第8話「表裏比興の者」
甲斐、国府の城。
勝頼は、執務室で頭を抱えていた。
机の上には、領地の報告書が山積みになっている。
焼かれた田畑。
壊された水路。
飢える領民。
「くそ……」
勝頼は、書類を睨みつけた。
戦いには勝った。
河尻を討ち、甲斐を取り戻した。
だが——
これからどうする?
「山県、馬場」
勝頼は、二人の影の将軍を呼んだ。
すぐに、二人が現れた。
「御意のままに」
影の山県が、恭しく頭を下げる。
影の馬場も、静かに控えている。
「お前たちに相談がある」
勝頼は、書類を見せた。
「この領地を、どう立て直せばいい?」
影の山県と影の馬場は、書類を見つめた。
しばらくの沈黙の後——
「……治水が必要です」
影の馬場が、静かに言った。
「水路を直し、灌漑を整える。そうすれば、来年には田畑が戻りましょう」
「検地も必要だ」
影の山県が、続けた。
「どの土地がどれだけの収穫を見込めるか。それを把握せねば、適切な税も取れぬ」
「……ほう」
勝頼は、少し驚いた。
二人とも、平時の統治についてはよく知っているようだ。
「だが——」
影の馬場が、苦しそうに言った。
「それには時間がかかります。少なくとも一年」
「そして、資金も必要です」
影の山県が、続けた。
「人夫を雇い、道具を揃え、種を買う。だが——今の甲斐には、何もない」
二人の声には、苦悩が滲んでいた。
「我らは戦って守ることはできても、無から米を生み出すことはできませぬ」
影の馬場が、静かに言った。
「……そうか」
勝頼は、深くため息をついた。
武人の限界。
正攻法では、どうにもならない。
「他国から奪う、という手もありますが——」
影の山県が、提案する。
「それでは、徳川や北条を刺激する」
勝頼は首を横に振った。
「今はまだ、大軍との戦いは避けたい」
「では……」
影の馬場が、困ったように黙り込んだ。
二人とも、これ以上の策が思いつかないようだった。
「……頭の回る男が、必要だな」
勝頼は、呟いた。
その夜。
勝頼が、一人で書類と格闘していると——
ピタリ。
気配が、消えた。
いや——現れた?
勝頼は、即座に立ち上がった。
「誰だ!」
「侵入者です!」
千代女が、クナイを構えて飛び込んできた。
その刃先の先には——
一人の男が、涼しい顔で座り込んでいた。
三十代半ば。
食えない笑顔を浮かべた、痩身の男。
「やあやあ、これはこれは」
男は、全く動じずに言った。
「望月の当主殿ではないですか。お久しぶり」
「真田……昌幸!?」
千代女が、目を見開いた。
「久しいですな、千代女殿」
男——真田昌幸は、ニヤリと笑った。
「勝頼様」
昌幸は、勝頼に向き直った。
「お久しぶりでございます」
「……真田か」
勝頼は、複雑な表情を浮かべた。
真田昌幸。
武田家の重臣にして、稀代の謀将。
そして——信玄の元で共に学んだ、同窓生。
「何の用だ」
「ご挨拶ですな」
昌幸は、肩をすくめた。
「影の軍団を率いて甲斐を奪還した、と。噂を聞きつけて、確かめに来ただけですよ」
昌幸は、勝頼をじっと見つめた。
その目は——値踏みをしているようだった。
「ほう……」
昌幸は、感嘆の声を上げた。
「相変わらず不器用ですな、勝頼様」
「……何?」
「生前のあなたは、誠実で、真面目で、そして——脆かった」
昌幸は、ニヤリと笑った。
「綺麗事を信じ、家臣を信じ、正攻法で戦った。だから——裏切られた」
「……」
「ですが、その紫の瞳」
昌幸は、勝頼の瞳を見つめた。
「ようやく『綺麗事』を捨てられましたか」
その言葉に——勝頼は、何も答えなかった。
ただ、静かに昌幸を見つめ返す。
「わしは、ずっと思っていたのですよ」
昌幸は、続けた。
「『勝頼様が、もう少し汚い手を使えたなら』と」
「……お前は、俺を見捨てたな」
