ソリッドフラッシュカッティングエッジ
おれが阿部千代だ。戸籍上の名前は阿部千代ではないが、だからどうした。おれが阿部千代だと言えば阿部千代なんだ。だからどうした。どうもしてねえよ。正直に言おう。おれが阿部千代だ、みたいな書き出しの文章をおれが書いているときは、惑うているときなのだ。立ちすくんでいるときなのだ。座り込んでしまいたいのを我慢しているときなのだ。抜けが悪く、吹けが悪く、通りが悪い。ねじが緩み、ナットが割れ、ワッシャーが歪んだ。製品として不合格。アウトレットにもわけありB品バザーにも出品することのできない人造人間が脱走した。往来でトラメガ持ってわめいている不審人物を想像してくれ。それがきっとおれだ。なめんなよ。舐めては欲しくないのです。
相反している。極端に相反している。おれがおれで本当によかった、心からそう思っているが、おれはおまえになりたい。いますぐアンビバレンツというバンドを組んで、サンハウスの風よ吹けをカバーしたい気分だ。
今日は風が強いな。風に乗って流れてくる、小学校の運動会のリハーサルの様子を夢うつつで聞くともなしに聞いていたら、午後になっていた。運動会のリハーサルはいつの間にか草刈り機の駆動音に変わっていた。だが時折、子どもたちの声がそこに交じる。
子どもたち。今を生きる子どもたち。この子らの心情を想像することなんてとてもできやしない。ここいらは教育熱心な人らが多いと聞く。経済的にも安定している家庭が多数派だと言う。ちょっとした高級住宅街もある。だがおれは知っているのだ。そんな中にも、ガールズバーで働くシングルマザーの子どもがいることを。ちょっと引いちゃうくらいの借金を抱えた両親の子どもがいることを。お菓子工場からの手取り16万円でやりくりする家庭の子どもがいることを。
子どもたちよ。この子らを虐めないでやってくれ。家庭環境は当人にはどうにもできない。相対的に見て恵まれているあなたたちが、相対的に見て恵まれていないこの子らの頼れる味方であってほしい。ほしいのだが……親の影響を子どもは受ける。そんなもの、避けようもない。家庭環境は当人にはどうにもできない。貧乏人を蔑視する家庭に生まれた子どもは。そういう子どもたちに囲まれた、貧困家庭に生まれた子どもは。
夕飯の買い物が子どもたちの下校時間にかちあうときがある。ドキッとする風景を見ることがある。虐めか? じゃれ合ってるだけか? その場限りの外部のおれには判断がつかない。仮に虐めだとして、おれが苦言を呈したとして、それが何になろう。その場限りのそれが一体何に。
貧困家庭が多数派の地域であるならば救いもあるだろう。子どもたちで力を合わせて生きてゆくことができるかもしれない。例えそれが反社会的な活動だとしてもだ。だが……。
以前どこかでこんな風景を見たことがある。いやもしかしたらそういう文章を読んだのかもしれない。だがおれの記憶には実際の風景として記憶されている。
ありきたりな話だ。裕福そうなご婦人がおそらく由緒正しい血統書つきであろうワンちゃんの散歩をしていた。ご婦人からの愛情を一身に受けたワンちゃんは可愛いおべべをお召しになって、尻尾をピコピコ振り回し、幸せの絶頂といった表情、歩き方だ。おそらくこのご婦人をそれなりの距離、自らの足で歩かせることができるのは、このワンちゃんしか存在しないのだろう。ワンちゃんのお散歩に運転手は不要だ。
浮浪者がいた。脂と垢とぼろを纏った浮浪者がたたずんでいた。表情はなく見るともなしにどこか一点を見つめていた。
ワンちゃんが浮浪者に興味を持った。近づいていった。ご婦人はリードをワンちゃんの進行方向とは逆に引っ張りこう言った。
「そっちダメだよ、ばっちいからね」
ありきたりな話だ。だがおれは強い衝撃を受けた。なにかがおれの中でかき混ぜられた、そんな気がした。浮浪者にだってその声は届いていたはずだ。おそらく。多分。自信はないが。浮浪者は表情ひとつ変えなかった。微動だにもしていなかった。だが心の中は。わからない。想像もできない。
いま思い出した。上記の話はやはり記憶の改ざんが為されていた。おれの精神が記憶を盛った。据わりのいいエピソードに変えていた。
まず裕福なご婦人などいなかった。色あせたポロシャツと短パンサンダルの初老の男だった。由緒正しい血統書つきのワンちゃんもいなかった。その辺によくいる普通の犬だった。犬種に詳しい人間の目からすれば、そうは見えないのかもしれないが、おれの目にはそう見えた。初老の男も犬も、活気はなかった。普通に日課の散歩をしているだけだったのだろう。
浮浪者はいた。確かにあそこにいた。存在していた。そしてあの言葉も。実際に男の口から発せられていた。その場に通りすがりのおれもいた。強い衝撃を受けたおれがいた。
どっちにしろありきたりな話だ。だが……。
おれの精神はなぜ記憶の改ざんを行ったのだろうか。そこには想像したくない、向き合いたくない理由がある気がする。確かにこの風景を思い出した時に違和感があったのだ。裕福そうなご婦人、ワンちゃんのディテールが陳腐に過ぎる気がした。下手くそなカリカチュアの匂いがした。テレビショウの再現VTRのように、作為的で劇的で過剰な感じがした。だからおれは、そういう文章を読んだのかも、と書いた。予防線を張ったのだった。
意識的であれ無意識的であれ、おれの精神はおれに嘘をついた。今回はその嘘が下手くそ過ぎたので、おれは嘘に気づくことができたが、おれの精神は日常的にこんなことを行っているのではないか? だとすれば、おれの記憶に信憑性などないこととなる。なにが本当でなにが嘘なのかわからない。確かめる術はない。なにしろ記憶は過去に起こったこと、とされている。過去はもうない。もう存在しない。少なくともこの次元においては。おれの記憶が信頼できないとなれば、おれはなにを信じて生きてゆけばいいのか。アイデンティティとはなにか。自我とは。自己とは。自分とは。自意識とは。無意識とは。おれがおれと信ずるものがおれではなかったとき、おれは一体どこにいるのか。おれとは。おまえとは。
そうだ。それでもおれはこう主張するしかないのだ。それしか方法を知らないのだ。おれが阿部千代だ。おれこそが阿部千代だ。おれだけが阿部千代だ。おれはおまえじゃない。バカヤロウ、なめんなよ、ヨロシク。