えてしまうような感じがした。
「凪ー!」
むやみやたらに名前を読んでみても返事はない。
仕方なく、とりあえず目についた適当な部屋のインターフォンを鳴らしてみた。
「はい」
「あっ、すんません。自分ここの一階に住んでる白瀬凪ってやつの友人なんですけど、部屋番わかんないですか?」
「は?知らねえよ」
「そうすよね、そいつと一週間以上連絡取れてなくて心配できたんすけど、なんか知りませんか?」
「ここ、あんま人住んでないからほかの部屋当たってみれば?」
「ありがとうございます!そうしてみます!」
なんだかここまでくると不安になったのかムキになったのか、もう凪と会わないと納得いかない気がして、とりあえず表札がない部屋を片っ端からインターフォンを鳴らしてみた。
結局凪が出ることはなかったし、もう一人出てくれた人は最近越してきたばかりだから知らないと告げてすぐに切ってしまった。
表札のある一部屋、インターフォンに出た二部屋を除くと一階にはあと三部屋。だが二部屋は恐らく空き部屋だ。
ガスメーターは動いてなかったし、カーテンが同じものだった。備え付けのものなんだろう。
そうなると残ったのは一部屋。
遮光の強いカーテンを閉め切り、インターフォンにも出なかった部屋。
ここが凪の部屋だろう。意を決して扉を数度叩いてみた。
「凪!俺だ!亮介、安田亮介だ!居るならあけてくれよ!」
数刻待っては見たがやはり返答はない。
部屋にはいないのかもと思ってはいた、ダメ元でドアノブを握ってみた。
そこに抵抗はなかった。
厳密にいえば、扉の重さと古びた蝶番からくる重たい抵抗はあったものの、扉自体はギィと音を立てて開いた。
広がっていたのは、なんとも殺風景な部屋。
ワンルームで世辞にも広くはない部屋なのに正に”異様”な静かさで、机に椅子、ベッド、パソコン、衣服。
おおよそ人が必要なモノはそろっているのに生活感だけが抜けたような、抜け殻のような部屋だった。
「なんだよこれ。凪、いないのか?」
部屋をあらかた探してみても、凪の姿はない。
服は何着か見覚えのあるものがあった、靴もそうだ。
ここが凪の部屋であることはおおよそ間違いはないはずだが、なんだか変な感じがした。
もっと正確に言うなら、ここに住んでいるのが凪であってそうでないような。
何がそう感じさせるんだろうか、モデルルームのように整理された部屋か、鍵が閉められていないことか。
洗濯機を開けると薄手のアウターがくしゃくしゃになって放置されていた。
これで外に出るには少々肌寒そうだなんて考えていると、なにか焦げたような嫌なにおいがして、思わず蓋を閉めた。
冷蔵庫には通販で買い溜めしてあるペットボトルの水と、もう賞味期限を何日も過ぎた肉、変色した野菜。
ここまで部屋を見て、ひとつの確信があった。
凪はちょっと買い物に出ていたり、実家に帰省したり、旅行に行っているとかいうわけではない。
凪は、失踪している。
凪は少しの外出でも鍵をかけずに出るなんてことはしない性格だし、ここまで整理された部屋に住む人間が、洗濯物を臭うまで貯めたり、賞味期限の切れた食料品を冷蔵庫に放置したりしない。
好奇心や凪を心配する思いから部屋を漁り始めたが、それが段々と恐怖に変わるのを感じた。
例えば外出して、何かの事件に巻き込まれたとか。
いや、それなら鍵が開いている理由がない。
居直り強盗に出くわしてそのまま拉致?
いや、この部屋の何処を見ても争ったような形跡なんてない。
とりあえず警察に相談してみるか?
