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第10話「三河の古狸と小田原の憂鬱」

浜松城。

徳川家康は、書状を読んでいた。

四十を過ぎた男。

織田信長の盟友にして、三河・遠江を治める大名。

「……穴山が、消えた?」

家康は、眉をひそめた。

「はい」

家臣が、恐る恐る答えた。

「駿河の江尻城から、忽然と姿を消しました。護衛の者たちも、全員が……」

「全員が?」

「死体で見つかりました」

「……」

家康は、黙り込んだ。

「それだけではございません」

別の家臣が、進み出た。

「甲斐の河尻秀隆様も、討ち死にしたとの報告が」

「河尻も……?」

家康の目が、鋭くなった。

「一揆か? それとも残党か?」

家臣たちが、ざわめいた。

「武田の残党が、蜂起したのではないかと」

「いや、一揆の可能性も——」

だが——

「静まれ」

家康の一言で、家臣たちは黙り込んだ。

家康は、地図を見つめた。

甲斐。

駿河。

そして——武田。

「……総大将の織田信忠殿が、諏訪から引き上げた直後を狙ったか」

家康の呟きに、家臣たちが顔を見合わせた。

「殿、まさか……」

「織田軍三万が駐留している間は、何も起きなかった」

家康は、冷静に分析した。

「だが、信忠殿が凱旋し、河尻だけが残った途端——これだ」

家康の目が、鋭く光った。

「敵は、織田の主力が去り、統治が手薄になった一瞬の隙を突いた」

「では……計画的に?」

「ああ」

家康は頷いた。

「死人が、それほどの智謀を持つか……」

家康は、深く息を吐いた。

「服部」

「はっ」

影から、一人の男が現れた。

服部半蔵。

徳川家に仕える忍びの頭領。

「甲斐を探れ。何が起きているのか、この目で確かめよ」

「御意」

服部半蔵が、消えた。

家康は、再び地図を見つめた。

「国境を固めよ。甲斐との境に、兵を配置せよ」

「は、しかし……」

「今は動かぬ」

家康は、きっぱりと言い切った。

「敵の正体がわからぬうちに、迂闊に攻めれば——罠にかかる」

家康の目は、鋭かった。

「慎重に、盤石に、構えよ」


小田原城。

北条氏政は、書状を握りしめていた。

五十を過ぎた男。

関東を治める大大名。

その隣には、弟の北条氏照が控えている。

「……娘が、生きている、と」

氏政の声は、冷静だった。

「兄上」

氏照が、静かに言った。

「甲斐にて、勝頼と共にいるとの報告が届いております」

「勝頼……」

氏政は、顎に手を当てた。

娘・桂は、武田勝頼に嫁いだ。

だが、武田は滅んだ。

桂も、死んだと思っていた。

「生きていたか」

氏政の目が、鋭く光った。

「兄上」

氏照が、続けた。

「織田信忠殿の軍勢が、諏訪から引き上げたとの報もあります」

「……ほう」

氏政は、地図を見つめた。

「信忠軍がいる間は、手出しできなかったが——」

氏政の指が、甲斐を指した。

「奴らが去り、甲斐は空洞。好機かもしれん」

「兄上、いかがなさいますか?」

氏照が、尋ねた。

「勝頼が生きていれば、織田に対する交渉の札になる」

氏政は、冷徹に言い放った。

「あるいは——混乱に乗じて、甲斐を我が物にできるやもしれぬ」

氏政の目は、冷たかった。

娘の安否よりも——領土拡大の算段。

それが、関東の覇者・北条家当主の判断だった。

「国境に兵を集めよ」

氏政は、命じた。

「甲斐に、隙あれば侵攻する」

「承知いたしました」

氏照が、深く頭を下げた。


甲斐、躑躅ヶ崎館。

かつて武田信玄が居を構えた館。

今は、勝頼がここを本拠としていた。

執務室。

影・穴山梅雪が、書類を処理していた。

その速度は——人間離れしていた。

サラサラサラ……

筆が、紙の上を滑る。

一枚、また一枚と、書類が処理されていく。

「水路の修復は、西から。兵糧の配給は、まず飢えた村から」

影の梅雪が、淡々と呟く。

「駿河から奪った物資は、こう配分する」

その判断は——完璧だった。

感情がない分、最適解だけを出し続ける。

「それから——」

影の梅雪は、別の書類を取り出した。

「織田信忠が残していった物資のリスト、でございます」

「……」

勝頼は、その書類を見つめた。

兵糧、武器、建築資材——

すべて、織田軍が「終わった戦」と判断し、置いていったもの。

「皮肉なものだな」

真田昌幸が、ニヤリと笑いながら言った。

「敵が残した物資で、甲斐を復興する」

