第5話「赤き猛将の帰還」
恵林寺は、静まり返っていた。
かつては武田家の菩提寺として栄えた寺も、今は荒れ果てている。
門は壊され、本堂の壁には焼け跡が残っていた。
織田の兵が、ここを荒らしたのだろう。
勝頼は、影の軍団を率いて境内に入った。
八百の影の兵士たちが、無言で整列する。
桂と千代女は、勝頼の両脇に控えていた。
「ここが……」
桂が、悲しそうに呟いた。
「信玄公のお墓が、あるのですね」
「ああ」
勝頼は頷き、奥へと進んだ。
本堂の裏手。
そこに、武田家の墓所があった。
月明かりに照らされた墓石が、整然と並んでいる。
そして——
一際大きな墓石。
武田大膳大夫源信玄公之墓
父の墓だ。
勝頼は、その前に立った。
しばらく、沈黙が続いた。
風が吹き、木々が揺れる音だけが響く。
「……親父」
勝頼は、静かに呟いた。
墓石に手を伸ばす。
冷たい石の感触が、掌に伝わってくる。
「お前の力を、貸してもらう」
勝頼が手をかざした瞬間——
ゴゴゴゴゴ……
墓石が、激しく振動し始めた。
黒い靄が、墓石から滲み出してくる。
だが——
その靄は、勝頼に向かってこなかった。
むしろ——押し返してくる。
【死者を確認】
【魂魄抽出を開始】
《警告:対象の自我が強大すぎます》
《現在の位階では制御不可能》
《抽出を中断します》
ドン!!
突然、墓石から強烈な圧力が放たれた。
勝頼が、一歩後退する。
「くっ……!」
墓石は、まるで勝頼を拒絶しているかのように、黒いオーラを放ち続けていた。
圧倒的な威圧感。
まるで、生前の信玄が睨みつけているかのような。
「殿!」
桂が、心配そうに駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!?」
「……ああ」
勝頼は、墓石を睨みつけた。
「まだ俺を認めないか、父上」
悔しさが、胸の奥で燻った。
冥府の王となってもなお、父には届かない。
俺の力は、まだ足りないのか。
「チッ……」
勝頼は舌打ちし、踵を返した。
「殿……?」
「信玄は、まだ早い」
勝頼は、墓所を見渡した。
信玄以外にも、武田家の重臣たちの墓がいくつも並んでいる。
そして——
勝頼の視線が、一つの墓石に止まった。
武田四天王 山県三郎兵衛尉昌景之墓
山県昌景。
武田四天王の一人にして、赤備えの猛将。
長篠の戦いで討ち死にした、武田家最強の攻撃力を誇る男。
そして——信玄の側近として、武田家の命運を左右してきた宿老。
「……あの頑固者なら」
勝頼は、その墓の前に立った。
「今の俺の力となるはずだ」
手をかざす。
今度は、迷いなく。
【死者を確認】
【魂魄抽出を実行するか?】
【承諾 / 拒絶】
「承諾」
ズズズズズ……
墓石から、真っ赤なオーラが噴き出した。
いや——赤だけではない。
黒と赤が混じり合った、禍々しい炎のような靄。
【抽出完了】
【影武者・山県昌景 召喚成功】
【階級:上級将軍 / 特性『赤備え』を保持】
ドン!!
墓石が割れ、そこから巨大な影が飛び出した。
黒い鎧。
だが、その全身からは燃えるような赤いオーラが立ち昇っている。
小柄——いや、影の兵士の中では小柄だが、筋肉質で引き締まった体躯。
背には、真っ赤な旗指物。
腰には、長大な槍。
影・山県昌景が、地面に降り立った。
その瞬間——
周囲の影の兵士たちが、一斉に身構えた。
まるで、本能的に「強者」を感じ取ったかのように。
影の山県は、ゆっくりと顔を上げた。
眼窩から、赤黒い炎が揺らめいている。
そして——
周囲を、ぐるりと一瞥した。
八百の影の兵士たち。
黒い鎧を纏った、異形の軍団。
影の騎士団長・滝川一益。
歩き巫女の千代女。
そして、北条夫人・桂。
「……ほう」
影の山県が、低く呟いた。
「死兵を用い、敵将を配下とし、女を侍らせる、か」
その声には——軽蔑が滲んでいた。
「勝頼様。また性懲りもなく、『力』だけに頼るおつもりか」
「……何?」
勝頼の眉が、ピクリと動いた。
「御館様は、力だけで天下を獲ったのではない」
影の山県は、静かに語った。
「策略を練り、民を治め、家臣を統べた。それが——武田の強さであった」
その赤黒い炎の瞳が、勝頼を見据えた。
「だが貴方様は、長篠で兵を無為に捨て、家臣に見限られ、ついには——この有様だ」
「黙れ」
勝頼の声が、低く響いた。
「そして今、冥府の力に縋る、と」
影の山県は、動じなかった。
「力に頼った者は、力に滅ぼされる。それが——」
「黙れと言った」
勝頼は、一喝した。
その瞬間——
勝頼の瞳が、紫紺に激しく輝いた。
【絶対命令権を発動】
ズン!!
