第2話「忠実なる下僕」
月明かりが、小山田信茂の死体を照らしていた。
影の兵士たちに引き裂かれた彼の亡骸は、泥にまみれて転がっている。
かつて重臣として振る舞い、最後は裏切り者として死んだ男。
俺は、その死体の前に立った。
「殿……?」
背後から、桂の不安そうな声が聞こえる。
だが俺は振り向かず、ゆっくりと手を死体にかざした。
冷たい夜風が、俺の髪を揺らす。
指先から、何か黒い靄のようなものが滲み出ていくのが見えた。
すると——
【死者を確認】
【魂魄抽出を実行するか?】
【承諾 / 拒絶】
青白い光の文字が、視界に浮かび上がる。
冥府の託宣。
俺に与えられた、死者を従える力の証。
「承諾」
俺が呟いた瞬間、死体が激しく震え始めた。
ゴゴゴゴゴ……
地響きのような低音が、天目山全体に響き渡る。
小山田の死体から、ドス黒い煙が噴き出した。
煙は渦を巻きながら空中で凝縮し、人の形を——いや、人を超えた何かの形を成していく。
黒い鎧。
それは生前の小山田が纏っていた安物の当世具足などではない。
漆黒に輝く、まるで夜そのものを纏ったような重厚な甲冑。
肩当ては鋭く尖り、胸当てには禍々しい紋様が浮かび上がっている。
腰には長大な太刀。
そして顔は——兜に覆われ、眼窩からは青紫の炎が揺らめいている。
【抽出完了】
【影武者・小山田信茂 召喚成功】
【忠誠値:絶対 / 裏切りの可能性:零】
ズン、と重い音を立てて、影の小山田が片膝をついた。
その姿は——威厳に満ちていた。
「あ……ああ……」
影となった小山田が、低く太い声を発した。
「御館様……」
その声には、生前の傲慢さは微塵もなかった。
ただ、恭しく、畏れ多く、忠誠に満ちた響きだけがある。
俺は、その姿を見下ろしながら思った。
皮肉なものだ。
生前は欲に溺れ、保身に走り、主を裏切った小物が——
死して初めて、武人としての輝きを得たのか。
「小山田」
俺は冷たく呼びかけた。
「お前は、俺を何と呼んだ?」
「御館様……武田勝頼様……」
影の小山田は、さらに深く頭を垂れた。
重厚な鎧が、ガシャリと音を立てる。
「この身は貴方様のもの……命じられるままに……魂の最後の一片まで……」
「ほう」
俺は嘲笑を浮かべた。
「生前は『腰抜け』だの『武田の面汚し』だの好き放題言っていたな?」
「……申し訳、ございませぬ」
影の小山田は、震える声で謝罪した。
「浅はかな……この小山田……許されぬ大罪を……」
見ていて、滑稽だった。
生前、あれほど卑しく俺を罵倒していた男が、今は忠義の塊として跪いている。
死んでようやく、あるべき姿を得たというわけか。
「立て」
俺が命じると、影の小山田は即座に立ち上がった。
その動きに、一切の迷いはない。
二メートルを超える巨躯が、月明かりの下で黒く聳え立つ。
【命令権限:絶対】
【影武者は主の意志に逆らえず】
【死の誓約により永久に縛られる】
「お前は俺の下僕だ。二度と裏切ることはない——いや、裏切れない」
「はっ……」
影の小山田は、再び頭を垂れた。
「この身、御館様のために。永久に」
死んでなお、俺に仕える。
いや、死んだからこそ、完全に俺のものになった。
これが、裏切り者の末路。
そして——俺の力。
「殿……」
背後から、桂の声が聞こえた。
その声は、震えていた。
振り返ると、彼女は青ざめた顔で、影の小山田を見つめていた。
その瞳には、恐怖と困惑が混じっている。
体も、小刻みに震えている。
当然だろう。
死者を操り、敵を影の兵士に変える。
人の姿をした何か——それも、明らかに人を超えた力を持つ化け物を。
