第9話「偽りの正統と裏切りの代償」
駿河、江尻城。
夜の闇に包まれた城内は、静まり返っていた。
一室で、穴山梅雪は書類を見ていた。
四十過ぎの男。
かつては武田一族の重鎮として名を馳せた武将。
だが今は——徳川家康の庇護下にある。
「……甲斐の復興には、まず水路の整備が必要か」
梅雪は、書類に目を通しながら呟いた。
彼は、武将でありながら内政にも長けた男だった。
「徳川の下でも、武田の文化は守らねばならぬ」
梅雪の言葉には、誇りがあった。
彼は、自分の選択を恥じていなかった。
むしろ——これが正しい道だと信じていた。
「勝頼め。諏訪の血が混じった猪武者が」
梅雪は、鼻で笑った。
「あのような者に国は救えん。私は、甲斐の民を守るために徳川についたのだ」
彼は、自分こそが合理的な選択をしたと信じていた。
その時——
ガラン。
窓が、静かに開いた。
「……誰だ!?」
梅雪が立ち上がると——
黒い影が、部屋に入ってきた。
いや——複数の影。
そして、その中央に——
紫紺の瞳を輝かせた、若き武将。
「……勝頼……!?」
梅雪の顔が、驚愕に歪んだ。
「久しいな、梅雪」
勝頼は、冷たく言った。
梅雪は——驚くよりも先に、激昂した。
「生きていたか……!」
梅雪は、勝頼を睨みつけた。
「護衛は……?」
「消えた」
勝頼は、ニヤリと笑った。
「真田の策がハマったな」
「真田……昌幸か……!」
梅雪は、歯噛みした。
あの狡猾な男が、裏で糸を引いていたのか。
「勝頼、貴様のような猪武者に国は救えん!」
梅雪は、声を荒げた。
「私は穴山の血と、甲斐の民を守るために徳川についたのだ!」
「民を守る……?」
勝頼は、冷たく笑った。
「貴様は、自分を守っただけだ」
「違う!!」
梅雪は、叫んだ。
「私は、武田の文化を守ろうとした! 貴様のような猪武者が采配を振るうから、武田は滅んだ!!」
梅雪は、部屋の扉を開けた。
「穴山衆!! 出会え!!」
扉の外から、数十人の武士が飛び込んでくる。
穴山家の精鋭たち。
「主君をお守りせよ!!」
梅雪は、自らも太刀を抜いた。
「来い、勝頼! 私は逃げん!!」
その瞬間——
勝頼の背後から、二つの巨大な影が現れた。
影・馬場信春。
影・山県昌景。
「な……!?」
梅雪は、目を見開いた。
「馬場……! 山県……!」
穴山衆が、影の二人に斬りかかる。
だが——
ズバァッ!!
影の山県の一振りで、五人が両断された。
「ぎゃああああ!!」
悲鳴が響く。
影の馬場も、槍を振るって次々と敵を薙ぎ払っていく。
わずか数分。
穴山衆は——全滅していた。
「く……!」
梅雪は、太刀を構えたまま震えていた。
影の馬場と山県が、ゆっくりと梅雪に近づく。
「馬場……山県……」
梅雪は、声を絞り出した。
「私は……間違っていなかった……!」
「理屈は、わかる」
影の馬場が、重く響く声で言った。
「だが、貴様には『心』がない」
「何……?」
「主君と共に泥を啜る覚悟なき者に、国を語る資格なし」
影の山県が、冷ややかに続けた。
「貴様は、勝頼様を見捨てた」
影の山県は、梅雪を睨みつけた。
「それが、すべてだ」
「ば、馬鹿な……! 私は……私は正しい……!!」
梅雪は、震える声で叫んだ。
「正しいか、正しくないかは、俺が決める」
勝頼が、ゆっくりと梅雪に歩み寄った。
「貴様は、武田を捨てた」
勝頼の紫紺の瞳が、激しく輝いた。
「それだけで、十分だ」
刀が、一閃した。
ザン。
穴山梅雪の首が——地面に転がった。