でもそれでただの鍵のかけ忘れだとまずいな。
何とか凪につながる手がかりはないかと思考を巡らせていると、おもむろに玄関の扉が開いた。
「え、凪?」
「なんだ、先客がいるのか」
そこに立っていたのは一人の大男だった。
トレンチコートにハットをかぶり、一見理知的な大人に見えるが、頬に残る継ぎ接ぎのような跡が異常感を演出する。
男は青白い肌に、卵が腐ったような嫌なにおいを漂わせ、丸太のような足で仁王立ちをしながら続けた。
「お前は誰だ?白瀬凪の知り合いか?」
「凪を知ってるんですか?!」
「……知らん。お前は?」
「俺は、凪の友人です。あいつと連絡がつかなくなったんで、探しに来たんです」
「……そうか。気の毒だな」
「あなたは誰なんですか?凪がどこに居るか知ってるんですか?」
「悪いが答える義務はない」
そう答えるともうこちらが見えなくなったように、大男は部屋に土足のまま上がり込んできた。
「おい!何してんだよここ凪んちだろ!」
必死の問いかけもまるで届かない。
そのまま台所に向かい、シンクや食器がしまわれている棚を漁り、ゴミ箱をひっくり返し、畳まれていた服を乱雑に弄り、何かを見つけたのか胸ポケットにしまうと、そのまま玄関へと向かっていった。
こいつが凪について何かを知っているのは間違いない。
だのにそれが部屋を荒らす間、あっけにとられてただそれを眺めるしかなかった。
とうとう扉に手をかけたころ、ようやく言葉が出た。
「待ってください!凪は親友なんです!あいつがなんかに巻き込まれてんなら教えてください!」
「教えてどうなる?」
「俺が助けます」
「……白瀬凪は魔女に捕まった」
「は?」
「恐らく今も捕まったままだろう。そこで何をされてるかは知らん。だが間違いなく碌なことじゃない。俺が証拠だ」
そう言った男はゆっくりと振り返り、コートを捲り帽子を脱いだ。
その腹は大きく抉れ、頭部の脳みそが入っているであろう部分は大きく拉げていた。
「俺の体は死んでいる。脳だけで、他人の死体を借りて生きている。フランケンシュタインという博士が作った怪物を想像してくれれば大体正解だ。こうしたのは魔女だ。その魔女が白瀬凪を傍に置いている。」
「ちょっと待ってください、いろいろ追いつかないんですが」
「おまえが首を突っ込むというならついてこい。立ち去っても白瀬凪は俺が時期に家に帰す」
大男はそこまで言うと衣服を正し、外に出て行った。
――
男の車は古びた軽トラックで、世辞にも乗り心地がいいとは言えなかった。
ガタガタと大げさに揺れながら進む中ようやく男が口を開いた。
「900年ほど昔、いくつかの石粒が見つかった。何もないところに炎を起こしたり、水を生んだり、砂利を砂金に変えたり。まさに無から有を生む力を持った石だ。」
「そんな魔法みたいな……」
「そう、まさしく魔法だ。すぐに一人の女がそれの研究に没頭し、俺はその女の頭脳に魅了され研究を手伝うことにした。しかし月日が経ち、俺が不治の病にかかると、その女は俺という助手が居なくなるのを拒んだ」
「それで、あなたはこんな姿に?」
「これが彼女の望んだものだったかはわからんが、結果として俺は不老の体を得た。それがよくなかった。彼女はこの石を恐れ、悪しきものの手に渡るまいと略奪を始めた。研究者や物好きの資産家を手当たり次第に調べ上げ、逆らうものは焼き払った。集めた石は誰にも渡すまいと飲み込んだ。」
無言で降りる男に置いて行かれまいとついていくと、案内されたのは古びた倉庫。
辺りは埃と鉄のにおいが漂い、作業机には資料や工具が散乱し、恐らく寝床にしているであろうソファには、毛布が乱雑に敷かれていた。
「そんな奴がどうして凪を?」
「白瀬凪を捕えているのはその後継者に当たる女だ。そいつは先代にうまく取り入ると、腹を裂き、溶け合い食道よりも数段大きくなった賢者の石を、喉を裂きながら飲み、魔法使いになった残虐な魔女だ。白瀬凪が誘拐された理由はわかってない」
話しながら、男は段ボールから取り出した缶珈琲を一つ渡してくれた。
「それで、あなたについて聞いてもいいですか?」
「俺か?俺は彼女が石に中てられて以来、あの石の破壊を目標に動いてる。身元不明で引き取り手が居なくなった死体を偶に引き取っては、自分の体を参考に手術を施して偵察に行かせてるが、今の魔女は先代のそれより数段質が悪くてな。人を殺すことに躊躇がない。まぁどれも、既に死んだ者たちだが」
「そーゆーことも大事ですけど、俺が聞きたいのはそうじゃなくて」
「……見当がつかん」
「名前とか!何が好きとか!もっと前提の部分があるでしょう!」
「名前は……忘れた。好きに呼べ」
それまで不愛想で常に睨むようだった顔つきが、初めて少し緩んだ気がした。
飲み切った缶コーヒーを片手で軽くつぶす姿はやはり異質なものを感じるが、そこには確かに流れる赤い血を感じた。
「よろしくな!おっさん!」
――
「実家に帰ってるらしいよ」
スマートフォンの通知欄にはそう端的に表示された。
嘘だ。
この男とはもう知り合って七年になる。
らしいよなんて語尾そうそう使わないし、アイツだって結構心配していた、恨みごとの一つや二つ言わずにはいられないはずだ。
第一こいつは嘘が下手。
なんで部屋に行ったからって実家にいるってわかるの?連絡がなかった理由は?