「ああ」

勝頼は頷いた。

「真田」

勝頼が、昌幸に向き直った。

「次の手は?」

「はい」

昌幸は、地図を広げた。

「まず、今回の勝因を整理しましょう」

昌幸の指が、地図をなぞる。

「織田信忠の軍勢三万が駐留していれば、我らに勝ち目はありませんでした」

「……」

勝頼は、黙って聞いている。

「ですが、奴らは『勝った』と判断し、凱旋した」

昌幸は、ニヤリと笑った。

「留守番として河尻秀隆を置き、統治を任せた。その『慢心』こそが、我らの勝因です」

「信忠……」

勝頼は、その名を呟いた。

織田信忠。

織田信長の嫡男にして、織田家の総大将。

かつて、武田と織田が対峙した時——

信忠は、常に最前線にいた。

「あの男もまた、俺を見下していたか」

勝頼の瞳が、紫紺に輝いた。

「いずれ、あの男とも決着をつけねばならぬ」

「その時は、必ず来ます」

昌幸は、頷いた。

「ですが、今は——」

昌幸は、地図の西を指した。

「西に織田、南に徳川、東に北条。完全な包囲網です」

「……」

勝頼は、黙り込んだ。

「ですが、彼らは疑心暗鬼になっている」

昌幸は、ニヤリと笑った。

「『死んだはずの勝頼が、化け物を連れて戻ってきた』という噂を、流しましょう」

「噂を?」

「恐怖こそが、最大の防壁です」

昌幸は、指を立てた。

「奴らが動けずにいる間に、我らは次に備える」

「次……?」

勝頼が尋ねると、昌幸は真面目な顔になった。

「織田の版図は、広がりすぎました」

昌幸は、地図の京を指さした。

「中国、四国、北陸——すべてを織田が抑えている」

「それが、どうした?」

「巨大な塔ほど、崩れる時は一瞬です」

昌幸は、ニヤリと笑った。

「内部に亀裂が走れば——一気に瓦解する」

「……なるほど」

勝頼は、深く頷いた。

「では、今は動かず——」

「ええ」

昌幸は頷いた。

「恐怖で敵を縛り、内から崩れるのを待つ」

「いや」

勝頼は、拳を握りしめた。

「待つだけではない」

勝頼の瞳が、紫紺に輝いた。

「俺たちが、その崩壊の引き金を引くのだ」

昌幸は、満足そうに笑った。

「……御意」


その夜。

勝頼は、城の天守から夜空を見上げていた。

「殿」

桂が、そっと近づいてきた。

「お考えですか?」

「ああ」

勝頼は頷いた。

「真田の策は、見事だ」

「ですが?」

「だが——」

勝頼は、拳を握りしめた。

「俺は、待つのが苦手だ」

桂は、小さく笑った。

「殿らしいですね」

「ああ」

勝頼は、ニヤリと笑った。

「だが、今は我慢する」

勝頼は、夜空を見上げた。

織田信長。

織田信忠。

徳川家康。

北条氏政。

「天下の舞台が、動き出す」

勝頼の瞳が、紫紺に輝いた。

「俺は、その隙を突く」

月明かりの下、影の軍団が静かに佇んでいた。

その数は、三千を超えている。

そして——

最強の将たちが、勝頼の配下にいる。


木曽路。

山深い街道を、一人の男が馬で進んでいた。

織田信長。

天下布武を掲げ、日本の半分を支配する男。

第六天魔王。

彼は今、甲斐征伐を終えた息子・信忠を迎えるために、安土から出向いていた。

「殿」

家臣が、馬を並べて進み出た。

「まもなく、信忠様と合流できるかと」

「うむ」

信長は頷いた。

その時——

前方から、騎馬の一団が近づいてきた。

織田信忠の軍勢。

「父上!」

信忠が、馬を降りて駆け寄ってきた。

「信忠。ご苦労であった」

信長は、馬上から見下ろした。

「甲斐征伐、見事に成し遂げたと聞いておるぞ」

「ありがとうございます」

信忠は、深く頭を下げた。

「だが——」

信長の声が、冷たくなった。

「掃除しきれておらぬようだな」

「……!」

信忠の顔が、青ざめた。

「河尻が討たれたとの報を聞いた」

信長は、静かに言った。

「申し訳ございません……!」

信忠が、深く頭を下げた。

「よい」

信長は、手を振った。

「余が、自ら始末をつけよう」

信長は、馬を降りた。

そして、西の方角——甲斐の方を見た。

「死んだはずの男が、蘇ったと」

信長の瞳が、鋭く光った。

「面白い」

信長は、ニヤリと笑った。

「余の覇道、死人ごときに止められるか——試してみようぞ」

信長は、高笑いした。

「ははははは!!」

その笑い声が、木曽の山々に響き渡った。

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