第九十三集「守護」
牢を出ると、随分と日は傾いていたけれど、空はなお明るかった。
日が長くなった、もう春なのか……そう思って息を吸い込んだら、血の香りがした。
「殺す者は殺される――だったっけ」
瑛明は、牢から出てきた王師と璃律を振り返って、そう訊いた。
璃律は露骨に眉を吊り上げ、
「それは通常の場合です。謀反人相手には、その限りではない」
怒った口調で、そう言い捨てた。瑛明は目を伏せて、苦笑するしかない。
「とにかく」璃律がにわかに顔を上げ、声を張り上げた。
祖父がいるからなのか、いるにもかかわらず、なのか、彼の言動が、やけに幼い。
そういや、同い年だと思っていたけれど、俺の方が年上――っていうことに、なるのか。
いつも敵意剥き出しの目を向けられていたけれど、まともに話すのは今日が初めてだったからな――王の側近としてこんなに感情露わでいいのかと思わなくもないが、あえて暗くなりがちな気を払うための、振る舞いなのかもしれない。むしろその方が、合点がいく。
そうであるなら――実は思ったよりも、悪くないヤツなのかもしれない。
少なくとも今は、俺を護ろうとしてくれているように思える。
『あれは私を心配するあまり、行き過ぎるときが往々にしてある。若さゆえだ、大目に見てやってくれ』そんなことを言っていたな。
今となっては、あの言葉、分かる気がする――複雑ではあるけれど。
「急ぎ戻りましょう。ですがその前に、顔を洗ってください。それからお召し替えを。その姿で戻っては、ご婦人方が卒倒します」
そう言われて、瑛明は自らの両手を見た。
爪と指が赤黒く染まり、一体化している。
袖口は、そういう模様なのかと見紛うような、濃淡ある赤色が飛び散っている。
顔を撫でると、ざらついた感触があり、はらはらと赤い破片が足元に散った。
「ひどいな……」知らず声が出てしまい、思わず緩んだ口元が、軋む。
「ええ、ひどいです。とりあえず、これで顔を拭いてください」
どこかで濡らしてきたのか、もともと持っていたのか、璃律はそう言いながら布巾を突き出してきた。とても拭い切れるものではないと思ったけれど、瑛明はそれをありがたく受け取って、顔を拭う。
その傍らで璃律が牢の扉を閉め、鍵をかけた。瑛明は顔を拭く態で、そっと牢の右端に目を投げる。開いた窓の向こうに――中相は居る。
ずっと抱きしめていた。
けれど、王師に諭され、瑛明はやっと、その手を解いた。鉄格子を開け、崩れ落ちたその身を抱えて、榻に横たえてきた。
背後から璃律が掲げた燈籠の光が差し込んできて、横たわる中相の姿を照らし出した。きっと苦しんだはずなのに、何故か穏やかな顔をしていて、眠っているのかもしれないと錯覚するほどだった。
止めたはずの涙がまた湧いてきて、必死に唇を噛み締めた。
匕首が立ったままの胸元にその両手を重ね――固くなりつつある冷えた指をぎゅっと握ってから、瑛明は立ち上がった。
そうして鉄格子を抜けて、入口で見守っていた二人に目も向けず、足早に牢を出たのだった。
三人は揃って、牢が収められた平屋の建物を出た。
ここにも璃律が鍵をかける。そこで彼は、瑛明と王師に向き直り、
「では私は先に行って、着替えと、湯を用意しておきます。それから部屋に戻って、今後のことを皆で相談しましょう」
「うん」そう、瑛明が頷いたときだった。
「父上!」
大きな声が、傍らから投げつけられた。
三人が揃って目を向けると、右手、南にある大きな門から二人の男が駆けてくるところだった。初老の男性、そのあとに従っているのは、璃宇のようだった。
「あれは私の息子です。中相邸に行かせておりました」
王師の言葉に、瑛明は改めて、駆けてくる二人をじっと見つめた。あれが璃律と璃音の父でもある、現国師ということか。
「これは――」
駆け寄ってきた二人は、瑛明の姿に揃って瞠目し、言葉を失ったかのようにその場に立ち尽くす。この血塗れの姿を見てのことなのか、それとも――。
「中相邸はどうであった」
王師が声をかける。そこで二人は揃って役割を思い出したかのように、胸前で両手を束ねて一礼し、「大変失礼いたしました。ご報告申し上げます」そう声を上げたのは、国師だ。
背後に控える璃宇よりは一回り細身ながらも、背は同じくらいに高く、武人と言っても遜色ないほど、鍛えられた身であることは分かった。文武両道の人なのかもしれない。
璃音や璃律もそうだし、次期国師たる璃宇に至っては、むしろ武人かと思うくらいだけれど。
「朝議の始まる頃合いを見て踏み込みましたが、邸内のあちこちから火が上がっており、消し止めたものの、中ではご家族のみならず家人も、残らず絶命しておりまして……」
「中相の子も?」思わず声を上げた瑛明に、国師は僅かに目を伏せ、「はい、ご夫人とともに」
「痛ましいことだ……」そう言って、傍らの王師が首を振る。
とはいえ、生きていれば公開処刑が待っている。選択の余地などなかったのだろう。
いや――もしかしたら、自決したのではなく、自分たちも何が起こったのか良く分からないまま――思い至り、知らず眉が寄った。有り得ることだ。いや、むしろ――。
瑛明は激しく首を振った。とりあえず今は、そんなことを考えている場合じゃない。
眼前の親子を、改めて見た。
二人とも、衣の下に甲冑を付けている。竹製か?
早朝、かつ朝議開始前後であれば参内する者もおらず、市の開場前でもあったから、人通りは少なかっただろう。それでも騒ぎにならないよう密かに防具を付けて中相邸に入ったのだろうが、火まで上がっていたのなら、隠し立てはできなかったはず。
今頃、市中はどんな騒ぎになっているのか。左相や右相はどう出るか?
いやもしかして――彼らもこの状況を、察しているのか。
「それより」
言いながら璃宇が、懐から一通の書状を取り出した。「竹庵に、こんな書状が」
その声は切迫しており、年長者同士の会話に割って入る無礼さを咎める隙もなかった。にわかに胸騒ぎがして、瑛明はひったくるようにしてその書を手に取る。
粘ついた手で、もどかしくそれを開いた。
目を数度上下させた後、瑛明は、息を呑んだ。