追及することは簡単。
でも、できない。
下手くそな亮介が嘘をつくってことは、それなりの理由がきっとある。
そしてそれは大抵私のためだ。
少なくともこれまではそうだった。
だから私は、こいつを嫌いになれない。
理由は想像がつく。
私が凪を好きなのがバレたんだと思う。
でも凪はきっとそうじゃなかった。
それで凪が私と距離をとった。
いつかこうなると思ってた。
凪のことは大好きだけど、その為だけに無為にできるほど、亮介のことも嫌いじゃない。
というか好きだ。
もちろん凪に対するものとは種類は違うけど、友達として、幼馴染として、弱い部分も亮介になら打ち明けられた。
だから困る。
「そう、ならよかった」
思ってもない言葉を、打ち込み送信する。
きっとこれで、万事うまくいく。
私の恋は、終わることなく消えていった。
「こんなことなら、伝えればよかったな」
いつもと同じはずの部屋が、なんだかひどく暗く見えて。
視界の端が魚眼レンズの映像みたいに歪んでいく。
こんな時は誰かに打ち明けて思いっきり――
そう考えて初めて、思い人と親友の二人を同時に失ったことに気がついた。
涙があふれ出る。
椅子に座っているのもだるくなって、泥のようにベットに横たわった。
どのくらいそうしていたんだろう。
カーテンの隙間からふと外を見ると、もうすっかり日は落ち、月が大きく光る。
ノスタルジーになってしまった今の私には、それだけで泣けてくる。
ちょっと歩こう、どこでもいい、コンビニとか。
部屋の中にいるといつまでも思考が晴れない気がする。
ハンガーからコートを奪い、律儀に並べた鍵を攫った。
冷たい風から隠れるように、肩をすくめて俯き歩く。
自分をどれだけ強く抱きしめても、冬の寒さは体の芯まで貫いた。
まっすぐ歩けているかすら不安に感じた時、ふと背後が温かくなった。
明るく、柔らかい、太陽のような温かさ。
「君、塩崎君だね。こんな冷える日に何してるんだい?」
「え?誰?」
振り返ると眼前に居たのは、背の高いショートカットの女性だった。
彼女の腕には一握りの炎が揺らめいて、その瞳は優しく輝いていた。
「驚かせてすまないね、私は魔法使い。凪君の知り合いといえば早いかな?」
「凪の?」
「うん。彼には世話になってるよ」
「やっぱり実家じゃないんだね」
「今は私の家に隠れてもらっているんだ」
「隠れるって、何から?」
「悪い化け物だよ。凪君の持ってる不思議な力を妬んでる奴がいてね」
突拍子もない話。
おそらく普段の私だったらそう笑い飛ばしていたと思う。
でも、否定する気力がなかったのか、その眼差しに異常なまでの真剣さを見たからか、疑問も困惑も不思議と全部飲み込めた。
「そこで塩崎君にお願いがあるんだ」
「私に?」
「そう、君にだ。これを持って行ってほしい」
そう告げる女性の手には、占い師が眺める水晶玉程度の石が置かれていた。
それはこれまで見たどんな宝石よりも赤黒く光り、目が離せないほど美しい。
「これがその”悪い奴ら”が狙ってる石でね、これを持ってできる限り遠くに行ってほしい。海なんかに出れたら最善だね」
「それで、凪は助かるんですか?」
「勿論だ。すぐに家に帰れるとは言えないが、少なくとも安全は保障できると考えているよ」
「分かりました。できる限り遠くですね」
「頼んだよ」
渡された紙袋は、石一つとは思えないほど重かった。
それでも凪に何もできなかった後悔を、思い切りぶつけるように走って駅前に向かった。
――
「二人でどこか、遠くに逃げませんか?」
「まったく君は魅力的な提案をするね。それが出来ないことくらいわかっているだろう?」