影の山県の体が、強制的に動かされた。
片膝をつき、頭を垂れる。
「ぐ……!?」
影の山県の体が、軋む音を立てた。
「貴様の説教など、聞いていない」
勝頼は、冷たく告げた。
「俺が主で、お前は従者だ。俺の赤備えとなれ」
影の山県は、頭を垂れたまま——
「……フン」
低く笑った。
「体は動かぬが、口は利ける」
その声には、まだ抵抗の意志があった。
「勝頼様。貴方様は何も変わっておらぬ」
「何?」
「力で押さえつけ、意見を封じ、盲目に突き進む」
影の山県の声が、静かに響く。
「御館様は、決してそのようなことはなさらなかった」
勝頼は、拳を握りしめた。
また——父と比べられる。
生前も、死してなお。
「貴様に——」
「だが」
影の山県が、言葉を遮った。
「それもまた、一興か」
「……何?」
「死人の身なれば、貴方様の破滅に付き合うも悪くない」
影の山県は、顔を上げた。
その赤黒い炎の瞳が、勝頼を見つめている。
「よかろう。お手並み拝見といこうか」
そして——
ゆっくりと立ち上がった。
勝頼の絶対命令権が、解除される。
だが、山県はもう抵抗しなかった。
いや——正確には、抵抗する気がないのではない。
様子見をしているのだ。
「山県昌景、ここに参る」
影の山県は、槍を構えた。
「冥府の王という異能が、武田再興の切り札となるか、それとも破滅の毒となるか——その目で確かめさせていただく」
【忠誠を確認】
【上級将軍・山県昌景が麾下に加わる】
【権能『赤備えの猛攻』が解放される】
その瞬間——
影の山県の体から、赤いオーラが爆発的に広がった。
それは、周囲の影の兵士たちに伝播していく。
ズン、ズン、ズンッ!!
影の兵士たちの鎧が、赤黒く発光し始めた。
ただの黒い鎧が、赤い光を宿し、禍々しく輝いている。
その動きが、明らかに鋭くなった。
槍の構えが、完璧になった。
雑兵が——精鋭へと変貌していく。
「フン」
影の山県は、冷ややかに呟いた。
「死兵を強化して、何になる」
だが——
その効果は、絶大だった。
「これが……!」
千代女が、目を見開いた。
「赤備えの力……!」
「武田最強の攻撃部隊」
桂も、感嘆の声を上げた。
「それが、蘇った」
勝頼は、影の山県を見据えた。
「山県。次は河尻秀隆を討つ」
「河尻を、ですか」
影の山県は、即座に答えた。
「結構だが、奴は慎重居士。正面から攻めれば、籠城されましょう」
「ならば?」
「夜襲です」
影の山県は、淡々と続けた。
「死兵は疲れを知らぬ。夜間の強襲で、敵が陣を整える前に本陣を突く。これが最善」
その分析は——的確だった。
宿老としての経験と知識が、即座に戦術を導き出している。
「……なるほど」
勝頼は、小さく頷いた。
「では、その策に従おう」
「御意」
影の山県は、槍を掲げた。
「では、参りましょう。織田の首、いくつ取れるか——腕が鳴りますな」
勝頼は頷き、軍団に号令をかけた。
「全軍、進め! 甲斐を取り戻す!」
「「「はっ!!」」」
影の軍団が、一斉に動き出した。
その先頭を、影の山県が駆ける。
赤いオーラを纏った背中が、まるで炎のように見えた。
そして、彼に続く八百の兵士たちも、赤黒い光を宿している。
桂は勝頼の隣に寄り添い、千代女はその後ろに控えた。
「殿」
桂が、静かに呟いた。
「山県様は……少し、冷たい方ですね」
「ああ」
勝頼は答えた。
「だが、それでいい」
勝頼は、振り返って信玄の墓を見た。
「俺を崇めるだけの従者など、要らん。俺を試し、俺に苦言を呈する者こそ——真の家臣だ」
そう呟きながら、勝頼は歩き出した。
月明かりの下、影の軍団が進軍していく。
その数は八百。
だが、その全てが——赤備えの力を宿している。
武田の赤備えが、再び牙を剥く。
そして——
天下への道が、開かれようとしていた。




