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きみは最果ての光  作者: 天水しあ
第十一章『所依』
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第九十五集「明日」

「吐いてください、構いませんから」

 声に目を向けると、いつしか璃律が隣にいた。だけでなく、背中に手を回してゆっくりとさすってくる。


 「汚れる――」咄嗟に出た言葉に、璃律は「だから、構わないと言っているでしょう」と、僅かに苛立った声を上げると、瑛明の空いた右手を手に取って、自分の肩に回した。


 じんわりと伝わってきた熱に、強張っていた身体が、僅かに解けた。左手を下ろし、口から薄く入れた空気が、身奥に染みていく。

 「背負った方がいいですか?」少し心配げに目を流してきた璃律に、瑛明はしっかりと首を振り、「大丈夫、ありがとう」


 ――まだ駄目だ。まだ、終わってない。



                    ◆


「外に札を下げましたから、誰も来ません。まあ、こんな時に誰も来ないでしょうが」

 璃律に連れてこられたのは、桃花宮の大きな湯殿だった。


 桃華宮には大きな湯殿があることは聞いていた。

 蓮をあしらった湯船は、宮中の女官全員が入ってもなお余る広大さで、温泉が常に滾々と湧いている。簾を上げると、昼は季節ごとに色を変える院子の明媚を、夜は怜悧な月や満天の星空を眺められるのだとも。


 美しい風景を愛でたいとも思ったし、広い湯船を泳ぎたいとも思った。芳倫にも誘われた。


 だが一度も、瑛明はその湯殿に行ったことはない。否、行けるわけがなかった。


 まさかこんな形で来ることになるとは――。


 「着替えを用意してきます」そう言って璃律は去った。


 殿内は、外の寒さを裏付けるように濛々と湯気が立っていた。湯船はいくつかあると聞いていたが、璃律は入口に一番近い、こじんまりとした石の湯船の周りにだけ蝋燭の灯を入れて去った。

 だから殿内の全体像は勿論、一番大きいとされる蓮をあしらった湯船の様子をうかがい知ることはできなかった。美しい夕暮れや星空を眺められるという大きな窓には、簾がかかっている。


 それでも温かい湯気に満ち満ちたこの空間は、瑛明の気を確実に緩めてくれた。


 湯船の傍らには、小さな木の椅子と、湯の張られた桶が置かれている。中に沈められた布でとりあえず右腕の血を洗い流してから、湯船から何度も湯を汲み、何度も体に流した。そのたび足音に蟠る水が、敷かれた濃灰の石畳を黒ずませる。ひたすら湯を汲み、頭上から流す。次第に冷えていた全身に熱さを感じるようになったときには、身体から滴る水から色が抜けていた。


 それを見計らい、瑛明は汲みあげた桶に直接口をつける。

 こうやって母さんに怒られたな、品がないと――そんなことをふと思い出しながら、何度か口を漱いで、残りは飲み干した。身体の奥まで温かくなった。


 ゆっくりと湯船に足を入れる。足を伸ばせば肩までつかれるくらいの、浅めの湯船だった。瑛明は湯船の縁に頭を預けて、ほうっと長い息を吐いた。高い天井にまで満ちている湯気が、蝋燭の灯で明滅している。蝋燭の灯を映した湯面は、煌めいていた。


 眩しさが目に痛い。


 瑛明は両手で顔を覆った。

 手の下で固く目を瞑って、深い呼吸を繰り返した。


 自分の息遣いと、どこかで湯殿に満ちる湯の流れ落ちる音だけを、ただ聞いた。


 ――あの方はずっと、自らを『置き物』と称し、身を律してきた。重大な秘密を抱えながら。産まれてから、ずっとだ。


 なのに、ただ一日のことで、弱音を吐いてどうする。


 敬愛する――そう言っていた。その言動からも、それは確かに伺えた。

 中相を捕らえさせたとき、一体どんな思いだったのか――想像するだけで、胸が痛い。


 だけど、でも、それでもあんな――。


 瑛明は首を振った。荒い水音が周囲に響き渡った。

 今は駄目だ。否が応でも全てが終わってしまうかもしれない今、考えることじゃない。今はとにかく、落ち着いて、考えなければ。 


 何故ではなく、どうするかを。


 あのてがみは一年前のもの。

 俺はもう、桃花源に一年いるのだ。あの県令は来たばかりだと思っていたけれど、二年くらい前には居た気がする。


 その前の県令は赴任期間が長く、よく城市にも出ていたから何度か見たことがある。乗っている馬が心配になるほど体格が良く、無造作に髭を生やし、頭より体を使う方が得意そうな印象だったが、袖の下を許さない清廉潔白な人物だと評判だった。


 となると中相が接触できたのは今の県令になってからだろう。恐らくはあの信の頃――だから、あの岩戸は、僅かにだけど開いていたんだ。


 あのとき、舟は勝手に上流に進んだ。まるで導かれるみたいに。

 それまでにも何度か舟を出したことはあったけれど、そんなことは一度もなかった。

 桃は仙木だと言われている。あの隙間から、桃花源と外界の満開の花が引き合って、俺たちは導かれたんだとしか――。


『今となっては、何がしたかったのか良く分からないな……』

 その声は、悔いているように感じた。


 全て滅べばいいと思ったのかもしれない。

 だけど何とか生きているうちに、少しずつ世界に愛着が出てきて、それを思い止まろうとしたときには、もう戻れないところまで来てしまっていたのだと――そう思いたい。


『おまえはもっと、好きにしていい』

 あれは、俺に明日みらいがあると、信じているから――。

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