帝都葬花譚 麗しの遊女
帝都の夜は、甘い。
立ち並ぶ赤煉瓦の建物と、闇を切り裂くガス灯の青白い光。その光が夜霧に霞み、どこからか流れてくる三味線の音が湿り気を帯びて空気の中にゆるやかに溶けていく。
表通りの喧騒から一歩足を踏み入れれば、そこは迷宮のような路地裏。湿った石畳の匂いと、行き交う人々の熱気が混じり合う。その奥で、不夜城たる花街は、今日もすべての罪を飲み込むように笑っている。
「なあ、知ってるか? 最近、この界隈にどえらい別嬪がいるらしいぞ」
「ああ、知ってるよ。置屋『不知火』の新しい看板だろ。その噂で持ちきりだからな」
「一度拝んでみたいもんだねぇ。だが、ありゃあ金がありゃ会えるってタマじゃないらしいぜ」
「名は確か────」
「刹那」
その名は、夜の風に乗って、人々の欲望の狭間をすり抜けていった。
***
刹那は鏡の前に静かに座っていた。
部屋の隅に置かれた行灯が、朱色の壁を不気味に揺らしている。
彼女はまず、刷毛に水を含ませ、固形の白粉を丁寧に溶いた。首筋から肩、そして顔へと、一片の曇りもない白を塗り重ねていく。
それはもはや化粧というよりは、自らの人間性を塗りつぶすための儀式に近い。
鏡に映る自分の瞳を、刹那は他人事のように眺めた。
唇は柔らかく、眼差しは艶やかに。男を惑わし、理性を溶かすための道具としての顔が完成していく。だが、机の上に並ぶのは、白粉の器や紅皿だけではない。
彼女は、一本の簪を手に取った。
黒漆に繊細な金蒔絵が施された、細身の金属製の簪だ。一見すれば、ただの高級な髪飾りにしか見えない。しかし、その内部は精緻にくり抜かれ、中空になっている。
刹那が根元の飾りをわずかに捻ると、小さな金属音が響き、内部から細く鋭利な鋼の刃が滑り出した。
抜き身の長さは、ちょうど掌の幅ほど。
それは心臓を貫くには短すぎるが、喉の奥、頸動脈を断つには十分すぎる長さだ。
刹那はその冷たい輝きを瞳に映し、再び指先で留め具を戻した。重みは他の簪と変わらない。指先に染み付いた感覚だけが、それが凶器であることを知っている。
次に、足元に目をやる。
漆塗りの三枚歯の高下駄。花魁道中を歩くためのそれは、見た目以上に重い。
芯には特製の鉄が仕込まれ、三枚の歯の側面には、職人に特別に彫らせた薄い溝が走っている。これは、踏み込んだ衝撃を分散させず、一点に集めるための「破壊」の加工だ。
この下駄で踏み抜けば、冷たい石畳であっても、頑強な男の肋骨であっても、均等に力を逃がさず砕くことができる。
そして、最後に纏うのが、血のような赤に極彩色の刺繍が施された打掛だ。
鳳凰が舞い、牡丹が咲き誇るその裏地には、極薄の鋼糸で編まれた鎖帷子が縫い込まれている。
最上級の絹で覆われているため、外から見ても、たとえ男がその肩を抱いたとしても、硬い感触を悟られることはない。だが、賊の短刀程度なら、その刃を通すことはない。
さらに、袖の中には絹糸に見せかけた鋼のワイヤー。一度首に巻き付ければ、引けば引くほど肉に食い込み、音も立てさせずに命を刈り取る。
帯の内側には、数本の仕込み針。
彼女は毒を使わない。毒は死体に不自然な変色をもたらし、捜査の痕跡を残す。ただ急所を突く。それが最も確実で、最も美しい掃除の方法だと知っているからだ。
刹那はゆっくりと立ち上がった。衣擦れの音が、静まり返った部屋に重く響く。
「姐さん、お客様がお呼びです。……そろそろお時間かと」
襖の向こうから、若い禿の怯えたような、それでいて憧れを含んだ声が聞こえる。
「わかったわ。今行くわ」
刹那は、自らの感情を心の奥底、さらにその下の澱へと沈めた。
今宵の標的は、帝都の闇を差配する大物政治家、大河原。
彼はこの花街を自らの私物のように扱い、逆らう女がいれば精神を壊し、あるいは物理的に消してきた男だ。
表の法では裁けない、夜の住人たちの怨嗟。その「掃除」の許可は、すでに影の組織から下りている。
刹那は唇の端をわずかに吊り上げた。
鏡の中にいたのは、もはや一人の女ではない。死を運ぶ、美しい怪異だ。
座敷は、むせ返るような酒と香の匂いに満ちていた。
大河原は、恰幅の良い体を揺らし、下卑た笑い声を上げている。
「ほう、お前が噂の刹那か。なるほど、これほどの女は帝都中を探してもおるまい」
