第18話「影の騎士団長と、月下の妻」
信濃と美濃の国境付近。
影の軍団が、静かに進軍していた。
その先陣を務めるのは——
影の騎士団長・滝川一益。
かつて織田家の重鎮だった男。
今は、勝頼の配下として影となった武将。
「殿」
一益が、勝頼に進み出た。
「何だ?」
勝頼が、振り向いた。
「次なる敵、織田信忠様は……決して侮ってはなりませぬ」
一益の声には、警戒が滲んでいた。
「あの御仁は、信長様のご気性と、冷徹な理性を併せ持つ傑物」
一益は、続けた。
「油断すれば、我ら影とて消し飛びます」
「……」
勝頼は、一益を見つめた。
一益は、かつて織田家に仕えていた。
だからこそ——信忠の恐ろしさを熟知している。
「それだけではありません」
一益が、声を潜めた。
「信忠様は近年、南蛮の宣教師と頻繁に会っておられた」
「南蛮……?」
勝頼が、眉をひそめた。
「ええ」
一益は頷いた。
「某が織田に仕えていた頃、信忠様は宣教師たちと何か……得体の知れぬ術を研究しておられました」
一益の目が、鋭く光った。
「この美濃の空気に、微かに異国の香が混じっております」
一益は、深く息を吸った。
「乳香か……聖水か……」
一益は、不安そうに呟いた。
「……嫌な予感がする。鉄砲や槍とは違う、得体の知れぬ『圧』を感じます」
「……わかった。気をつける」
勝頼は、頷いた。
その時——
偵察から戻ってきた望月千代女が、勝頼の前に跪いた。
「殿、戻りました」
「ご苦労」
勝頼が、労った。
だが——
千代女の左腕には、奇妙な火傷の痕があった。
「その傷は?」
勝頼の声には、心配が滲んでいた。
「申し訳ございません……」
千代女は、頭を下げた。
「単独で美濃の砦に潜入を試みましたが……」
千代女は、火傷の痕を見せた。
「結界に触れた瞬間、体が溶けるような感覚に襲われました」
千代女の声が、震えていた。
「あれは……忍びの術ではありません。光に焼かれたような……」
「……光?」
勝頼が、眉をひそめた。
「はい」
千代女は頷いた。
「まるで、太陽に触れたような……」
「見せろ」
勝頼は、千代女の腕を取った。
そして——
紫紺の光が、勝頼の手から溢れ出した。
だが——
傷口が、影の魔力を拒絶するように反応した。
シュゥゥゥ……
「くっ……!」
勝頼が、顔をしかめた。
治りが遅い。
まるで、属性が合わないように。
「殿……!」
千代女が、心配そうに勝頼を見た。
「お気になさらず……!」
「……」
勝頼は、何も言わなかった。
ただ——
じっと傷口を見つめていた。
異国の力。
光の力。
影の天敵。
「……千代女」
勝頼が、静かに言った。
「次からは、単独行動は控えろ」
「はい……!」
千代女は、深く頭を下げた。
その目には——
狂信的な陶酔が宿っていた。
勝頼という絶対強者への、狂おしいほどの依存。
野営の夜。
月明かりが、陣営を照らしていた。
その中で——
桂が、影の兵士たちの鎧を拭いていた。
「……」
影の兵士たちは、自我が薄い。
だが——
桂は、彼らに優しく声をかけていた。
「お疲れ様です」
桂の声が、静かに響く。
「御台所様……」
影の山県昌景が、恐縮したように言った。
「我らは死人。そのような気遣いは無用にございます」
「そうです」
影の馬場信春も、頷いた。
だが——
桂は、静かに言った。
「貴方たちは殿の業を背負う剣」
桂は、鎧を拭き続けた。
「ならば、その穢れを拭うのは妻の務め」
「……!」
影の山県と馬場は、何も言えなかった。
桂が影たちに触れると——
影たちが、少しだけ穏やかになった。
まるで、浄化されるように。
その慈愛に——
殺伐とした影の軍団の空気が、和らいだ。
それを見ていた影・上杉謙信が——
勝頼に近づいてきた。
「小僧」
謙信が、勝頼に声をかけた。
「何だ?」
勝頼が、振り向いた。
「酒はないか?」
謙信が、ニヤリと笑った。
「供物でもいい。何か飲ませろ」
「……ああ」
勝頼は、酒を用意させた。
謙信は、それを受け取って飲んだ。
「ふぅ……」
謙信は、満足そうに息を吐いた。
そして——
桂を見た。
「地獄に咲く花か」
謙信が、静かに言った。
「……枯らすなよ、冥府の王」
謙信の目が、鋭く光った。
「その女が死ねば、お前を『人』に繋ぎ止める鎖が切れるぞ」
「……」
勝頼は、桂を見つめた。
桂は、影の兵士たちに優しく語りかけている。
その姿は——
まるで聖女のようだった。
「……ああ」
勝頼は、静かに頷いた。
「わかっている」
翌朝。
一益の案内で、影の軍団は難所を越えた。
そして——
美濃国へと侵入した。
だが——
そこには既に、織田信忠の軍勢が待ち構えていた。
完璧な陣形。
隙のない配置。
「……やはり」
一益が、呟いた。
「信忠様は、こちらの動きを完全に読んでおられる」
だが——
一益の目が、何かを捉えた。
織田軍の陣形の中に——
旗指物だけでなく、奇妙な形の杭が林立していた。
縦に長く、横に短い木が組み合わされた形。
十字架。
「あれは……南蛮の呪具か?」
一益が、訝しんだ。
「……」
勝頼は、前方を見据えた。
織田信忠。
かつて、甲斐を攻め滅ぼした総大将。
そして——
南蛮の力を手に入れた男。
「上等だ」
勝頼は、刀を抜いた。
「甲斐を焼いた借りを、返す時が来たぞ」
勝頼の瞳が、紫紺に輝いた。
「全軍、戦闘準備!!」
影の軍団が、一斉に動き出した。
そして——
織田信忠との戦いが、始まろうとしていた。




