第12話「三河の盾と魔王の共鳴」
甲斐、東部国境。
北条氏直の軍勢が、敗走していた。
「全軍、退却を急げ!」
家臣たちの声が、響き渡る。
輿に担がれた氏直は、悔しそうに唇を噛んでいた。
「くっ……! 武田が、ここまで強いとは……」
氏直は、振り返った。
そこには——黒い鎧を纏った影の軍団が、静かに佇んでいた。
追撃はしてこない。
ただ——見送っているだけ。
その不気味さが、氏直の背筋を凍らせた。
「退け……! 全軍、小田原へ退却せよ……!!」
氏直の号令と共に、北条軍は撤退していった。
躑躅ヶ崎館。
勝頼は、地図を見つめていた。
「北条は、退いたか」
「ええ」
真田昌幸が頷いた。
「東の憂いは、消えました」
「だが——」
昌幸の顔が、険しくなった。
「南から、新たな壁が」
昌幸の指が、地図の駿河を指した。
「徳川家康。八千の軍勢で、国境を封鎖しております」
「……家康か」
勝頼は、その名を呟いた。
「街道を、すべて封鎖されたか」
「ええ」
昌幸は頷いた。
「物資の流通が止まります。このままでは、甲斐は干上がる」
昌幸は、深刻な顔で続けた。
「家康の鉄壁を崩さねば、未来はありません」
「……」
勝頼は、黙り込んだ。
経済封鎖。
それは、戦わずして敵を滅ぼす最も効果的な手段。
「影の斥候を放て」
勝頼が命じた。
「敵陣の様子を探らせろ」
「御意」
駿河、徳川軍の陣営。
徳川家康は、陣幕の中で地図を見つめていた。
「殿」
家臣が、進み出た。
「北条が、敗走したとの報告が」
「……そうか」
家康は、静かに頷いた。
「武田の影の軍団、やはり只者ではないな」
家康の隣には、一人の巨漢が控えていた。
鹿角の兜を被り、長大な槍を携えた男。
本多平八郎忠勝。
徳川家康の筆頭家臣にして、戦国最強と謳われる武将。
忠勝は無言で、ただ蜻蛉切を構えて立っていた。
だが——
その存在感は、圧倒的だった。
全身から、眩いほどの陽の気が溢れ出している。
まるで、太陽そのもののように——
その時——
陣営の外から、微かな気配が近づいてきた。
影の斥候。
勝頼が放った偵察兵が、徳川陣営に近づいてきていた。
だが——
シュゥゥゥ……
影の斥候が、忠勝の近くに来た瞬間——
音もなく、消滅した。
まるで、朝日に照らされた霧のように。
「……」
忠勝は、何も言わなかった。
ただ、蜻蛉切を構えているだけ。
だが、その圧倒的な陽の気が——
死者の冷気を、すべて焼き尽くしていた。
「……平八郎がいる限り、死人の小細工は通じぬな」
家康は、満足そうに頷いた。
「このまま封鎖を続けよ。敵は、いずれ干上がる」
安土城。
夜。
織田信長は、天守閣から夜空を見上げていた。
風が吹き、信長の髪を揺らす。
「……ほう」
信長は、西の方角——甲斐の方を見た。
そこから——何かが漂ってくるのを感じた。
死の気配。
冷たく、禍々しい——冥府の気配。
だが——
信長は、恐怖を感じなかった。
「……地獄の蓋が緩んだか」
信長の声は、静かだった。
まるで、日常茶飯事のように。
その時——
「殿」
背後から、若い声が聞こえた。
振り返ると、森蘭丸が立っていた。
信長の側近にして、美しい若武者。
「何用だ、蘭丸」
「お呼びかと思い……」
蘭丸は、恐る恐る進み出た。
だが——
その足が、止まった。
蘭丸の目が、信長の影を捉えたからだ。
月明かりに照らされた信長の影が——
人の形をしていなかった。
いや——人の形をしているが、その輪郭が歪んでいる。
まるで、何か別のものが——
「ひっ……!」
蘭丸が、腰を抜かした。
「殿の……影が……!」
「怯えるな」
信長は、振り向いた。
その声は、超然としていた。
「所詮は影よ。余の光で焼き尽くしてくれる」
信長は、再び夜空を見上げた。
「勝頼……」
信長の瞳が、静かに光った。
「余を楽しませてみせよ」
その声には——絶対的な威圧感があった。
甲斐、躑躅ヶ崎館。
勝頼は、執務室で険しい顔をしていた。
「斥候が……消えた?」
「ええ」
真田昌幸が頷いた。
「徳川陣営に近づいた瞬間、消滅したとのことです」
「……!」
勝頼は、目を見開いた。
「何者だ?」
「おそらく——本多忠勝でしょう」
昌幸は、静かに言った。
「あの男は、規格外です。生身でありながら、影を焼き尽くす力を持っている」
「……厄介だな」
勝頼は、拳を握りしめた。
「正面から攻めれば、奴に阻まれる」
「ええ」
昌幸は頷いた。
「ですが——」
昌幸は、地図を広げた。
「家康は街道を封鎖していますが、険しい山岳の抜け道には兵を配しておりません」
昌幸の指が、地図の山間部を指した。
「生身の人間なら凍死する道ですが……」
昌幸は、ニヤリと笑った。
「疲れも痛みも感じぬ『影の軍団』なら越えられる」
「……!」
勝頼は、目を見開いた。
「山越えで、背後を突くか」
「ええ」
昌幸は頷いた。
「家康の鉄壁を迂回し、その背後を突く。これが、唯一の道です」
勝頼は、地図を見つめた。
険しい山岳地帯。
普通の軍隊なら、到底越えられない。
だが——
影の軍団なら。
「……わかった」
勝頼は、決断した。
「その策で行く」
勝頼は、立ち上がった。
「全員、集めろ」
勝頼の号令に、影の四天王が集まった。
影の山県昌景。
影の馬場信春。
影の内藤昌豊。
「軍議を開く」
勝頼は、地図を広げた。
「敵は、徳川家康。八千の軍勢で国境を封鎖している」
勝頼の指が、地図をなぞる。
「だが、我らは山を越える。家康の背後を突き、封鎖を破る」
「……」
影の四天王は、黙って聞いている。
「このままでは、甲斐は干上がる」
勝頼は、拳を握りしめた。
「生き残るために、戦う」
勝頼の瞳が、紫紺に輝いた。
「準備を整えろ。近々、出陣する」
「「「御意」」」
影の四天王が、一斉に頭を下げた。
勝頼は、地図を見つめた。
家康。
そして——信長。
「待っていろ。俺が、必ず道を切り開く」
月明かりの下、影の軍団が静かに佇んでいた。
その数は、四千を超えている。
そして——
最強の将たちが、勝頼の配下にいる。
生存への道が、開かれようとしていた。




