第八十七集「形見」
突然、後ろから両肩を引き上げられた。
振り返ったら、そこに芳倫が立っている。
――と思ったら、いきなり頬をぶたれた。突然のことでまともに食らってしまい、横に倒れかけた。
「まだダメじゃない! 脈だってあるし、呼吸だって――」
頭がくらくらする。状況が呑み込めず、ただぼんやり芳倫を見上げていると、
「あなただけです、諦めているのは! ただ泣くだけなら邪魔です、出て行って!!」
勢いよく指された指先を追って戸口を見て、再び目線を戻したとき、芳倫は見たこともない怖い顔で自分を睨みつけていて――、ぽろりと涙をこぼした。
「芳倫さま」璃律が駆け寄るのと、芳倫がよろめくのは同時だった。
「私は大丈夫」そう言うが、芳倫は粗い息をして、顔面は蒼白だった。
その場に芳倫をしゃがませると、璃律が瑛明ににじり寄り、「あれは、一体、何なんですか」
瑛明は袖口で目元を強く拭うと、
「あれは……多分、鴆毒」
「鴆毒!? でもそれは幻の鳥、鴆の羽からとれる猛毒のことでは? まさか外界では鴆鳥が発見されたとでも?」
「違う。あくまでも鴆毒に似せた――調合されたもので」
「でも幻の毒なのに、どうやって似てるなんて分かるの?」
「その毒は無味無色無臭で、水に良く溶け、呑んだ者は突如苦しみだし、ほどなく息を引き取る――この症状が、鴆毒の伝説と同じ。鴆鳥の紫緑色に羽を染めることで、より鴆毒に似せられている――とか」
「解毒剤は?」
「『鴆毒に似た毒がある』という噂は聞いたことがあったけど、実在してるかは分からなかった。まして解毒剤があるかどうかなんて」
璃律はにわかに目を逸らし、「何だってそんなものを持ってるんだ!」誰とはなしに吐き捨てた。
「あれは母さんのもの、だったから……」
瑛明がうわ言のようにそう言うと、場が静まり返る。
その重い沈黙に、瑛明は自分の発言の軽々さに気づく。だけど取り繕おうとも思わなかった。取り繕いようもなかった。
捨てなければ――母さんから受け取ったとき、すぐさまそう思った。
だけど、正体不明の猛毒をどう捨てるべきなのか分からず、燃やしても、埋めても、毒をまき散らしてしまうのではないかと思って――そのまま忙しい日常に追われ、「そのうち」と片付けてしまっていた。
こんなところでも、先送りをしたばかりに――。
「でも、寝室の奥深くに置かれていたようだったし、誰もこの羽の存在どころか、効能だって知りようがないじゃない。ただの綺麗な羽だとしか――」
沈黙を破るように芳倫が言った。
知りようがない――それは外界のものなんだから――そう思い至ったとき、瑛明は呟いていた。
「中相……」
そのときだった。部屋に王医とともに王師である元国師が駆け付けたのは。
璃音が二人に状況と、呑まれた毒について手短に説明しながら、彼女が運び込まれた隣の寝室へと入っていく。
「ここからは男子禁制です。きっと何とかしますから――待っていてください」
そう言って寝室の扉に両手をかける芳倫の声が、僅かに震えていた。
「頼む」そう言うと、芳倫は僅かに口元を歪めて小さく頷き、たちまち扉は閉められた。
瑛明は閉ざされた扉の前でただ呆然と、立ち尽くす。
「とりあえず――こちらへ」
背後から声。
振り返ると、そこには璃律がいた。瑛明は自分がこの場で一人ではなかったことを、ようやく思い出した。
彼は、書机の椅子を引き出し、「どうぞ」そう言って、瑛明に座るよう促した。
瑛明は寝室への扉へと向き直り、その奥をしばし凝視していたが、小さく息を吐いて、踵を返した。
のろのろと歩を進め、書机の椅子に座る。
肩越し振り返った。ほんの僅かだけ目を離した寝室の扉の奥は、何ら変わった様子はない。ぐっと唇を噛むと、
「どうぞ」
脇から布巾が差し出された。目を向けると、傍らに璃律がいた。
「酷い有様だ。そんな顔を人目にさらしてはなりません」
そう言って、布巾を手に取るよう促す。受け取ったそれは、湿っていた。少し緩めに絞られたそれを顔にあてると、ひんやりとして気持ちが良かった。
書机に両肘をついて、布越しに両手で顔を覆っていたら、「どうぞ」再び声がした。
目元から布を外すと、今度は璃律が茶碗を持って立っていた。
「これしか用意できませんが」
「――ありがとう」
その行為に驚きながら、瑛明がおずおずと受け取ると、「いえ」短く返事が返ってきた。
茶碗の中身は水だった。手を入れたら痛みそうな冷たさで、身体の中を通って落ちていくのがはっきりと分かった。
そこでようやく、瑛明は自分の呼吸が浅くなっていることに気づく。できるだけゆっくり大きく息を吐いて、残りの水を飲み干したところで、璃律が空いた茶碗と濡れた布巾を、そっと手からさらった。
璃音みたいだな――そう思ったら、僅かに口元が緩んだ。
深く息を吐いてから、再度振り返って寝室の向こうに目を注いだ。何か変わった様子は伺えない。もう随分な時が経ったと思ったけれど、だけどその実、水を一杯飲んだだけの時しか経っていない。
ただ待つだけの時間は――余りにも長い。
『きっと何とかしますから』芳倫の声が、耳奥に響いた。
瑛明は傍らに立つ璃律を見上げ、
「中相は――今、どうしている?」
「外廷の牢に」
「経緯を、聞かせてくれないか?」
「かしこまりました」
璃律は一礼し、語り始めた。