ベットに座って、月明かりに照らされながらタバコを吸う彼女は、やはりこの世の何より美しいと思えた。
僕が見よう見まねで切ったせいでガタガタになったはずの黒髪も、いくつもの怪我を負ったはずなのに跡一つない綺麗な背中も、少し汗ばんで艶やかに光る首筋も。
初めこそ彼女の魔法に強く惹かれたものだが、今ではすっかり彼女そのものが愛おしくなってしまった。
心地よい脱力感で横たわる僕を少しも見ないのに、握る手は決して緩めない。
彼女のそういう所が好きだ。
「君は、私のことが好きか?」
「当然。大好きです」
「それは私がどうなっても変わらないかい?」
「どうって?」
「私が年老いても、私が顔に傷を負っても、私が……魔法を使えなくなっても」
握る手が、また一層強くなった。
「当然です。」
「……そうか、ありがとう」
そう言いつつ彼女はまた、僕の上に倒れこんだ。
目が覚めると時刻はすっかり昼頃で、机の上には美麗な字で「日付が変わる前には戻るよ」と書かれたメモが置かれていた。
なんだか違和感を感じた。
なんだろう。
見渡してみても特段異質なものは見当たらない。
いつも通りの静かな昼下がりだ。
いや、違う。
臭いが違う。
タバコやコーヒーの混じったような心地よい香りがしない。
きっと気を利かせて消臭剤を巻いてくれたんだろうと腑に落ちつつ、汗を流すため浴室の扉を開けた時、微かに香るのは鉄の臭いだった。
忘れもしない、生血の臭い。
ただ記憶のそれと少し違うのは、消臭剤が強く吹き付けられていることと、それが焼けた臭いでないこと。
そこはかとなく嫌な予感がする。
「宅配便です!」
突如響いた声に驚いて振り向くと、インターフォンがすでに点滅していた。
どうやら聞き逃していたらしい。
「は――
返事をしようとして、少し前のことが過った。
これ以上心配をかけるわけにはいかない。
すり足で玄関に向かう。
覗き穴のカバーをずらす。
思わず息をのんだ。
そこにいたのは、やはりあの化け物であったのだが、それはいままで見たものより一回り大きな図体をして、何より"穏やかな"表情をしていた。
それが僕にとってどれほどの恐怖であったかは言うまでもない。
大丈夫、あいつらが簡単には入れないよう魔法をかけてくれた。
大丈夫、何度も想定してシュミレーションしてきた。
大丈夫、大丈夫。
何とか跳ねる心臓を抑え、事前に案内されていた裏口へと駆け出した。
外に出てからは、あまり覚えていない。
自分が今どこを走っているのかも曖昧になりながら逃げた。
走って。
細い道を曲がって。
走って。
人ごみを縫って。
走って。
段差によろめいて。
走って。
走って。
何度角を曲がり、何度人にぶつかり、何度転びそうになっただろうか。
振り返ると、そこはもう知らない街だった。
見かけた公園のベンチで腰を掛けて、上がりきった息を整えた。
寝巻のまま出たのがかえって都合よく、体の熱を急速に冷やしていった。
――
「配達のフリ?!」
「そうしかないだろう。あの家はあの魔女以外、内からドアを開けられんと入れんようになっとる」
「だからってそんなやっすい方法で通用するのかよ!」
「では亮介、お前にいい案でもあると?」
「そう言われると……」
「それに事実、一度成功している」
「マジかよ!?」
おっさん曰く、作り出した機械で魔女の位置が分かるらしいんだが、ひどく精度が悪いらしい。
精度っていうのは位置的な話じゃなく、時間的な話だ。
賢者の石とやらの反応を追ってるせいで、数時間前の位置を捕えたと思ったら、次の瞬間にはリアルタイムの位置を示すこともあるそうで、ぶっちゃけ詳しい理論は分からなかったが、とにかくそういうこと。
