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真実はいつも鋼鉄の紅さで

双葉屋の屋敷から戻った夜、花街の喧騒はまだ遠くで地鳴りのように響いていた。


刹那は、馴染みの置屋の一室で、ひとり鏡の前に座っていた。塗り壁の向こうからは、他の芸妓たちが客と交わす嬌声や、三味線の物悲しい音色が微かに漏れ聞こえてくる。


だが、彼女の周囲だけは、まるで深い水の底に沈んだかのように静まり返っていた。


彼女は、白く細い指先で、髪に刺さった簪をひとつずつ外していく。


まずは、真鍮の芯に鋭利な刃を仕込んだもの。一突きで頸動脈を断つ、彼女の商売道具だ。


次に、重厚な黒檀で作られた、重みのあるもの。近距離で打ち据えれば、男の側頭骨を容易に砕くことができる。


それらを漆塗りの箱へ慎重に収め、最後に残ったのは、何の細工もない、ただのべっ甲の簪だった。


かつて自分をこの道へ導き、そして冷たい雨の夜に果てた姐さんの形見。 


指先が、わずかに止まる。


「……情を持つな。心を持てば、刃が鈍る」


死に際の姐さんが残した呪いのような言葉が、耳の奥で蘇る。


刺客として生きる刹那にとって、他者はすべて標的か障害でしかなかった。それ以外の感情は、身を滅ぼす毒だと教え込まれてきたのだ。


なのに。


鏡に映る自分の瞳の奥に、揺らぎが見える。

あの日、双葉屋で出会った次男・菖蒲。


彼の、すべてを透かして見るような穏やかな視線が、鏡の向こうから自分を見つめ返しているような錯覚に陥る。刹那は、逃れるように冷たい水で顔を洗った。



数日後。


降り始めた霧雨が花街を煙らせる夕暮れ、双葉屋の次男、菖蒲は再び刹那を指名した。


彼は、この街の男たちが好むような、豪奢な贈り物も、耳をくすぐるような誇張した愛の言葉も持ち合わせなかった。ただ、一輪の菖蒲の花を飾った座敷に、背筋を伸ばして静かに座っていた。


