第九十六集「不去」
「起きてください」
揺さぶられて、はっとする。顔を上げると、璃律が湯船の傍らで膝をついていた。
「そのままではのぼせあがるか、溺れます。こちらへ」
璃律に促され、瑛明は湯船から出た。渡された布巾で全身を拭くと、璃律がそれを受け取り、替わりに着替えを渡してきた。
帯を締めたところで、じっとそこに立っていた璃律が口を開く。「大丈夫ですか?」
「もちろん」瑛明は彼に向き直って、緩やかに笑う。「この状況で居眠りできるくらいにはね」
「それくらい図太くいていただかないと、困ります」
表情を動かすことなく応じた璃律だったが、瑛明の姿をしばし眺めたのち、眉をひそめ、
「そんな着付けで人前に立たれるおつもりですか? さきほどは緊急時だと目を瞑りましたが、私が用意した衣裳を、だらしなく着こなされるのは、到底見過ごせません」
そう言うと、おもむろに瑛明の傍に寄り、今結んだばかりの帯をいきなり解いた。
驚きのあまり声も出せずに硬直する瑛明に構うことなく、下に着る単衣にまで手を入れ、「手を上げて」、「腕を伸ばして」、「胸を張って」と言いながら衣を引っ張り、帯を締めあげた。
片隅の椅子に座るよう促され、それに従うと、濡れた髪をいささか荒っぽく拭かれ、手早く結われる。立ち上がった瑛明の姿をまじまじと見て、璃律は言った。
「大分ましになりました」
随分な発言に、思わず笑みがこぼれてしまい――その流れで、さらっと訊いた。
「こんなふうに、着替えを手伝っていた?」
璃律から、にわかに表情が消えた。
「それは太史の職務ではない。着替えは侍女である姉の役目です」
向けられたのは、かつてひたすら向けられ続けた眼光を彷彿とさせる、尖った声だった。
以前と違うのは、その心情が理解できるということ。
「ごめん、無神経なことを言った」
「いえ。そんなことより、これを」
璃律が差し出してきたのは、大ぶりの杯子だった。口にすると、柑橘系の爽やかな酸味が口に広がり、次いでしっかりとした甘みが後を追ってきた。いつもなら「甘すぎる」と悲鳴を上げたくなるはずなのに、それがなぜか、体に染みわたっていく。「美味しい」思わず声が出た。
「ならば結構です。では行きましょう、もう父と兄も参る頃です」
瑛明は素直に頷いて、先に立つ璃律に従った。
あんなに重かった体が驚くほど軽い。すべては前を行く璃律の配慮によるものだと思い知って、まっすぐ伸びる背を追いながら瑛明は、自分の軽挙を恥じずにはいられなかった。
湯殿を出て、院子を突っ切って部屋へと向かう。
あちこちに色とりどりの花が咲き始めた、春めいた院子――目に映る風景は同じなはずなのに、心躍る、美しい景色のはずなのに、今はもう、違うものになってしまった。多分、あのときから。
あの――身体に容易く、すっと刃が刺しこまれた感触、噴き出した血の熱さ、そして温もりが消えて硬直した手――あれは、一生背負っていくものだ。
なかったことにはできない、この、どうしようもない重苦しさ。
あなたは、こんなとんでもないものを一人で抱えていたのか。俺のために。
『私たちは、この世でただ二人、同じ気持ちを持って生きているんだと――』
その通りだよ。だから。
――行かないで。
自室が見えたところで、瑛明は璃律を追い抜いて、足早に渡廊への階段を上がった。
そうして両手で、自室の扉を開け放つ。
前室で座り込んでいた女官たちが虚ろな目を上げ、慌てて立ち上がる。瑛明はそれには目もくれず、居室の扉に手をかけた。
扉は中から開いた。芳倫だった。
「様子は?」
「お変わりありません」
容体が急変はしていないが、目を覚ましてもいない――つまり、先行きがいまだに不透明だということだ。
「分かった」
芳倫にそう頷いてから、瑛明は居室に入る。
そこには、すでに国師と璃宇も居た。
控える女官たちには、少し休むようにと前室に下がらせた。芳倫にもそうするように言ったものの、「私はここに居ます」と頑として譲らない。だから瑛明が折れた、いつものように。
瑛明、王師、国師、芳倫で居室の中央にある卓子を囲む。その背後に、璃宇と璃律兄弟が立った。
瑛明は改めて、中相邸から見つかった信を卓上に広げる。それから『桃花源記』の物語と、外界の世界について話し始める。一同は真剣に聞き入っていたが、瑛明の話が終わると、みなが揃って嘆息した。
「なるほど。外界では桃花源は、『理想郷』として語り継がれているわけですな」
「三百年以上も昔の物語なのに、いまだにこの地を探す者がいると……」
「それを見つけ出しただけでなく、手中に収めることができれば、確かに大変な名誉となりますね」
年長者たちが口々に言うのに、「ですが」と声を上げたのは璃律である。
「外界からここに来るには、細い洞道を通ってくるしかない。岩戸の前でそれを囲み、潰していけばいいのでは?」
至極もっともなその意見には、瑛明が首を振った。
「それだって、途切れることなく押し寄せてくれば、やがてみなが疲弊してしまう。武陵県だけでも相当な人数が暮らしている。そこで足りなければ、上の州、場合によっては長安からも人を調達するかもしれない。長安には、百万という人が住んでるんだ」
「百万!?」
この地には存在しないだろう果てしない数字に、みなが絶句する。
「そんなに人がいるなら」芳倫だった。
「狭い洞道を来るんじゃなくて、山を崩したりできるかも……」
それを一笑に付す者は、誰もいなかった。
「とりあえず、岩戸の前にある南門には私の手の者を配置しています。変異があればすぐに報せがくるようになっています」
璃宇が言うと、国師が続けて、
「昨年のちょうど今頃、お二人が突如見えられたということもあって――今は通常より多くの兵が門前に詰めています」
親子の言葉に、みながみな、平和な日常に漬かり切っているわけじゃないんだと知り、瑛明は少し安心して一同を見渡すと、
「これから夜になります。見知らぬ土地の、しかも野獣も出歩くこんな山間部に、夜襲をかけてくるようなことはないでしょうから、少なくとも今夜は安全ということでしょう」
「明朝攻め入るために、外界の洞道の前に、兵が夜営をしているかもしれませんが」
自らの発言を璃律に冷静に返され、苦笑するしかない。
瑛明は背後に立つ璃律を振り返ると、
「どのみちもう夜だから動けない。明朝に俺が行く。行って、目印を変えてくる」
「いけません」背後からの声は、王師のものだった。
「外界の兵が待ち構えているかもしれない中、そんなことは、王上にはさせられません」




