人殺しと駄目人間
春の終わりの雨は、すべてを洗い流そうとするにはあまりに冷たく、そして執拗だった。
江戸の喧騒から切り離された吉原、その一角にある「双葉屋」。格式高いその楼閣の奥座敷には、しめやかな雨音だけが、絶え間ない三味線の音色のように響いていた。
刹那は、静かに正座していた。
黒地に銀糸の打掛。それは夜の闇と、そこに走る稲妻を思わせる、彼女にふさわしい装束だ。
髪には二本の簪が差されている。一本は、かつて彼女を育て、そして死んでいった姐さんの形見。鼈甲の滑らかな質感が、かつての平穏な、しかし偽りの日々を象徴している。
もう一本は、数日前の夜、菖蒲が贈ったものだった。
紅白の珊瑚がゆらゆらと揺れる、一見すれば可憐な意匠。しかしその芯は真鍮でできており、手に取ればずしりと重い。
「飾りではない」
彼はそう言って、彼女の髪にこれを差し込んだ。その重みは、まるで彼女の背負う業そのものを、物理的な質量に変えたかのようだった。その言葉の真意を、刹那はまだ測りかねている。
不意に、襖が滑る音がした。
番頭と楼主。そして、その背後に一人の男――菖蒲。
白い羽織の肩は、雨に濡れて色が濃くなっている。結い上げた髪から滴がひとしずく落ち、畳に小さな染みを作った。
けれど、その瞳は驚くほど凪いでいた。吉原の毒気に当てられることもなく、かといって聖人君子のような潔癖さもない。ただ、そこにあるのが当たり前のような、不思議な存在感だった。
「……本当に、よろしいのですか、旦那様」
楼主が、低い声で念を押す。その目は、菖蒲ではなく刹那に向けられていた。
「刹那は双葉屋でも指折りの稼ぎ頭。しかし、ただの遊女ではございません。その過去も、指先に染み付いた噂も、すべてご存じの上でのことでしょうな」
楼主の言葉には、商売人としての欲以上に、ある種の警告が含まれていた。この女を連れて行くということは、彼女が背負った影もろとも引き受けるということだ。
菖蒲は、短くうなずいた。
「承知の上です」
迷いのない声だった。
「刹那さんを、身請けしたい」
刹那の胸の奥が、わずかに震えた。
彼女はゆっくりと顔を上げる。唇には、いつ
もの完璧な微笑。それは、どんな客の前でも崩したことのない、鏡面のように滑らかな仮面だ。
「……旦那様。お戯れが過ぎますわ」
鈴を転がすような、廓言葉。
「私は、血で染まっております。たとえ金でこの身を買えたとしても、私の歩んできた道までは消えはしません。私の手は、もう白くはないのです」
刹那の脳裏を、数年前の光景がよぎる。
血の匂いが充満した座敷。無理心中を装い、自分を道具として育てた姐さんが、自ら首を突いた夜。
『いい、刹那。私たちは畳の上では死ねないの。笑って、全部を殺して生きなさい』
あの日、刹那は泣くことをやめた。
感情を計算機の中に閉じ込め、最も効率的で冷酷な道具として、この花街の裏側を生き抜いてきた。合理こそが、彼女の唯一の守り刀だった。
「消さなくていい」
菖蒲の言葉が、しとどに濡れた座敷に落ちた。
「あなたの過去も、その手で行った選択も。すべて、あなたがこの地獄を生き抜こうとした証でしょう。それを否定することは、今のあなたを否定することだ」
刹那の指先が、ぴくりと震えた。
「……人を、殺しているんですよ?」
雨音が一段と強まり、軒先を叩く。
「知っています」
「私は、合理的です。邪魔な者は、どんな手段を使ってでも排除する。情より、効率を取る。私はあなたにとっても、いずれ“邪魔”になる存在かもしれません。その時、私はあなたを消すことに躊躇しませんわ」
菖蒲は、ふっと笑った。
嘲笑ではなく、どこか自虐的で、それでいて温かい笑みだった。
「なら、その時は迷わず刺してください。あなたの手に掛かるなら、本望だ」
あまりにも穏やかな死の受容。
「でも私は、あなたを邪魔だとは思わない。なぜなら、私もまた、まともな人間ではないからだ」
刹那の視界が、微かに揺らぐ。
この男は、何を言っているのか。
