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きみは最果ての光  作者: 天水しあ
第十一章『所依』
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第九十六集「不去」

「起きてください」


 揺さぶられて、はっとする。顔を上げると、璃律が湯船の傍らで膝をついていた。


「そのままではのぼせあがるか、溺れます。こちらへ」

 璃律に促され、瑛明は湯船から出た。渡された布巾で全身を拭くと、璃律がそれを受け取り、替わりに着替えを渡してきた。


 帯を締めたところで、じっとそこに立っていた璃律が口を開く。「大丈夫ですか?」


 「もちろん」瑛明は彼に向き直って、緩やかに笑う。「この状況で居眠りできるくらいにはね」


「それくらい図太くいていただかないと、困ります」

 表情を動かすことなく応じた璃律だったが、瑛明の姿をしばし眺めたのち、眉をひそめ、 

「そんな着付けで人前に立たれるおつもりですか? さきほどは緊急時だと目を瞑りましたが、私が用意した衣裳を、だらしなく着こなされるのは、到底見過ごせません」

 そう言うと、おもむろに瑛明の傍に寄り、今結んだばかりの帯をいきなり解いた。


 驚きのあまり声も出せずに硬直する瑛明に構うことなく、下に着る単衣にまで手を入れ、「手を上げて」、「腕を伸ばして」、「胸を張って」と言いながら衣を引っ張り、帯を締めあげた。

 片隅の椅子に座るよう促され、それに従うと、濡れた髪をいささか荒っぽく拭かれ、手早く結われる。立ち上がった瑛明の姿をまじまじと見て、璃律は言った。


「大分ましになりました」


 随分な発言に、思わず笑みがこぼれてしまい――その流れで、さらっと訊いた。

「こんなふうに、着替えを手伝っていた?」


 璃律から、にわかに表情が消えた。


「それは太史の職務ではない。着替えは侍女である姉の役目です」

 向けられたのは、かつてひたすら向けられ続けた眼光を彷彿とさせる、尖った声だった。

 以前と違うのは、その心情が理解できるということ。


「ごめん、無神経なことを言った」

「いえ。そんなことより、これを」

 璃律が差し出してきたのは、大ぶりの杯子コップだった。口にすると、柑橘系の爽やかな酸味が口に広がり、次いでしっかりとした甘みが後を追ってきた。いつもなら「甘すぎる」と悲鳴を上げたくなるはずなのに、それがなぜか、体に染みわたっていく。「美味しい」思わず声が出た。


「ならば結構です。では行きましょう、もう父と兄も参る頃です」

 瑛明は素直に頷いて、先に立つ璃律に従った。

 あんなに重かった体が驚くほど軽い。すべては前を行く璃律かれの配慮によるものだと思い知って、まっすぐ伸びる背を追いながら瑛明は、自分の軽挙を恥じずにはいられなかった。

 

 湯殿を出て、院子を突っ切って部屋へと向かう。


 あちこちに色とりどりの花が咲き始めた、春めいた院子――目に映る風景は同じなはずなのに、心躍る、美しい景色のはずなのに、今はもう、違うものになってしまった。多分、あのときから。


 あの――身体に容易く、すっと刃が刺しこまれた感触、噴き出した血の熱さ、そして温もりが消えて硬直した手――あれは、一生背負っていくものだ。

 なかったことにはできない、この、どうしようもない重苦しさ。


 あなたは、こんなとんでもないものを一人で抱えていたのか。俺のために。


『私たちは、この世でただ二人、同じ気持ちを持って生きているんだと――』


 その通りだよ。だから。


 ――行かないで。



 自室が見えたところで、瑛明は璃律を追い抜いて、足早に渡廊への階段を上がった。

 そうして両手で、自室の扉を開け放つ。

 前室で座り込んでいた女官たちが虚ろな目を上げ、慌てて立ち上がる。瑛明はそれには目もくれず、居室の扉に手をかけた。


 扉は中から開いた。芳倫だった。

「様子は?」

「お変わりありません」

 容体が急変はしていないが、目を覚ましてもいない――つまり、先行きがいまだに不透明だということだ。

「分かった」

 芳倫にそう頷いてから、瑛明は居室に入る。


 そこには、すでに国師と璃宇も居た。

 控える女官たちには、少し休むようにと前室に下がらせた。芳倫にもそうするように言ったものの、「私はここに居ます」と頑として譲らない。だから瑛明が折れた、いつものように。


 瑛明、王師、国師、芳倫で居室の中央にある卓子を囲む。その背後に、璃宇と璃律兄弟が立った。

 瑛明は改めて、中相邸から見つかった信を卓上に広げる。それから『桃花源記』の物語と、外界の世界について話し始める。一同は真剣に聞き入っていたが、瑛明の話が終わると、みなが揃って嘆息した。


「なるほど。外界では桃花源ここは、『理想郷』として語り継がれているわけですな」

「三百年以上も昔の物語なのに、いまだにこの地を探す者がいると……」

「それを見つけ出しただけでなく、手中に収めることができれば、確かに大変な名誉となりますね」

 

 年長者たちが口々に言うのに、「ですが」と声を上げたのは璃律である。


「外界からここに来るには、細い洞道を通ってくるしかない。岩戸の前でそれを囲み、潰していけばいいのでは?」

 至極もっともなその意見には、瑛明が首を振った。

「それだって、途切れることなく押し寄せてくれば、やがてみなが疲弊してしまう。武陵県だけでも相当な人数が暮らしている。そこで足りなければ、上の州、場合によっては長安からも人を調達するかもしれない。長安には、百万という人が住んでるんだ」


「百万!?」

 この地には存在しないだろう果てしない数字に、みなが絶句する。


 「そんなに人がいるなら」芳倫だった。

「狭い洞道を来るんじゃなくて、山を崩したりできるかも……」

 それを一笑に付す者は、誰もいなかった。


「とりあえず、岩戸の前にある南門には私の手の者を配置しています。変異があればすぐに報せがくるようになっています」

 璃宇が言うと、国師が続けて、

「昨年のちょうど今頃、お二人が突如見えられたということもあって――今は通常より多くの兵が門前に詰めています」


 親子の言葉に、みながみな、平和な日常に漬かり切っているわけじゃないんだと知り、瑛明は少し安心して一同を見渡すと、

「これから夜になります。見知らぬ土地の、しかも野獣も出歩くこんな山間部に、夜襲をかけてくるようなことはないでしょうから、少なくとも今夜は安全ということでしょう」 


「明朝攻め入るために、外界の洞道の前に、兵が夜営をしているかもしれませんが」

 自らの発言を璃律に冷静に返され、苦笑するしかない。


 瑛明は背後に立つ璃律を振り返ると、

「どのみちもう夜だから動けない。明朝に俺が行く。行って、目印を変えてくる」

 「いけません」背後からの声は、王師のものだった。


「外界の兵が待ち構えているかもしれない中、そんなことは、王上にはさせられません」


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