第1話「冥府の覚醒」
天目山の峰に、冷たい雨が降り続いていた。
三月の雨は、まだ冬の名残を宿して肌を刺す。
転がる屍。折れた槍。泥に沈む旗指物。
かつて甲斐の虎と恐れられた武田の軍勢は、もうこの世にない。
「……殿」
震える声が、背後から聞こえた。
振り返ると、北条夫人・桂が濡れた着物を引きずりながら、私の隣に膝をついていた。
雪のように白い肌は青ざめ、黒髪は雨に濡れて頬に張り付いている。
それでもなお、彼女は凛とした美しさを保っていた。
「もう、よろしいのです」
桂は短刀を懐から取り出し、柄を握りしめた。
「武田の血筋は、ここで途絶えましょう。それが……天の定めならば」
私は何も答えられなかった。
答える資格などない。
私が愚かだったから。
私が弱かったから。
織田と徳川の大軍に押され、領地を失い、家臣に見限られ——
父・信玄が築き上げた栄光を、すべて灰にしてしまった。
「お前だけは、逃げてくれ」
私は搾り出すように言った。
「私と共に死ぬことはない。北条の実家に——」
「お断りいたします」
桂はきっぱりと首を横に振った。
「殿が逝かれる場所へ、私も参ります。それが妻の務め」
彼女の瞳には、迷いがなかった。
ああ、私は——
この女性にさえ、報いることができなかった。
「勝頼様ァァァッ!!」
突然、嘲笑混じりの怒声が雨音を切り裂いた。
振り向くと、見覚えのある男が馬上から私たちを見下ろしていた。
小山田信茂。
かつて忠誠を誓ったはずの重臣。
だが今、彼は織田の旗印を背負った兵を引き連れている。
「おうおう、まだ生きてやがったか! 助かったぜ!」
信茂は高笑いし、私たちを指さした。
「てめぇの首が欲しくてなァ! 織田様への手土産にちょうどいい!」
「……小山田」
私の声は震えていた。
怒りか。悲しみか。
それとも、絶望か。
「テメェみてぇな腰抜けが当主だったから、武田は滅んだんだよ!」
信茂は唾を吐き捨てた。
「信玄公が泣いてるぜ! いや、あの世で笑ってるか? 『愚かな息子のせいで家が潰れた』ってな!」
周囲の兵たちが、ゲラゲラと笑った。
「さっさと首を差し出せ。どうせ自害するつもりだったんだろ? なら俺に斬らせろや。その方が、少しは世の役に立つってもんだ!」
私は膝をついた。
もう、何もかもが終わりだ。
戦う力も、逃げる場所も、頼る者も——
「殿ッ!!」
桂が私の前に立ちはだかった。
「この方を愚弄するな! 武田勝頼様は、誰よりも誠実に、誰よりも懸命に戦われたお方だ!」
「黙れ女ァ!」
信茂が弓を構えた兵に合図した。
矢が、桂めがけて放たれる。
私は何も考えずに、彼女を突き飛ばした。
矢が——俺の胸を貫くはずだった。
だが。
【条件充足:死への渇望を確認せり】
突然、視界に青白い光の文字が浮かび上がった。
何だ、これは。
幻か。
それとも——
【絶望の深度:極点 / 怨念の濃度:臨界を超ゆ】
【業『冥府の王』を授かりし者と認めたり】
【権能『黄泉軍』解放】
矢が、止まった。
いや——掴まれた。
地面から突き出た、真っ黒な「手」が、矢を握りつぶしている。
「な……!?」
信茂の顔が、恐怖に歪んだ。
黒い手は、さらに増えていく。
地面から。屍から。空気そのものから。
影が、溢れ出してくる。
【死者の魂、抽出を開始す】
【影の武者:十二騎 召喚可能なり】
ああ、わかった。
これは——天が俺に与えた、最後の権能だ。
復讐の、力だ。
「起きろ」
俺の声は、もう震えていなかった。
低く、冷たく、そして絶対的な命令として響いた。
ズズズズズ……
屍が、動き出した。
転がっていた兵士たちが、黒い霧に包まれながら立ち上がる。
その姿はもはや人ではない。
漆黒の鎧を纏い、目と口から青紫の炎を噴き出す——「影の軍団」。
「ひっ……! バケモノ……!?」
小山田信茂が、馬から転げ落ちた。
俺は、ゆっくりと立ち上がる。
視界が、紫紺に染まっていくのがわかる。
体の奥底から、冷たい力が湧き上がってくる。
これが——冥府の王の力。
【冥府の王】
【生者を裁き、死者を従える者】
「小山田」
俺は彼を見下ろした。
「お前は言ったな。『武田は滅んだ』と」
影の兵士たちが、一斉に信茂を取り囲む。
骨を軋ませる音が、雨音に混じって響く。
「ひ……ひぃぃ……!!」
「だが——」
俺は手を掲げた。
影の軍団が、一斉に膝をつく。
「俺はまだ、生きている」
「た、頼む……! 命だけは……!」
信茂が地面に這いつくばり、哀願してくる。
だが、俺の心はもう揺るがなかった。
「そして——」
俺は告げた。
「死者たちも、俺に従う」
雨が上がり始めていた。
雲の切れ間から、月明かりが戦場を照らす。
その光の中で、俺は冷たく微笑んだ。
「生者は裏切る。だが死者は、決して裏切らない」
影の兵士たちが、じりじりと信茂へ詰め寄る。
青紫の炎が、彼の顔を照らし出す。
「……さあ、狩りの時間だ」
「ぎゃああああああああッ!!」
小山田信茂の悲鳴が、天目山の夜に響き渡った。
影の兵士たちが、彼に群がる。
そして——
【魂、捕縛完了】
【小山田信茂を影の檻に格納せり】
【次回召喚時、絶対服従の誓約が付与されん】
俺は、ゆっくりと桂の方を振り向いた。
彼女は俺を見上げ、怯えるでもなく、ただ静かに微笑んでいた。
「殿は……お変わりになられましたね」
「ああ」
俺は頷いた。
「もう、誰にも裏切らせない。誰にも、奪わせない」
桂は立ち上がり、俺の手を取った。
その手は冷たかったが、確かに温かかった。
「では、私も参りましょう。殿の征く道へ」
俺は彼女の手を握り返した。
そして、月明かりの下で誓った。
武田勝頼は、ここで死んだ。
だが——
冥府の王は、ここで生まれた。
織田も。徳川も。裏切った家臣も。
すべて、影の軍団に加えてやる。
「行くぞ、桂」
「はい、殿」
影の軍団を従えて、俺は歩き出した。
これは、復讐の物語。
そして——
天下を再び掴む、物語の始まりだ。