大河原の手が、刹那の白い細い顎を強引に持ち上げる。酒臭い息が顔にかかる。刹那は嫌悪感を微塵も見せず、むしろ陶酔したような潤んだ瞳で彼を見つめ返した。
「お強いのですね、旦那様。そんなに見つめられると、足が震えてしまいますわ」
甘く、とろけるような声で囁きながら、刹那は静かに盃を差し出した。
同時に、彼女の頭脳は冷徹に周囲を走査する。
大河原の酔いの深さ――まだ足元はしっかりしている。
周囲の護衛――襖の外に二人、廊下の曲がり角に一人。
障子までの歩数――五歩。庭の池までの距離――十歩。
(十分)
「少し、夜風に当たりませんか? 旦那様とお二人で、お月様を眺めたいのです」
刹那がそっと袖を引くと、大河原は鼻の下を伸ばし、「粋なことを言う」と上機嫌で立ち上がった。
離れの渡り廊下を抜け、人目のつかない石畳の庭へ出る。
帝都の空には、冷ややかな月が浮かんでいた。
石畳の角に来たところで、刹那はわざとらしく高下駄を滑らせ、よろめいた。
「おっと、危ない!」
大河原が待ってましたと言わぬばかりに、彼女の腰を抱き寄せようと身を乗り出す。
その瞬間、彼の喉元が無防備に晒された。
「逝ってらっしゃいませ」
刹那の指先が、髪に挿した簪の根元を弾く。
チリッ、という極小の金属音。
紅い袖が夜風を孕んで大きく翻り、大河原の視界を真っ赤に染め上げた。
その赤い幕の向こう側から、銀色の閃光が走る。
狙うのは、喉の真下。鎖骨の合わせ目のわずかな隙間だ。そこから斜め上に向かって、最短距離で刃を突き入れる。
声帯を破壊し、同時に頸動脈を正確に捉える。
大河原は、悲鳴を上げることさえ許されなかった。ゴボリと、喉の奥で泡立つような音が漏れただけだった。
刹那は瞬時に刃を引き抜き、指先の仕草ひとつで簪を元に戻した。
噴き出した鮮血は、計算された角度で彼女の赤い打掛の内側へと吸い込まれていく。表地には一滴の汚れも見せない。
彼女は大河原の重い体を、まるで酔いつぶれて眠った男を介抱するように、静かに石畳の上へ横たえた。
刹那は一呼吸置き、乱れた髪を直すと、わざと高下駄で石畳を激しく鳴らした。
「大変! 旦那様、旦那様! どなたか、お加減が……!」
艶やかな、それでいて悲痛な叫びが夜の静寂を切り裂く。
すぐに店の人足や女たちが駆け寄り、騒然となった。医者が呼ばれ、大河原の体が運び出される。
「……急な心臓の発作でしょう。最近、お疲れのご様子でしたから」
誰かが、事なかれ主義の言葉を口にする。
刹那は騒ぎの輪から一歩下がり、うつむいたまま、冷たくなっていく男の顔をちらりと見下ろした。
そこには達成感も、ましてや罪悪感もない。
ただ、計算が完璧に遂行されたという無機質な事実があるだけだった。
支度部屋に戻り、一人になった刹那は鏡の前で再び簪を外した。
刃を念入りに拭う。血はほとんどついていなかったが、鉄の匂いが微かに残っている気がした。彼女は白粉を直し、消えかかった紅を丁寧に引き直す。
ふと、鏡台の端に置かれた、もう一本の簪に目が止まった。
それは、今使ったものとは違い、地味で、使い込まれた跡がある古い簪だ。
それだけには、何の仕掛けも施されていない。ただの、細い木の簪だ。
「姐さん………」
かつて自分をこの地獄から救い出し、そして自分を庇って死んでいった、唯一の肉親以上の存在だった女性。これは彼女の形見だった。
刹那はそれを、そっと自分の髪に挿した。
どんなに追い詰められても、この簪だけは武器として使わないと心に決めている。
これは戦いのための道具ではない。自分がかつて人間であったこと、そして守れなかった大切な記憶を繋ぎ止めるための、唯一の錨なのだ。
夜が更けていく。
何事もなかったかのように、座敷からは再び三味線の音が聞こえ始め、男たちの下世話な笑い声が路地へと漏れ出す。
誰が死のうと、この帝都の夜が止まることはない。
刹那は立ち上がり、再び赤い打掛の裾をさばいた。
その唇を、完璧な、そして残酷なまでに美しい弧に描きながら。
「次は、どなたかしら」
人は怪異や幽霊よりも、ずっと脆く、容易く壊れる。
そして、その壊れた心を癒やすふりをして、さらに無残に壊すのもまた、人だ。
刹那は静かに歩き出す。
三枚歯の高下駄が、夜の石畳を凛として鳴らした。その音は、まるで誰かの冥福を祈る鎮魂歌のようであり、あるいは次の獲物への宣告のようでもあった。
帝都の夜は、どこまでも甘く、そして深い血の匂いがしている。