こんな異様な光景を見せられて、平然としていられる人間などいない。
「怖いか?」
俺は静かに問いかけた。
桂は唇を震わせ、一瞬言葉に詰まった。
だが——
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
そして、震える足で一歩、俺に近づいた。
「貴方様が魔王になろうとも、鬼神となろうとも……私は貴方様の妻です」
その言葉に、迷いはなかった。
桂は震える手を伸ばし、俺の手を掴んだ。
その手は氷のように冷たく震えていたが——それでも、強く、強く握りしめてきた。
「貴方様が征く道ならば、地獄の底までお供いたします」
彼女の瞳には、涙が滲んでいた。
恐怖に泣いているのではない。
覚悟を決めた者の、凛とした涙だった。
ああ、そうか。
この女性だけは——
生者であっても、俺を裏切らない。
「……桂」
俺は彼女の手を握り返した。
「お前だけは、守る。何があっても」
「はい」
桂は微笑んだ。
儚く、それでいて気高い笑みだった。
その時——
「御館様!!」
影の兵士の一人が、駆け寄ってきた。
「報告を」
「はっ。東の街道より、大軍が接近しております」
「数は?」
「およそ三千。旗印より、織田家臣・滝川一益の軍勢かと」
滝川一益。
織田信長の重臣にして、関東管領を任された猛将。
三千の兵を率いて、この天目山を包囲しに来たのだろう。
普通なら——絶望的な状況だ。
だが。
俺は、冷静に思考した。
三千か。
俺の手勢は、わずか十数騎。
数だけ見れば、勝負にならない。
しかし——
「影の軍団の特性を、見せてもらおうか」
俺は手をかざした。
すると、視界に新たな文字が浮かび上がる。
【影武者・能力閲覧】
【特性壱:物理攻撃無効】
【矢・刀・槍などの物理攻撃は影を貫通する】
【特性弐:無限再生】
【魂が主に繋がる限り、何度でも蘇る】
【特性参:恐怖付与】
【生者に本能的な畏怖を与える】
なるほど。
つまり——
「数など、無意味か」
俺は不敵に笑った。
物理攻撃が効かず、何度でも蘇る兵。
そんなものが相手では、いくら三千いようと関係ない。
むしろ——
「三千の屍が、三千の影になる」
それだけのことだ。
「ふ……ふふふ」
俺は笑った。
「ははははは!!」
笑いが止まらなかった。
絶望ではない。
これは——歓喜だ。
「御館様……?」
桂が不安そうに俺を見上げる。
俺は彼女に微笑みかけた。
「心配するな、桂。もう俺たちに敵などいない」
そして、影の軍団を見渡した。
十二騎の影武者。
そして、今加わった小山田信茂。
まだ数は少ないが——質は、圧倒的だ。
「滝川一益か」
俺は不敵に笑った。
「ちょうどいい。実験台にさせてもらおう」
影の小山田が、恭しく頭を垂れた。
「御意のままに、御館様」
【次なる標的:滝川一益軍】
【推定戦力:三千】
【影の軍団による殲滅作戦を開始するか?】
俺は、迷わず答えた。
「承諾」
雨上がりの夜空に、月が冷たく輝いている。
そして——
冥府の王の、最初の戦いが始まろうとしていた。
三千の兵が来るなら、三千の影を手に入れればいい。
それだけのことだ。
「全軍、進め」
俺の命令に、影の軍団が一斉に動き出した。
黒い鎧が、月明かりに反射して鈍く光る。
桂は俺の隣に立ち、震える手を俺の腕に回した。
「参りましょう、殿」
「ああ」
俺は彼女を抱き寄せ、歩き出した。
織田の大軍が何だ。
徳川の策略が何だ。
俺には、死者の軍勢がいる。
そして——
この戦いが終わる頃には、滝川一益の三千も俺の手駒になっているだろう。
復讐の狼煙は、上がった。
次は、本格的な狩りの時間だ。




