エレナとヒコザブ
早朝、深い霧が立ち込める山の中を、何かが揺らしていた。
木々をなぎ倒し、岩壁を砕き、地中から現れたドラゴンを踏みつけて進むそれは、巨大な城だった。
水はけをよくするために栗石を混ぜた石垣は八本の足となり、天守を含めた三重の瓦屋根は、飛来する魔物を切り裂く刃と化していた。
鬼瓦のブーメランが、飛んで、切って、帰ってくるのを、天守閣にたたずむ少女が見つめていた。
「まさかよぉ」
と、少女が言った。
「なんですの?」
同じ口が、言う。
「漆喰やら石垣に、化け物の死骸を混ぜたら、動き出すとはなぁ」
「ご自分でやったことでしょ? どうして不満げなのか、さっぱりですわ」
彦三郎は苦笑した。
その顔に、わずかな照れがある。
「いや、不満ってわけじゃあねえよ。でもまあ、面白くはねぇな」
「どうして?」
「動かずに、どしんと構えるのが『城』だからさ」
「はぁ」
「それを、こんなにずがずがと歩かれちゃ、品ってもんがねえだろう」
「あれだけ暴れまわって、よく言えますわね」
エレナはあきれ返った。
彼らがノース城を打ち壊し、建て直し、人足の波に担がれながら国を飛び出してから、一月が経っている。そのわずかな間に、彦三郎は三つも城を建てた。そのうちの一つが、この稲出城である。
残りの二つは、農民にくれてやった。
聖女からの施しに、彼らは歓喜の涙を浮かべていた。
(だからまあ、仕方ありませんわね)
エレナはそう考えて、現状を受け入れた。この奇跡を――人足をうまく扱えるのは、自分ではなく彦三郎だからである。それでも、時折文句を言いたくなることはあったが、完成した城を見つめてぼろぼろと泣き出す彦三郎を前にすると、何も言えなくなるのだ。
祖母を亡くしてから孤独の底にいた彼女にとって、話し相手ができたことも、うれしいことではある。
「ねえ、ヒコザブ」
「なんだよ」
「そんなに、動かないお城が作りたいのでしたら――」
言って、山の向こうに目を向けた。
あの辺りに住む人々は、古くから魔物の脅威にさらされていると聞く。
「世界中の人々に、作って差し上げましょうよ」
(悪くねぇな)
と彦三郎は思った。
領主や殿様のためではなく、家なき人々のために城を築く。
住みよく、堅く、敗けない――
そんな城を世界中に築けたら、太平の世というものが、作れるのかもしれない。
(まあ、そう上手くいくとは思えねえけどよ)
天守からの景色を眺めつつ、彦三郎は微笑んだ。
「ちょ、ちょっと!」
不意に、エレナが叫んだ。
「なんでぇ、藪から棒に――」
「あそこ! あそこに止まってくださいまし!」
あすこ? と言って見つめると、エレナの指さす先に、青い花がぽつりぽつりと咲いている。
――あれが、どうした。
彦三郎がそう言おうとする前に、エレナが口を開いた。
「おばあさまの探し続けた、ザンザの花です! あれがあれば、痔の薬が完成しますわ!」
(俺が『城』の馬鹿なら、こいつは『薬』の馬鹿だな)
心中で躍り出す少女の魂を感じつつ、彦三郎は、カラカラと笑った。
その右手から、光の波が迸る。
「ニンソクさま! お願いしますわ!」
「「「「おぉおう!」」」」
城のいたるところに張り付いていた人足が、ぱっと飛び降りた。
山奥に隠れ咲く花畑に、白いふんどしと手拭いが、ふわりと舞った。