ただいま
『世界が平和になった日、僕は僕を拾ってくれた山小屋へ帰った。』
その青年が、王都の広場で行われている凱旋パレードの喧騒を背にしたのは、太陽が真南に差し掛かる直前のことだった。
金糸の刺繍が施された豪奢な外套を脱ぎ捨て、泥にまみれた革の鎧一式だけを身に纏い、彼は人混みの隙間を縫うようにして歩いた。
「勇者様!」「救世主様!」
背後で繰り返される歓声は、遠ざかるほどに波の音のように茫漠としていく。
彼は一度も振り返らなかった。その瞳に映っているのは、称賛の花吹雪でも、玉座に座る王の笑顔でもない。ただ、記憶の底に沈殿している、煤けた石造りの暖炉と、山を渡る風の音だけだった。
街を出て、平原を横切り、街道を外れる。
道なき道を歩くのは、彼にとって慣れたことだった。この異世界に突き落とされたあの日、彼は何も持っていなかった。選ばれし者だけが持つという「チート能力」も、神から与えられた聖剣も。
あったのは、生き延びるための執念と、文字通り死に物狂いで積み上げてきた、泥臭い努力だけだ。
剣を振れば掌は裂け、魔法を練れば血管が焼き切れるような痛みに襲われた。それでも彼は歩みを止めなかった。守りたいものがあったからだ。いや、正確には「帰りたかった」からだ。
三日三晩、彼は歩き続けた。
足の裏の肉は何度も破れ、古傷が疼く。だが、王都の柔らかなベッドで眠るよりも、この疲労感の方が彼にとっては「真実」に感じられた。
やがて、見覚えのある山の稜線が見えてきた。
そこは、観光地でもなければ、戦略的な要衝でもない。ただの、名前もなき峻厳な山だ。その中腹、雲がたなびく場所に、その小屋はある。
斜面を登るにつれ、空気の粒子が変わっていくのがわかった。
都会の煤けた風ではなく、針葉樹の鋭い香りと、冷たく澄んだ水の気配。
不意に、視界が開けた。
そこに、その場所はあった。
古びた山小屋。
石を積み上げ、丸太を組んで造られた、無骨で小さな家。
青年は、数歩手前で立ち止まった。呼吸が震える。
五年だ。
彼がこの世界に飛び、この小屋の扉を開け、戦いの渦中へと身を投じてから、五年の月日が流れていた。
世界は変わった。魔王は滅び、呪われた大地には再び緑が芽吹き、地図は書き換えられた。
けれど。
「……変わって、いない」
青年は、呆然と呟いた。
小屋の横にある薪割り台には、彼が旅立つ直前に割ったであろう薪の欠片が、そのままの形で転がっている。
軒先に吊るされた、魔除けの乾燥ハーブ。
風に揺れて、かすかにカラカラと乾いた音を立てる。
彼が旅の準備として研いで、壁に立てかけていった古い鎌。それは赤錆に覆われていたが、置かれた角度は一分たりとも狂っていない。
青年はゆっくりと小屋に近づき、入り口の柱に手を触れた。
そこには、ナイフで刻まれた小さな傷跡がある。
転移してきて間もない頃。言葉も通じず、ただこの小屋の老夫婦に拾われただけの、非力な子供だった頃。
彼は自分の背丈を、その柱に刻んだ。
指先でなぞってみる。
今の彼の肩よりもずっと低い位置に、その傷はあった。
あの日、自分はこの柱を見上げながら、世界を救うと誓った。
強くなれば、すべてが変わると思っていた。
けれど、いざ最強の力を手にし、世界を平和にして戻ってきた今、彼を最も揺さぶったのは、自分がいない間も
「何も変わらずにそこにあり続けた」風景だった。
彼は自分の手を見た。
無数の剣筋を弾き、魔法の暴走を抑え込み、魔王の心臓を貫いた手。
厚くなった胼胝と、消えない傷跡。
この手は、もうあの日、老夫婦が差し出してくれた温かいスープの器を、素直に受け取れるほど白くはない。
小屋の中から、気配はしなかった。
窓は閉ざされ、煙突から煙は上がっていない。
……そうか、と青年は思った。
五年という月日は、人間にとっては十分に長い。
あの日、すでに白髪だったあの二人が、まだここにいると期待する方が、どうかしていたのだ。
平和は勝ち取った。
だが、その平和を享受すべき人々は、もういないのかもしれない。
彼は、そっと柱から手を離した。
寂寞とした思いが、胸の奥からせり上がってくる。
英雄、救世主、勇者。
そんな仰々しい肩書きをどれだけ積み上げても、帰るべき場所を失えば、自分はただの「道に迷った子供」に戻ってしまう。
彼は深く息を吸い込み、山小屋に背を向けた。
これでいいのだ、と思った。
この風景が残っているだけで十分だ。自分が守りたかったものが、こうして「あの日」の姿のまま存在している。それだけで、自分の五年間は報われた。
彼は、一歩を踏み出した。
また、どこか名前のない場所へ。誰も自分を知らない場所へ。
その時だった。
「……おい。あんた」
しわがれた、けれど聞き間違えるはずのない声が、背後から届いた。
青年の身体が、落雷に打たれたように硬直した。
ゆっくりと、錆びついた機械のような動作で、彼は振り返った。
小屋の裏手。
小さな畑の方から、籠を抱えた老人が歩いてくるところだった。
腰はさらに曲がり、足取りはおぼつかない。その後ろには、同じように歳を重ねた老婆が、老人の袖を掴んで歩いている。
老人は、小屋の前に立ち尽くす青年を見て、足を止めた。
眩しそうに、何度も目をしばたかせる。
「……誰かと思えば。なんだ、その格好は」
老人の声に、青年の視界が瞬時に歪んだ。
王宮で受けた、どんな賛辞よりも。
魔王が最期に吐いた、どんな呪いの言葉よりも。
その「あんた」という無遠慮な呼びかけが、彼の心の奥底に刺さっていた楔を、一気に引き抜いた。
「ずいぶんと、遅かったじゃないか」
老人が、鼻を鳴らすように言った。
隣の老婆が、皺の刻まれた顔を綻ばせ、青年のもとへ歩み寄ってくる。
彼女は、青年が纏っている泥だらけの革鎧や、その手にある傷跡に、一切触れなかった。ただ、彼の顔をじっと見つめ、優しく、あの日と同じように言った。
「お腹、空いているでしょう? スープ、できてるわよ」
青年の膝から、力が抜けた。
世界を救った最強の脚が、崩れるように地につく。
喉の奥が熱くて、うまく声が出ない。
彼は、自分が英雄でも勇者でもないことを、この時初めて自覚した。
自分は、ただの青年だ。
死に物狂いで山を降り、そしてようやく、帰るべき場所にたどり着いた、ただの人間だ。
青年は、顔を覆った。
鉄の匂いや、魔法の火薬の匂いではない。
この山小屋に漂う、乾いた木と、温かいスープの匂い。
「……ただいま」
絞り出すような声だった。
五年間、ずっと言いたかった、けれど言うのが怖かった言葉。
「おかえり」
老人の、無骨な手が青年の肩を叩く。
夕暮れが、山小屋を黄金色に染めていく。
世界がどれほど変わろうとも。
英雄がどれほど忘れ去られようとも。
この場所の灯りだけは、明日もまた、変わらずにここを照らし続けるのだ。
青年の帰還を祝うのは、豪華なパレードではない。
ただ、暖炉で弾ける薪の音と、三つの器。
世界が平和になった日。
一人の男は、ようやく自分を取り戻した。
(了)