勝頼の声が、低く響いた。
「ええ」
昌幸は、躊躇なく頷いた。
「勝ち目のない戦に付き合う義理はありませんので」
その言葉に、千代女が顔をしかめた。
だが、勝頼は——笑った。
「正直だな」
「嘘をついても、すぐバレますからな」
昌幸は、肩をすくめた。
「だが、なぜ今になって俺に?」
「あなたが変わったからです」
昌幸は、即答した。
「綺麗事を捨て、死者を従え、力を手に入れた」
昌幸は、ニヤリと笑った。
「これなら——勝てるかもしれない」
「……」
「わしを、客将として雇ってくださらぬか?」
昌幸は、恭しく頭を下げた。
「友として、あなたを支えたい」
勝頼は、昌幸をじっと見つめた。
この男——
忠義など、微塵もない。
ただ、面白さと生存戦略で動いている。
だが——
昔から、そういう男だった。
そして、俺の不器用さを補ってくれた。
「……いいだろう」
勝頼は頷いた。
「お前を、客将として迎える」
「ありがとうございます」
昌幸は、ニヤリと笑った。
翌日。
昌幸は、早速勝頼に献策を持ちかけた。
「まずは、資金の確保です」
「資金?」
「ええ」
昌幸は、地図を広げた。
「甲斐には、何もない。ならば——奪い返しましょう」
昌幸の指が、地図の一点を指した。
「穴山梅雪」
その名に、勝頼の目が鋭くなった。
「あいつか……」
穴山梅雪。
武田一族でありながら、勝頼を裏切り、徳川家康に寝返った男。
「奴は今、駿河におります。徳川の庇護下です」
「ならば、攻めるのは難しいな」
勝頼が言うと、昌幸はニヤリと笑った。
「いえ、攻めるべきです」
「何?」
「穴山梅雪は、武田から莫大な軍資金と兵糧を持ち逃げしております」
昌幸は、指を立てた。
「金銀財宝、兵糧、武器——すべて、武田家の資産です」
「……!」
勝頼は、目を見開いた。
「奴はそれを駿河に隠し持っている。わしの密偵が確認しております」
昌幸は、続けた。
「奴を殺すのは、復讐のためだけではありません」
昌幸の目が、鋭く光った。
「奴の財産を奪い返し、それを甲斐の復興資金に充てるのです」
「なるほど……」
勝頼は、深く頷いた。
「これは、私刑ではない。国家存続のための、必須事業です」
昌幸は、ニヤリと笑った。
「そして——徳川家康にも、動きづらい状況を作ります」
「どうやって?」
「まず、穴山が『武田を裏切った卑怯者』であることを、世間に広めます」
昌幸は、指を立てた。
「そして、穴山が『徳川にも裏切りを企てている』という偽情報を流します」
「……!」
勝頼は、目を見開いた。
「徳川家康は疑り深い。一度疑念を抱けば、穴山を遠ざける」
昌幸は、続けた。
「そして、孤立した穴山を——影の軍団で討つ」
「なるほど……」
勝頼は、感心した。
この男——恐ろしいほど頭が回る。
「ただし」
昌幸は、真面目な顔になった。
「これは時間がかかります。すぐには結果が出ません」
「構わん」
勝頼は頷いた。
「急いで失敗するよりは、確実に仕留める方がいい」
「御意」
昌幸は、ニヤリと笑った。
「では、早速取りかかりましょう」
その夜。
勝頼は、城の天守から夜空を見上げていた。
「真田昌幸か……」
あの男は、信用できない。
だが——昔から、そういう男だった。
そして、俺の足りないところを補ってくれた。
「殿」
桂が、そっと近づいてきた。
「真田様のこと、お考えですか?」
「ああ」
勝頼は頷いた。
「あの男は、俺を裏切るかもしれん」
「それでも、味方に?」
「ああ」
勝頼は、ニヤリと笑った。
「裏切るかもしれない奴を、どう使いこなすか。それが、王の器だ」
桂は、小さく笑った。
「殿らしいですね」
勝頼は、夜空を見上げた。
真田昌幸。
穴山梅雪。
そして——徳川家康。
「さあ、謀略の時間だ」
勝頼の瞳が、紫紺に輝いた。