「俺が代わりにインターフォンを鳴らすのは?」
「駄目だ。魔女の魔法は時間と共に進化している。今では恐らくそれは人の記憶にも干渉しうるだろう。そうなった場合君が危険だ」
「危険なんて言ってられねえよ!凪はそんな奴につかまってんだぞ!」
「どの道君には任せられない。凪君がどうして捕まったのかわからん以上、安易に魔女と相対するべきではない」
「それは……そうだが」
「ともかく今回は、俺がベルを鳴らす。そして魔女が出れば俺が何とか食い止めるが、凪君が出た時、君に説得を任せられるか?」
「おっさんは大丈夫なのか?」
「俺の脳はとっくに腐ってる。弄るものもないだろうさ」
「なら、凪のことは任せろ」
――
そう息巻いてみたものの、あまり自信はなかった。
もちろん凪とは親友だ、そう思ってはいるが、特段何か大きな出来事があって親友になった訳ではない。
普通に知り合って、もうきっかけも覚えていないが、確か教室で話をした。
それが心地よくて、段々一緒にいる時間が増えて、気付けば横にいるのが当たり前。
どんな状態かも分からない凪に、何を言えばいいんだろう。
借りたノートパソコンの画面には、家の機械から送られてきた魔女の位置情報が、その家を点滅させている。
日が傾き始めて、道端に停まった車の反射で斜陽が眩しい。
そんなことを考えていると、おっさんから合図が来た。
打合せ通り準備完了の合図を返す。
音までは聞こえないがどうやら返答がないようで、数度インターフォンを鳴らし、ドアを軽くたたきながら声をかけていたが、ついに扉が開くことはなかった。
「残念だったなおっさん。揃って買い物でも行ってんのか?」
「いや、中から僅かだが物音がした。少なくとも凪君が部屋にいるのは確実だが、警戒されたかもな。」
「どうするんだよ」
「いったん出戻りだ」
高まった鼓動に反して肩透かしを食らったような気分で、落胆と安堵の中間で胸を撫で下ろした。
撤収の準備と思いパソコンのディスプレイに目を落とすと、画面に動きがあった。
「おっさん!魔女が動いてる!」
「どこだ?」
「これは、電車でも乗ってんのか?」
「そうらしいな、だが不自然だ。凪君を捕えてからあいつは一度も遠出していない」
「てか、魔女も電車とか乗るんすね。てっきりこう、箒なんかにまたがったりとか」
「そんなことしたら町中の人間に見られて大騒ぎだろう」
「それもそうか」
「ともかく反応を追うぞ。あいつの思惑の一端でも掴めるかもしれん」
画面上の点滅は、線路上をずっとずっと進んでいく。
駅の度に数秒停止することからそう遠くへは行かないだろうとおっさんのトラックで追いかけたが、どこまで行ってもそれは止まらなかった。
「どこまで行くんだよ」
「もう時期海が見えるな」
「このクソ寒いのに海?」
「まだズレてる可能性は否めんが、ここからは歩くぞ」
車を降り、冷たい海風に身を震わせるとおっさんは見かねてボロいトレンチコートをかけてくれた。
さっきまでおっさんが着ていたのに少しも温度は感じない。
ちょっと臭いし。
でも、温かかった。
「魔女がいるかもしれん、お前は向こうの小屋の陰から広く見ろ」
「どうせ断っても無駄だろ、わかったよ」
異様に急な階段をさび付いた手すりに触れないように登る。
そのまま堤防を歩いて、おっさんの指した小屋まで行こうと浜辺を一瞬見渡した。
「は?由奈?」
遠かった。
ノートパソコンが示しているよりももっとずっと遠く。
今にも海に触れそうな位置。
でも間違いない、あの服、あの髪、あの歩き方。
ずっと見てきた由奈だった。
