第八十五集「罠」
瑛明は慌ててしゃがみ込み、黒櫃のあたりをさぐったが、指先に触れるのは、痛いほどに冷えた硬い床ばかりだ。
着替えた時の行動を思い起こしたが、どう考えてもここに衣装がないのはおかしい。ということは。
――誰かが、この部屋にいる。
息をつめて、耳を凝らす。だがなんの音も気配もない。いや、俺が感じ取れていないだけかもしれない。それくらいに心臓の音が、あまりにも騒がしい。
ひそかに、できるだけゆっくりと息を整えながら、瑛明は立ち上がる。しばし立ち尽くしていると、暗さに目が慣れてきた。思っていたより闇ではない。
考えてみたら、まだ夜にはなっていないはず。落ち着かなければ。
意を決し、衝立の脇をすり抜けた。
肩があたって、衝立が揺れる。ひやりとしたが、いきなり襲い掛かってくるような気配はない。
部屋は、物の輪郭が分かるくらいの暗さ。位置が変わっていることも、何か別のものがあるようでもない。そして開け放った扉が続く前室は、僅かばかり明るい。廊下からの漏れているのだろう。
誰かが居るなら、恐らく前室。
だけど――妙だ。
俺を襲うつもりなら、衣装を隠す必要はない。無駄な警戒心を抱かせるだけるし、無防備に着替えているときは、襲撃の好機のはず。
だとしたら、襲うつもりはない?
そう思い至ったら、少しだけほっとした。
最優先は――無事にここを出ることだ。
あの方に会う前に、この命はなくせない。絶対に。
瑛明は足音を忍ばせて扉の影により、前室を伺い見る。そうして大きく息を吸い――にわかに駆け出した。
物のない前室に、その足を止めるものはなかった。瑛明はたちまち廊下に繋がる扉にたどり着き、そこで身を返して扉に背を預け、今来た道を見た。
入ってきた時よりは暗くなっていたが、それ以外は何にも変わりがないように見えた。主のいない部屋――そこには、誰もいなかった。
目の前の部屋の中も、背後の廊下も、それは静かなものだった。
瑛明はそこでようやくほっと息を吐いた。とはいえ――誰かがここに来たことは間違いない。持ち去られた衣装は――まさか、俺が逃げ出したという証にされるのか? つまり、ここに至るまでの全ての出来事が、用意周到に用意された罠だったと?
知らず口角が上がった。
逃げ出してなどいない、俺はここに居るんだから。
「あとは、誰にも見られず部屋に戻るだけだけど……」
もう少し暗くなるのを待つか? しかしその前に部屋がもぬけの殻だと知られては厄介だ――逡巡している瑛明の耳に、悲鳴が聞こえてきた。
「何」
たまに宮中で上がる、「虫が出た」等とは明らかに違う、ただならぬ悲鳴に、瑛明は「まさか侵入者!?」と身が硬くなる。
一度途切れたと思った長い悲鳴が、今度は短く、何度も上がる。若い女の声だった。
尋常じゃない叫び、だけど少なくとも悲鳴の主が危ういわけではなさそうだ。
今が好機だ、皆の注意がそちらに引き付けられているうちに――瑛明は薄く扉を上げて廊下をうかがってから、素早くそれを開け、廊下へと身を滑らせた。
目論見通り、複数の足音と人声が、こちらから遠ざかり、悲鳴の方へと向かっていく。
瑛明は階段を駆け下りると、院子を縦横に走る渡廊の影を、身を屈めながら走る。たびたび真上の渡廊を走る足音が響いた。
だが。
次第に、真上を急ぐ人の足が増えてきた。瑛明は、人々の行く先が、自分と同じ方向なのではないかと思い始める。しかしあの悲鳴、依軒でも、璃音でもない。さっき部屋に来た女官のものとも違う。
では――まさか芳倫の身に何か!?
足を速めた瑛明の目に、渡廊の角が見えた。そこを曲がれば、自分と、芳倫の部屋がある。
瑛明は角で足を止め、頭上を行く足音をやり過ごしてから、そっと上体を上げ、欄干の間から、人々の集まる先を見た。
――あれは、俺の部屋?
閉ざされた扉の前に集まった若い女官たちが、どうしようとばかりにおろおろと顔を見合わせている。そこへ「お開けなさい!」と鋭い声を上げて、人だかりをかき分けてきたのは女官長だ。
女官長が扉の前に立つ直前、突然、中から扉が勢いよく開き、転がるように若い女官が飛び出してきた。さっき書を持ってきた娘だ。彼女は、普段であれば皆が恐れるだろう女官長にしがみ付き、号泣する。
その激しさに、周りは困惑気味に顔を見合わせたが、女官長が「どうしたのです」と普段よりは幾分優しく声を掛け、また周りの同僚たちが代わる代わる背をさするのに助けられ、女官はどうにか気持ちを鎮めたようだ。
しゃくりあげながらも、か細い声を絞り出して言うには、
「え、……瑛明さまが、瑛明さまが……」
――俺?
思ったときには飛び出していた。
状況に戸惑い、突然の乱入者に驚く人びとをかきわけ、前室に飛び込むと、開け放たれた扉から見えた居間には――。
――俺が、倒れてる!?




