第九十九集「世界」
それからほどなく――瑛明の身は車中に在った。
璃宇が御者を務めてくれている箱型の馬車は、乗込口が後面、両の側面に据え付けられた板は、四人は座れる長さがあった。
西側に瑛明が座り、対面に瑛明と同じ衣裳の璃律が座っている。麻の短衣に褲子に脛巾、頭上で結いあげた髪を白布で包んだだけ――格好はいかにも庶民なのに、品の良さが滲み出ている。本人も着なれない衣裳に何度も目を落とし、どことなく居心地が悪そうだ。
肩越し振り返って連枝窓に掛けられた布を僅かに持ち上げると、冷えた気が流れ込んできて、ただただ暗い風景が見えた。
だが次第に目が慣れてきて、一面の薄闇に朧気ながら輪郭が見えてくる。それが中相邸であると気づくのに、さして時間はかからなかった。
門は固く閉じられている。薄闇と、巡らされた高い塀で中は見えない。だから、この家に滞在していた半年前と何も変わらないように思える。あと数刻もすれば日が上がり、城内に鐘声が響けば、他の家と同じように門が開き、変わらぬ日常が始まるように見えた。
火の手が上がったと言っていたけれど、騒ぎになっていないところをみるとすぐに消し止められたのだろう。だけど。
あの家にはもう、誰にもいないのだ。
家人も、主さえ――突き上げる感情を押さえ込むように瞑目する。数回見ただけの幼い顔を思い出しながら、せめて安らかな眠りをと祈った。
馬車はひたすらに南下している。
もうすぐ市の辺りだな――車外に目を投げながら瑛明は思う。
あの時は、凄く楽しかった。
だからこそ怖かった。
真実を知ったら、あなたは俺を憎むかもしれない。そうなったら、あの楽しい時をも悪夢だったと思われてしまうかもしれない。俺はただ不安で、ただただ怖かった。
あなたもそうなのかもしれない――そんなことに、少しも思い至ることさえなく。
俺は、ここで生きていくと決めた時から、どんな事態になったとしても、たとえあなたが俺を疎んじたとしても傍にいる、共に生きていく、そう心を決めていた。
決めていたはずなのに――変わらぬ明日があるかもしれないと――揺れてしまった。
あなたが居なければ、俺の迷いも覚悟も、何の意味もなかったのに。
『大丈夫です』
車に乗り込むとき、芳倫がそう声をかけてきた。
『王上がお戻りになるまでには、私が、瑛明さまの居所を整えておきます。ですから何も心配せず、きっとお戻りになって』
笑顔でそう言って――だけど語尾が僅かに震えていた。
そんな彼女にも、俺はまだ何も話していない。
車は進み続ける。
恐らく市は過ぎただろう。ここから先は、来た時に一度通っただけの道だ。
あの時は、実兄の逝去を知っていきなり倒れた母さんに驚いて、ここがどこなのかも、これからどうなるかも分からなくて、まだ日の高いうちだったのに、外をちらりと見ることさえなく、乗せられた馬車の中で、ただ母さんばかりを見ていた。ただただ不安だった。
そして今、やはり不安を抱えながらこの道を走っている。だけど。
「間もなく城外です」
壁一枚隔てた向こうにいる璃宇が、そう声をかけてきた。
「璃宇さま、こんな早くにどうされたのです?」
車外から、そんな声が聞こえる。そういえば、岩戸前の南門には配下の者を置いていると璃宇は言っていた――そんなことを思いながら瑛明は、身動ぎもせずにいた。
「ちょっと見回りに。それより、今日はおまえの当番ではないだろう? 勤務交代があったとは、聞いていない」
「あーすみません、出勤直前に急遽交代したもんで」
「あいつはどうした、まさか急病か?」
「いや違うんです。あいつのカミさんが急に産気づいて、あいつの家、隣でしょう? うちのカカアがてめえが替わりに行けって言うもんだから」
「だらしねえなあ」、「でもいいことしたじゃねえか」他の門番たちのものか、笑い声がいくつも聞こえてきた。
思わず口元が綻んだ。板一枚隔てているだけなのに、まるで別の世界のようだ。
市を散策した時、あなたは、ご自身のことを「城内の発展ぶりと皆の楽し気な様子を体感しては、宗廟と社稷に感謝と永続の祈りを捧げるだけの身」だと、おっしゃっていましたよね。
あなたの祈りが、この世界を護っているんですよ。
「じゃあ、産まれた子を見に行かないと」
ふと呟いたら、対面の璃律が僅かに目を見開いたのが見えた。
彼は珍しく少しだけ笑い、「そうですね」
「岩戸まで行かれるのですか? なら我々もお供します」
「いや、妹と弟がいる」
ああ、それで……みなが口々にという声が聞こえる。
妹様がいらっしゃるから馬車なのか、あのお二人が一緒であれば……、門番たちが幾分声を潜めて言葉を交わしている。
「我々だけで大丈夫だ。何かあれば、合図を送る。それまでは持ち場で待機していてくれ」
「分かりました」
再び馬車は動き出した。
進んでいくうち、車内の香りが変じていることに気づく。甘い香り――これは、桃だ。
次第に車が減速し、やがて止まる。
御者席から璃宇が下りたのが分かった。足音が後ろへと回り、ほどなく、乗入口の扉が開いた。「どうぞ」璃宇はまっすぐこちらに目を向けている。瑛明は一つ頷いて立ち上がった。
璃宇が足元に置いた階段を伝い、瑛明は地面に降り立つ。
身体に流れ込む気は少し冷たく、甘い。
乗り込んだときは、燈籠が灯る車内の方が明るかったのに、今は外の方が明るい。
朝靄は、ほのかな桃色をしていた。咲き乱れる桃花の林、遥か向こうに、切り立った岩かと思う、南門が見えた。
一年前、ここにたどり着いたとき以来の風景だった。
天を仰ぐと、空は周囲よりずっと明るかった。この空の色だけは変わらない。どの場所で見上げても。
俺は、自分を異人だと思うことで――俺はあくまでも旅人で、客人で、生きるべき場所はここではないのだと――自分の境遇を嘆き続けることで、ただ流され、覚悟を持たないで生きてきた。ずっと。
「騒がしくて申し訳ございません」声に振り返れば、いつしか傍らに璃宇が立っていた。
「そんなことないよ」
瑛明はそう言って、薄紅に霞む道の先を見た。
「帰ってきたら、お祝いを渡さないとな」
肩越し振り返る。そこには璃律が立っていた。「何にするか、考えておいて」
無表情に頷く彼はいつも通りで、思わず笑ってしまった。
そうしてゆっくりと息を吐きながら、瑛明は周囲にぐるりと目を巡らせる。
盛りの桃が周囲を薄紅に霞ませる中、足元からまっすぐに伸びる道は、遥か向こうの南門に繋がる。その向こうには、たくさんの人々が暮らしている。そしてそのさらに奥には――知らず口元が綻んだ。
――この全てが、俺の世界だ。
瑛明は璃律に目を向け、言った。「行こう」