【死者を確認】
【魂魄抽出を実行するか?】
【承諾 / 拒絶】
勝頼は、梅雪の死体を見下ろした。
「その政治の才と知識、死して俺のために使え」
勝頼は、手を伸ばした。
【魂魄抽出を実行】
ズズズズズ……
梅雪の死体から、黒い靄が立ち上った。
それは渦を巻きながら、人の形を成していく。
痩身の体。
知的な雰囲気を纏った姿。
だが、眼窩からは青紫の炎が揺らめいている。
【抽出完了】
【影の宰相・穴山梅雪 召喚成功】
【階級:宰相 / 特性『内政統括』を保持】
【自我:中 / 内政・外交を取り仕切る行政官】
影の梅雪は、ゆっくりと顔を上げた。
そして——
不服そうに、勝頼を見た。
「……御意」
その声には、明らかな不満が滲んでいた。
「この甲斐国、再建してみせましょう」
「ほう」
勝頼は、ニヤリと笑った。
「まだ口答えするか」
「私は、行政官として召喚されました」
影の梅雪は、冷静に答えた。
「ならば、意見を述べるのも務めのうち」
「……フン」
影の山県が、鼻で笑った。
「死してなお、口だけは達者だな」
「だが、有能ならば問題ない」
影の馬場が、静かに言った。
「さあ、梅雪。案内しろ」
勝頼が命じると、影の梅雪は不満そうながらも、歩き出した。
城の地下へと続く階段。
そして——
扉を開けると、そこには——
「これは……!」
桂が、目を見開いた。
金銀財宝。
兵糧。
武器。
すべてが、山積みになっていた。
「武田から持ち逃げした資産、ですな」
影の梅雪が、不満そうに言った。
「保全していたのですが」
「保全?」
勝頼は、冷たく笑った。
「盗んだ、の間違いだろう」
「……」
影の梅雪は、黙り込んだ。
「これで、甲斐の復興資金は十分です」
千代女が、満足そうに言った。
「ああ」
勝頼は頷いた。
「これを持ち帰る」
影の梅雪が、ため息をついた。
「……わかりました。目録を作成いたします」
「優秀だな」
勝頼が、言うと——
「当然です」
影の梅雪は、不服そうに答えた。
「私は、武田随一の内政官でしたから」
「ハハハ!」
影の山県が、笑った。
「死してなお、自負は残っているか」
「ああ」
勝頼は、影の梅雪を見た。
「それでいい。その誇りで、甲斐を立て直せ」
「……御意」
影の梅雪は、渋々と頭を下げた。
「行くぞ」
勝頼が命じると、影の軍団が動き出した。
資産を運び出し、城を後にする。
その夜。
勝頼たちは、甲斐へと戻る途中だった。
「殿」
桂が、そっと近づいてきた。
「梅雪様を……影になさいましたね」
「ああ」
勝頼は頷いた。
「あの男の才は、惜しい」
桂は、少し悲しそうな顔をした。
「梅雪様は……最後まで、ご自分が正しいと信じておられましたね」
「そうだな」
勝頼は、空を見上げた。
「だが、あの男は俺を裏切った」
勝頼の瞳が、紫紺に光った。
「裏切り者には、相応の報いを」
その言葉に、桂は何も答えなかった。
ただ、勝頼の手を握りしめた。
「殿……あまり、ご無理をなさらないでください」
「……ああ」
勝頼は、小さく頷いた。
影の馬場の言葉を、思い出していた。
「そのような力に頼れば、やがて貴方様の心まで影に食われますぞ」
だが——
「俺は、まだ大丈夫だ」
勝頼は、自分に言い聞かせた。
「まだ……俺は、俺だ」
月明かりの下、影の軍団が進んでいく。
その中には、莫大な資産を運ぶ影の梅雪の姿があった。
不満そうな顔で、それでも完璧に仕事をこなす姿。
それは——勝頼の「力」の証だった。