目の前に積まれた金子は、彼女一人の一生を、あるいは数人の一生を狂わせるに十分な額だ。それを、自分のような「壊れた道具」のために差し出している。
「……どうして」
問いは、風に消えそうなほど小さかった。
「あなたを、自由にしたい」
菖蒲は即答した。
「そして、もし許されるなら。私も、あなたと一緒に自由になりたい。しがらみも、家柄も、期待も、すべて捨てて。ただの、名前のない二人になりたいんだ」
楼主が咳払いをした。
そこからは、事務的で、無機質な金の話が続いた。
一分一両、端数まで細かく計算され、双葉屋にとって最も有利な条件が提示される。菖蒲は、一つひとつに丁寧に頷き、印を押していく。
それは、刹那という「人間」が「物」として精算されていく過程だった。けれど、その光景を眺める刹那の心は、不思議と軽くなっていた。金で解決できる。それは、この呪われた場所との縁を、物理的に断ち切れるということだ。
すべての手続きが終わり、楼主たちが座敷を去った。
沈黙。雨音だけが二人を包む。
刹那は立ち上がった。重い打掛が、衣擦れの音を立てる。
彼女はゆっくりと、髪から一本の簪を抜い
た。姐さんの、鼈甲の簪。
それを、身請けの証文の横に置こうとして――思い直し、帯の間に差し直した。それは過去だ。捨てる必要はないが、もう、自分を縛るためのものではない。
そして、もう一本。菖蒲の贈った真鍮の簪に触れた。
指先に伝わる、金属の冷たさと重み。
「……旦那様」
刹那は、また笑った。
けれどその笑みは、先ほどまでの完璧な仮面ではなかった。ひび割れ、剥がれ落ち、その隙間から熱い何かが溢れ出している。
「後悔は、なさいませんか。私は、ろくな女ではありませんよ。料理も、裁縫も、きっと人並みにはできない。できるのは、人の弱みを見つけ、息の根を止めることだけ」
菖蒲は、少し考えるふりをして、悪戯っぽく言った。
「どうでもいいよ」
刹那の目が見開かれる。
「しがらみを捨てて生きよう」
彼は一歩、彼女に近づいた。その濡れた羽織から、雨と、微かな白檀の香りがした。
「人殺しと駄目人間で旅をしよう。二人の夜を歩こう」
刹那の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
これまで彼女を守ってきた「合理」という名の鎧。
「冷酷」という名の盾。
それらが、この男のたった一言の「どうでもいい」と、共犯者を求める言葉によって、無用の長物と化した。
胸が痛い。締め付けられるように苦しい。
十八年間、一度も流したことのなかった熱い液体の存在を、彼女は初めて知った。
「……本当に、馬鹿な方」
声が震え、嗚咽が混じる。
「あなたは、私を救おうなんて。そんな傲慢なことを」
「救うなんて、思っていない。救われたいのは、私の方だ」
刹那は、もう一度簪に触れた。
真鍮の重み。それは、これから歩む道の重みだ。
人を殺した罪は消えない。過去は追いかけてくるだろう。
けれど、この重みがあれば、風に流されることはない。地に足をつけ、自分の意志で一歩を踏み出せる。
「……行きましょう」
もはや、そこには遊女の艶っぽさはなかった。
一人の、幼さの残る少女の声だった。
二人は、双葉屋を後にした。
吉原の入り口、大門を抜ける。
三枚歯の下駄が、水たまりを跳ねる。
これまでその音は、男たちを誘惑し、あるいは敵を踏み砕くための合図だった。
けれど今は違う。
新しい土を踏み、未知の空気を吸い込むための、力強い歩みの音だ。
背後で、花街の灯が雨に滲んで消えていく。
刹那は、一度も振り返らなかった。
歩くたび、真鍮の簪がチリ、と小さく鳴った。
それは、冷たい雨の終わりを告げる音であり、二人だけの、不格好で、けれど自由な旅路の始まりを祝う鐘の音のようだった。
「どこへ行くのですか、旦那様」
「どこでもいい。雨の降っていない場所まで、ゆっくり行こう」
雨脚が、少しずつ弱まっていた。
雲の切れ間から、ほんのわずかな、名もなき星の光が覗いていた。




