第56話「不死身の鬼と、折れた猛き槍」
慶長二十年五月六日早朝。
濃霧の道明寺。
後藤又兵衛率いる二千八百の兵が孤立していた。
霧——
視界が悪いだけでなかった。
方向感覚を狂わせる甘い腐臭が漂っていた。
魔王の吐息。
兵士たちが狂乱していた。
その中で又兵衛だけが獰猛に笑っていた。
その「殺気」で霧を晴らすほどの気迫を見せた。
「迷子になったら、血の匂いのする方へ走れ!」
又兵衛が、叫んだ。
「そこに敵がいる!」
徳川方の先鋒として現れたのは、影・馬場信春。
彼は霧の中から歩いてきたのではなかった。
最初からそこに「岩山として存在していた」かのような威圧感。
腕を組んだまま騎馬隊の突撃を「気合」だけで止めた。
馬が恐怖で嘶き、動けなくなった。
「……軽い」
馬場の声が、静かに響いた。
「貴様らの覚悟では、この『鬼美濃』の影すら踏めぬぞ」
「へっ、説教かよ」
又兵衛が、笑った。
「……どきな、爺さん! 俺は急いでるんだ!」
又兵衛が突撃した。
彼の槍は鉄をも貫く剛槍。
槍が馬場の胸に当たった。
その瞬間——
キィィィィン!
金属の悲鳴。
槍が飴細工のように曲がり、弾け飛んだ。
馬場の胸には傷一つなかった。
だが霊体がほんの一瞬だけ「揺らいだ」。
「(……ほう。肉体は砕けても、心は折れぬか)」
馬場の心の声。
その称賛の代償として馬場の拳が又兵衛を粉砕した。
ドガァン!!
又兵衛は全身から血を流しながらも、何度も立ち上がった。
魔王の瘴気によるものではなく純粋な「武人の意地」で体を動かした。
「ああ……楽しいなァ!」
又兵衛が、叫んだ。
「あんたみたいな化け物と殺し合えるなんてよォ!」
最後の突撃。
又兵衛の槍が砕け散った。
同時に馬場の拳が又兵衛の心臓を止めた。
馬場は倒れゆく又兵衛を支えた。
「……見事」
馬場の声が、静かに響いた。
「最期の一撃、確かに『芯』に届いたぞ」
又兵衛は満足げに笑って絶命した。
馬場は静かに合掌した。
霧が晴れた。
真田幸村が遅れて到着した。
そこには立ったまま絶命している又兵衛と、それを見守る馬場の姿。
「……又兵衛。すまない」
幸村の声が、震えていた。
幸村の背後で影・山県昌景が実体化した。
馬場と対峙した。
言葉はいらなかった。
山県が少しだけ寂しげに目を伏せた。
馬場が顎でしゃくるような仕草をした。
「……行け、山県」
馬場の声が、静かに響いた。
「お前の選んだ『新しい赤』を見届けてやれ」
かつての盟友同士が今は道を違えた。
切なくも熱い別れ。
馬場は道を譲った。
その際幸村の背中に声をかけた。
「小僧」
馬場の声が、静かに響いた。
「……死に急ぐなよ。生き急げ」
その言葉を背に受けて幸村は最終決戦の地・天王寺へ向かった。
又兵衛の死体を乗り越え修羅の道を進む。