刹那は、いつも通り、幾重にも塗り固めた完璧な微笑みを浮かべて入室する。


「またお越しくださるとは。双葉屋の若旦那も、よほどお暇なのですね」


毒を含んだ甘い言葉。からかうように、探るように、彼女は言葉の礫を投げる。


だが菖蒲は、怒るでもなく、困るでもなく、ただ穏やかに笑った。


「暇ではありません。私は、大切にしたい時間を選んで来ています」


「選ぶ」。


その、主体的な意志の籠もった言葉に、刹那の胸の奥がわずかに軋んだ。


酒が進むにつれ、周囲の喧騒が遠のいていく。付き添いの禿や他の客が席を立ち、広い座敷に二人きりになる時間が訪れた。


刹那は無意識に、身体に染み付いた「習性」に従い、距離を測る。


背後の障子まで、最短五歩。


そこを抜けて庭へ飛び出すまでは、七歩。

袖の中に潜ませた、極細の鋼糸は絡まりなし。


いつでも殺し、いつでも逃げられる。その確信だけが、彼女の平穏を支えていた。


「刹那」


名を呼ばれる。


客に名を呼ばれることなど、日常茶飯事だ。だが、彼の響きには、この街の男たちが特有に持つ「所有」の欲望が含まれていなかった。


「はい。何でございましょう」


「あなたは、あの日と同じ顔をしている」


「左様で。私、この顔には自信がございますのよ」


「いいえ。笑っているのに、笑っていない顔だ」


刹那は、手にした盃を置いた。わずかな衣擦れの音さえ、この静寂の中では鋭く響く。


「商いでございますから。お望みなら、泣き顔でも、怒った顔でもお見せしましょうか?」


「そうではない。あなたは、自分自身を演じることに疲れ果てている」


その核心を突く言葉に、刹那の指が袖の内の鋼糸に触れる。


指先が冷たくなる。心拍が早まる。


自分という存在の裏側に手を伸ばそうとする者は、危険だ。その仮面を剥ごうとする者は、死に値する。彼女の脳内にある暗殺者の回路が、菖蒲を排除対象として認識し始める。


「私を、哀れんでいらっしゃるのですか」


刹那は柔らかく笑う。だが、その瞳には凍てつくような殺意が宿っていた。


菖蒲は、彼女の殺気に気づいているのかいないのか、静かに首を振った。


「いいえ。尊敬しているのです。独りで立ち、独りで背負い、戦い続けているあなたを」


刹那の視線が、大きく揺れた。


尊敬。


そんな言葉、泥濘のようなこの街で、返り血を浴びて生きてきた自分に投げかけられるはずのない言葉だった。




その夜、刹那に新たな「仕事」が舞い込んだ。


依頼主は表向きには別の商家だが、その背後を辿れば、双葉屋の利権を脅かしている新興商会の幹部に行き着く。


標的は、狡猾で女癖が悪いことで知られる男だ。


最近、双葉屋の商路を力ずくで奪おうとし、菖蒲の兄である長男を罠に嵌めようとしているという。


「合理的に考えれば、実行すべき案件ね」


刹那は黒装束に着替え、夜の闇に溶け込んだ。


依頼主の正体が誰であれ、双葉屋の邪魔者を消すことは、結果として菖蒲の立場を守ることにもなる。そう自分に言い聞かせ、彼女は男が待つ裏庭へと忍び寄った。


「内緒のお話があるとか、伺っておりますが……」


刹那は、艶やかな笑みを纏い、男の背後に現れた。


男は下卑た笑いを浮かべ、彼女の肩を抱こうとする。


距離、二歩。


刹那の脳内では、すでに幾つもの殺害パターンが描かれていた。


彼女は髪に手をやり、一本の簪を抜き取った。根元をわずかに捻ると、中から細く鋭い鋼が突き出る。


一瞬の静寂。


鋼が月光を撥ね、夜風を切り裂く。


喉元へ、最短距離。


抵抗する隙さえ与えず、鋼は男の命を吸い上げた。


血飛沫は最小限。汚れを嫌う彼女の、完璧な仕事だった。


男の体が崩れ落ちるのを、高下駄で支え、音を立てずに地面へと横たえる。


計算通り。すべては、闇の中に葬られるはずだった。




翌日。


刹那は、再び双葉屋の屋敷に呼ばれた。


今度は、賑やかな宴の席ではない。屋敷の奥まった場所にある、手入れの行き届いた静かな庭園だった。


そこには、菖蒲が一人で立っていた。池を泳ぐ錦鯉を見つめる彼の背中は、どこか寂しげで、それでいて揺るぎない強さを秘めていた。


「昨夜、ある商会の幹部が亡くなりました。心臓発作、とのことですが」


菖蒲の声は、穏やかで、責めるような色はない。


刹那は、完璧な所作で頭を下げ、微笑んだ。


「まあ。物騒な世の中でございます。お若いのに、気の毒なことで」


菖蒲はゆっくりと振り返り、刹那の目をまっすぐに見つめた。


その目は、逃げない目だった。


「あなたですね」


断定ではない。だが、問いでもなかった。それは、深い理解と共にある確認だった。

刹那の心臓が、一度、強く、重く打つ。


「……何のことでしょう。私のような女に、何ができるとお思いで?」


完璧な声音。完璧な表情。だが、指先が微かに震えるのを、彼女自身が自覚していた。


菖蒲はゆっくりと歩み寄る。


三歩、二歩。


刹那の指は、反射的に袖の中の鋼糸を求めた。


ここで彼を殺せば、すべては終わる。証拠は消え、彼女の日常は守られる。


だが、菖蒲が口にしたのは、拒絶ではなく包容だった。


「責めません。あなたが何を背負い、何のために手を汚しているのか、私は以前から薄々は分かっていました」


「……」


「それでも、私はあなたという人間を選びたい」


刹那の呼吸が、大きく乱れた。


選ぶ。


また、その言葉だ。自分のような、闇に潜み、人の命を弄ぶ道具としてしか価値のない存在に対して、彼は何度もその言葉を投げかける。


「私は、若旦那が思っているような、綺麗な女ではありません」


「知っています」


「この手は、洗っても落ちない血に塗れています」


「でしょうね」


「いつか、あなたの大切なものを奪うことになるかもしれない。それでも、と言うのですか?」


菖蒲は、ふっと優しく笑った。


「それでも。あなたが地獄に落ちるというのなら、私も隣まで歩いていきましょう。救おうなんて、おこがましいことは言いません。ただ、あなたという個の重みを、共に分かち合いたいのです」


刹那は、初めて理解した。


この男は、自分を「光の世界」へ連れ戻そうとしているのではない。


自分の「闇」を否定せず、その闇の中に自ら踏み込んで、隣に並ぼうとしているのだ。


情は命取り。愛は、人を弱くする幻想。


そう教えられ、そう信じて生きてきた。


だが、凍りついていた彼女の胸に、初めて名

前のつかない熱い衝動が突き上げる。


袖の中の鋼糸から、指が離れた。 


代わりに、彼女は自分の震える手を、強く握りしめた。


庭の隅に咲く菖蒲の花が、風に揺れている。

刺客としての刹那は、この瞬間に死んだのかもしれない。


だが、ひとりの「女」としての彼女が、今、確かな産声を上げていた。


選ばぬはずの恋が、そして選ばれるはずのなかった命が、静かに、だが力強く、夜明け前の闇の中で芽吹いていた。

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