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きみは最果ての光  作者: 天水しあ
第二章『内界』
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第九集「少女」

「ところで、おまえは何故この地から外界へ行ってしまったのか。何か聞いているか?」

「……いえ。母は昔のことは何も教えてくれませんでした。ただ父はとても高貴な方だから、血に恥じぬ生き方をせよとは」

「あちらではどういう生活を?」

「あちこちを転々として、最後は母子でひっそりと山奥で暮らしていました。母は、どうしてなのかあの通り姿が変わらないものですから、人里に留まることができなくて」


「なるほど……」

 中相はそう頷いて、思案顔で腕を組む。


「確かに。驚いたことに、玲華は多少やつれはしているが、まるで変わりがない。あれでは難儀だっただろう。どうやって生計を?」

「住んでいたのがとても豊かな地でしたから。親切な方が住まいを貸して下さいました。母の刺繍はとても洗練されたものでしたから珍重されて、母子二人、どうにか糊口を凌ぐことができました。あとは小さな田畑を作ったり、ちょっとした小物を作ったり」


 まっすぐ下りてくる視線に、自然と顔がうつむく。中相の方が背が高いんだから、見下ろされる形になるのは当然だ。だのになんだろう、この、何もかもを見通してるかのように、俺を突き刺してくるこの視線は。


 これ以上訊かれたら、知られたくないことまで見透かされそうだ。


 『あなたは王家の血筋なのです』


 ヨタ話だと思っているはずのに、どこかで信じてしまっている自分も、またいた。それというのも母さんの存在のせいだ。

 立ち振る舞いは優雅で、言葉遣いには気品さえある。いや高慢と言ったほうがいいか? 読み書きもできて刺繍の腕は確かで神業にしかみえない。それを喜ぶ有金の奥さんがいたから、今までなんとかやってこれた。


 だけど生活必需品ではない刺繍は、いつだって売れるわけじゃない。

 そうすると母さんはふらりと家を出て行く。しばらくして煙草とか酒とか、吐き気がする男の臭いをつけて帰ってくる。そうして溜めた金で、俺に学問や武芸を習わせた。


『戸籍がないから科挙も受けられないのに、どうして母さんがそこまでするんだよ! 塾なんか行かないで、俺が働くから……』

『いけません。おまえをきちんと育てなければ、おまえのお父上に合わせる顔がない』

『何だよ父上って。どんなに偉くたって、結局俺たちに何もしてくれないじゃないか! どうせ今頃、新しい家族と――』


 ピシャリ。


 俺の頬を張った母上の手と唇が、わなわなと震えていた。一瞬、何が起こったのか分からなくて、だけどたちまち頭に血が上ったとき、不穏な音が聞こえてきた。

 見れば真っ青な顔をした母さんが、聞いたこともないような呼吸音を発していて、声をかけようとしたら、いきなり倒れた。

 ピクリともしない母さんが死んでしまったと思った俺は、思いっきり取り乱した。文字通り泣き叫んだ。俺の狂騒を聞きつけた普段は目も合わせない近所の婆さんが、見かねて母上を介抱してくれたようだが、そこのところは全然覚えていない。


 もう何年も前のことなのに、思い出すたびにあの、胸を引きちぎられるような苦しみが体を突き上げてくる。今みたいに。


 話題を変えなければ――。


「ところで話は変わるが、あちらと比べて、この地はどうだ?」

 またしても心を読まれたかのように、突然話が変わり、瑛明は驚きつつもほっとした。

「あちらでは、こちらの世界のことが物語になっていて――その物語では、この地は穏やかな農村だと書かれていたので、城壁を見た時には本当に驚きました」

 門兵が怠慢にも酒を飲みつつ碁を打っていたことは黙っておいてやった。


「確かに、農村だと思っていたなら驚くのも無理はない。だが防御を固め、身分の別ができたからといって、昔の暢気さは変わることがない。外からの脅威も『あれ』以来、一度もないしな。昔と変わらず楽しく平穏な生活を送っている。――だから何ら変遷せず、向上もする必要もないということだ」

「平和の証であるかと思います」

「そういうことだな」


 にわかに落ちた沈黙は、何故か瑛明を息苦しくした。

 この人、笑うと子供みたいな無邪気さがある。目尻の皺を見るに、きっとよく笑っているんだろう。だけど、ふとした瞬間、眼光が鋭くなることがある。


 例えば今。


 初めて会う父という存在に、こみ上げるのは、慕わしさよりは戸惑いだった。

 これが十六年という時なのかもしれない――瑛明がひそかに思ったその時、「大爺だんなさまっ!」突如、悲鳴じみた叫びが届く。

 父子は一瞬顔を見合わせ、同時に立ち上がった。揃って隣室に駆け込むと、依軒という侍女が、牀台の傍らで涙にくれていた。

 彼女の厚みある体の向こうに、上体を起こした母の姿が見えた。


志按しあんさま……」


 そこには、頬を紅に染め、潤んだ目でただ恋しい男を見つめる少女が居た。


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