舞と菖蒲
帝都の西、石畳の奥にその屋敷はあった。
門構えは質素だが、庭石の据え方と灯りの数で、格が知れる。
有名な商家――双葉屋。
今宵は内々の宴。政財界の客が集うという。
刹那は駕籠を降り、ゆっくりと高下駄を鳴らした。
三枚歯が石を打つ音は、一定だ。揺らぎはない。打掛は深い紅。金糸が灯りを吸い、静かに光る。髪には幾本もの簪。その中に、刃を仕込んだものが三本。袖の裏には鋼糸。帯の内には細針。
そして――刃を仕込んでいない簪が一本。
死んだ姐さんの形見を持ち刹那は顔を上げる。
笑みを貼り付ける。
案内された座敷は和洋折衷だった。
畳の上に並ぶ洋酒の瓶。壁に掛けられたガスランプ。軍服の男、洋装の実業家、和装の年配者。
視線が一斉に向き刹那は一礼する。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
遊女言葉は柔らかく、甘い。だが目は冷えている。
舞が始まる。扇を開く。白い指先が弧を描くが足運びは静か。だが高下駄の重さは、常に地面を捉えている。
不測の事態にも即応できる重心。刹那は舞いながら、座敷を測る。
出口まで七歩。庭へは障子二枚。柱は三本。
客の酔いは深い。標的は今夜はいないので単なる接待だと思っていた。
ふと、視線を感じ舞ながらそちらを見た。
欲でもなく、品定めでもないただ、まっすぐな視線。
刹那は視線の主を見る。端の席に、ひとりの男。年は二十代半ば。和装だが、華美ではなく周囲と違い、酒をあまり飲んでいない。
目が、澄んでいる。
値踏みではない。観察でもない。ただ――見ている。
刹那は、ほんの一瞬だけ、足を止めかけたがすぐに舞を続ける。
揺らぎは許さない。舞が終わり拍手と笑いが溢れた。
刹那は盃を持ち、客を回ってゆく。
軍人の隣を過ぎ、実業家に酌をする。そして、あの男の前へ。
「お酒は、いかがなさいますか」
声は甘い。男は小さく笑う。
「少しだけ。強くないので」
控えめな声。刹那は酒を注ぐ。男の指先が盃に触れる。
震えはない。支配の意図もない。ただ、静かだ。
「舞、お上手でした。流石ここ一番の舞の名手だ」
ありきたりな言葉だが響きが違う。刹那は微笑む。
「お世辞でも嬉しゅうございます」
男は首を振る。
「世辞ではありません」
間。
そして。
「あなたは、笑うのが上手だ」
刹那の手が、わずかに止まる。
ほんの、一瞬だけ。すぐに動き出す。
「商いの一つでございますから」
声は完璧。だが心臓が、ひとつ強く打っていた。
宴の後庭に出る。
夜風が冷たい。刹那は息を整える。背後から足音がした。
「お客様。お一人で歩かれますと危のうございます」
男が並ぶ。
「双葉屋の次男です。菖蒲と申します」
刹那はゆっくり振り返る。
「刹那でございます」
菖蒲は庭の灯りを見る。
「この家は、兄が継ぎます。私は、余りものです」
冗談めかして言う。だが目は真面目だ。
「余りものにしては、よく見ていらっしゃる」
刹那は微笑む。菖蒲は首を傾げる。
「何をですか」
「……人をでございます」
少しの沈黙。菖蒲は言う。
「あなたは、疲れている」
その言葉に、刹那の背筋がわずかに強張る。
袖の内の鋼糸に、無意識に触れる。
危険ではない。だが核心に近い。
「そのように見えますか」
「ええ」
即答。
「でも、嫌いではありません」
刹那は、初めて理解する。
この男は利用できるかどうかを考える対象ではない。
むしろ――距離を取るべき相手だ。
座敷から呼び声がした。刹那は一礼する。
「また、お会いできましたら」
決まり文句。菖蒲は答える。
「ええ。必ず」
確信のように。駕籠に乗る。屋敷が遠ざかる。刹那は髪の簪に触れたり
刃のあるものと刃のないもの。
心が、ほんの少しだけ、揺れている。情は命取り。愛は幻想。
そう決めたはずだ。
あの男の目は、嘘を映していなかった。




