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揃えられた靴

作者: 塵芥 庵
掲載日:2026/04/19

彼女のリップが、洗面台の下に落ちていた。

まだ新しくて、ほとんど使っていない。

高いんだろうな、と思った。

それで、やっと終わったんだと気づいた。


今まで何人と付き合ったっけ。

そんな、数を数えるような恋愛をしていた。


大学の恋愛だって、軽いはずだった。

いつもみたいに、次に行くだけのはずだった。


大学に入って二人目の彼女。

最初は友達の友達って感じで、

印象は、あんまり可愛くない。

それが気まずかったんだろうな。


ただ、なんだか彼女が気になった。

飲み会の時、ちゃんと周りを見てる。

友達の家で集まった時、ひとりでみんなの靴を揃えてた。


「ちゃんとしてるなぁ」

なんて友達と笑ってたけど、

俺に足りないものを、彼女は最初から持っている。

そんな気がしてた。


それからご飯に誘ったり、映画に誘ったり、

自然に誘ってたつもりだけど、

付き合ったあと、「わかりやすかったよ」なんて笑われた。


今までで一番だって思ってた。

友達よりも大事だし、家族に紹介だってしたかった。


ただ、だんだんと変わっていた。

最初は彼女の方から「ここに行こう」なんて言ってたのに、

いつのまにか俺の方から誘ってた。


あとで聞いた。

「母親みたいで嫌だった」って。


勝手にやっといて、今さら何だよ


もう、部屋には彼女がいない。


LINEで「出ていくから」

それだけが送られてきて、急いで家に帰った。


やっぱり、彼女らしい。


リビングに入ると、

机の上に、剥がされていない付箋の束が置かれている。


あぁ、そうか。水族館で買ってあげたやつか。

どんどん虚しさが湧き上がる。

何も書かれていない。


一枚も、使わなかったんだな。

せめてお別れの言葉でも……


ほとんど新品のまま置いていって、

それもいらないのか。


「なんだよ、もう。

俺だっていらねえよ」


無気力のまま、部屋をまわっていく。

何か違和感を感じ取る。

彼女の匂いだ。

あの香水の匂いが、まだ微かに残っている。


彼女の物が、いくつもそのままに残っている。


「全部、持っていけよ……」


どうすればいいのか、

何もわからないまま、

彼女のものをひとつひとつ袋に入れていく。


置いていったものを届けるついでに謝るか。

もう許してもらえないだろうな。


洗面台だけはやけに綺麗で、

「化粧品って高いんだからね!」

なんて言っていた姿を思い出す。


「ちゃっかりしてんな」

……いや、違うか。


どんどん思い出の彼女が、はっきりしてくる。


脱ぎっぱなしの靴下を、

彼女が溜息をつきながら拾う背中。

玄関の靴を綺麗に揃える姿。

また、脱ぎ散らかしちゃったな。


そんなことを思いながら俯くと、

洗面台の下にリップが落ちているのがわかった。

開けてみると、まだあまり使ってないのがわかる。


忘れてったのか。

高いんだろ、これ。


リップも一緒に袋に入れる。

他のものと比べて、

一際目立って光を反射している。


あーあ、こんなに集まった。

彼女の置いていったものが入った

ビニール袋を見る。


たった一つのリップと、他の小物。

これを持っていけば、会える理由になる。

そんなわけないのに、

ただもう一度会いたかった。


なんて言えばいいんだ。

「リップは高いんだろうから、持ってきたよ」


……いや、違うな。


全部持って、今日行こう。

家を出る時、自分の玄関を見た。

脱ぎ散らかされた靴。

これから履くもの以外は揃えて家を出た。


彼女の家に行くのは久しぶりだった。

やっぱり、こういうところなんだろうな。


そんなことを考えながら、

彼女のアパートのインターホンを押す。


待っていても、彼女は出てこない。


扉の前にもいないかもしれない。

ただ、言うしかないと思った。


「ごめん。

戻りたいとは言わない。

ただ、黙ったまま終わらせたくない」


気づいたら、片膝を立てていた。

自分でも意味がわからないまま、手を差し出していた。

格好なんて、どうでもいいのに、

どこか綺麗に決めたかった。

なんか俺、惨めだな。


「好きです。」


少し間を置いて、

「……もう一度、始めさせてください」


彼女はまた、俺の脱ぎ散らかした靴を見て、

溜息をつくかもしれない。

でも、あの部屋に戻るくらいなら、

何か、言わないと。


しばらくの静寂のあと、

音もなく、扉がそっと開いた。


外開きの扉に手が触れて、

やっと、開いたのだとわかった。


彼女の顔は、正直わからなかった。

泣いてもいないし、怒っているようでもない。


ただ、街ですれ違う他人の顔に近かった。


「何言ってんの?」


当たり前だ。そうだよな。


「やり直すんじゃない。

新しく、始めさせてほしい。」


彼女は、わずかに口元を緩めた。

「そんなことするタイプじゃなかったじゃん」


それだけで、来た意味はあった気がした。


ただ、開いたドアの隙間から見えたのは、

綺麗に揃えられた、知らない男の靴だった。

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