なんで?とか何のため?とかそんな些細なことより先に足が動いた。
「おい!何してる!」
「由奈だ!幼馴染!逃がさないと!」
「待て!逸るな!」
分かってる。
俺が今してるのは”バカな真似”だ。
でももし近くにおっさんのいう魔女が居て、由奈が危険な目に合う可能性があるのなら、バカな真似をしてでも止めなきゃならない。
「由奈!」
「……え、亮介?」
「なんでここにいる?!」
「いやいや、あんたこそ何で居んのよ」
「いいから来い!」
「ちょっと!引っ張んないでよ!」
強引に腕を引いたせいで、由奈の持っていた紙袋の底が抜けた。
中身が鈍い音を立てて落ちる。
それは赤く、黒く。
見ているだけで引き込まれそうになる大きく丸い石。
由奈はひどく慌ててそれを拾い上げた。
理解できなかった。
というか、したくなかったんだと思う。
だってその石の魔性さは、それが何かを知らしめるのに十分だった。
「お前、それなんだよ」
「これは違うの女の人に――
「その女は魔女だ!離れろ亮介!」
景色が前に吹き飛んだ。
いや違う。
俺が後ろに吹き飛んだんだ。
地面に着いてようやく、おっさんに投げ飛ばされたと理解した。
おっさんが続けざまに由奈の胸ぐらに掴みかかる。
「その石を渡せ!」
「嫌だ!私のだ!」
直後由奈から閃光が走る。
昔映画で見たバックドラフト現象ってやつみたいだった。
おっさんの衣服は一瞬で焼け焦げ、革製だった靴とベルトだけが溶けて皮膚にへばりつく。
衝撃の反動で舞い上がった飛沫によって、すぐに炎は収まった。
それでも、由奈の腰は既に海水に濡れる。
何度波が当たっても、少しもその歩みは澱まない。
「おっさん!投げて!」
大きな腕を掴む。
火は収まっているのに掴んでいるだけで火傷しそうだ。
おっさんがまだ動けるかもわからない。
でもこうするしかもう由奈には追い付けないと思った。
「早く!」
どんな表情を浮かべたのか、焼け爛れた顔からは読み取れなかったが、少なくとも良いものではなかったろうと思う。
それでもおっさんは60キロ近くある俺の体を片腕で見ごとに投げ飛ばした。
体が錐もみ回る。
これじゃあ周りも見えない。
文句の一つでも言いたいところだが期待過剰か。
内臓が浮き上がる。
衝突に備えて全身が強張る。
目を開くと目の前に由奈がいた。
「どいてよバカ!持ってかなきゃいけないの!」
「話を聞けよ!それは危ないもんなんだよ!」
「知ってるよ!だから持ってくんじゃん!」
「なんのためにだよ!おっさんなら安全に処理してくれるから!」
「誰にも渡しちゃいけないの!私が海まで運ばなきゃ!」
「運ばなかったらなんだよ!」
「運ばなきゃ……あれ……どうなるんだっけ」
「は?」
「運ばないと、いけなかった気がする。じゃないと、大事な人が危ないって」
「大事な人って……凪か?」
「凪?……って誰?」
――
まだカーテンの引いていない部屋で、夕日が部屋をすっかり二つに分ける。
結局ユキさんが持ってきたのはせいぜい段ボール一つ分のガラクタで、何とか急いで買いまわった家具を並べていく。
「すまないね、私の我儘に付き合わせてしまって」
「いいんですよ、ユキさんと一緒なら」
「随分と少なくなってしまったね」
「どうせすぐ散らかりますよ」
「また片付けてくれるかい?」
「仕方ないですね。もう少し申し訳なく思ってもいいんですよ?」
「それはずっと思ってるさ。すっかり私は君なしで生きていられなくなってしまったし、安田君や塩崎君にも申し訳ないことをしたね」
「昔馴染みか何かですか?あまり僕の分からない話をすると妬きますよ」
「それもいいね」




