第八十四集「泡沫」
部屋を出ると、廊下にも院子にも人影が見えなかった。
だから瑛明はまっすぐ、かつての居室に向かった。大股で、足早に。角を曲がるときですら、歩を緩めることはなかった。
この角を曲がったら、というところでようやく、そういえば居室の鍵がないということに瑛明は気づいたが、むしろ勢いよく角を曲がった。
人気もなく、薄暗い廊下を進み、懐かしい扉の前に立つと、迷いなく扉を押す。
当然であるように、そこは開いた。それどころか、住んでいたときも、ついこの間訪れた時も、軋んだ音を立てていたはずの扉が、滑らかに開いた。
中に入り、扉を閉める。
鍵をかけるべきか考えたが、すぐに身を翻して、居間に向けて歩き出した。何故なら、開け放たれた扉の向こうに明かりが見えたからだ。
居室に足を踏み入れると、窓が締め切られた薄暗い空間の中、一角の壁が浮かび上がるように明るい。ためらいなくそこを目指す。
衝立を超えると、あの、黒櫃があった。
その傍らに、煌々と光る燈籠が置かれている。そして黒櫃の上には、衣類が置かれていた。
手に取る。慌てて畳んだと思われるそれは、長衣に褲子。男物の衣類だ。傍らには高革靴も置かれている。
瑛明は着ているものをためらいなく脱ぎ、置かれた衣装に袖を通す。燈籠の近くに置かれていたからか、仄かな温もりが感じられた。
靴を履こうと黒櫃に腰を下ろしたとき、燈籠の灯を跳ね返す衝立と、薄暗い空間が見えた。そこで瑛明は初めて、自分が背後を何ら気にすることなく着替えていたということに気づいた。入口の鍵をかけておらず、前室への扉は開け放したままだというのに。
高革靴に足を入れたところで、違和感を覚えた。
そういえば衣装も、いつも用意されているものとは少し違っている。色合いが一緒だから気づかなかったが、僅かではあるが、全体的に小さい気がする。
俺、やっぱり成長したんだな――今朝鏡で見た、女装姿が不釣り合いになっていた自分の姿を思い出す。
着替え終わった瑛明は、脱ぎ散らかした衣装を前にしばし思案したが、搔き集め、軽く畳んで黒櫃の傍らにまとめた。
そうして右手に固く握った鍵で黒櫃の施錠を解くと、そのままふたを開け、底板も外す。左手で燈籠をさらうと、黒櫃に足を入れた。
足元に久しぶりの不安定な硬さを覚えながら、瑛明は階段を数段下り、いまや頭上となった黒櫃の蓋と底板を閉めた。
そのまま足早に階段を下り、地下通路に下りたったところで燈籠を高くかざし、辺りを照らした。
静謐な空間には、誰の姿もないようだった。
どうする――瑛明は逡巡する。思わず右手を胸にあてると、がさりと音がした。
「下で待っている」あれは確かに、あの方の手蹟だった。
瑛明は階段まで戻ると、足元に燈籠を置き、腰を掛けた。
いかにも自分がここにいると主張することになるが――いまさらだ。
ほうっと息を吐いた時、何故だか笑いが込み上げてきた。
この、たった一行の文に導かれて、ここまで来たけれど――その経緯を思い出したら、笑わずにはいられなかった。堂々と廊下を歩き、部屋の鍵もかけず着替えをして、そうしてここにいる。
この状況で笑っているなんて――朝餐も満足に口にできなかったはずなのに。
深く息を吐く。今まで息をすることも忘れていたかのようだ。
ついさっきまで、先行きを恐れていたはずなのに、なんだってこんなところに――そう思ったところで――瑛明はふと得心する。
この、俺を突き動かしてきた、今も高ぶっているこの感情――ああそうか、俺は怒っているんだ。
「残念だ」
たとえどんな状況であったとしても、俺を信じ切れない、あの方に。
◆
「寒い……」
階段に座り込んでいた瑛明は、胸元に抱え込んでいた両膝を抱く腕に、力を込めた。
ちらりと足元に目を向ける。燈籠の中の蝋燭は、あと一刻持つかどうか。
瑛明は膝に埋めていた顔を上げ、首を伸ばして暗闇の向こうに目を投げる。だけどいくら目を凝らしても、闇の中になんの光も見つけられない。
璃音がここに来ないということは、まだ俺の不在はバレていないんだろう。否――それどころではない、ということかもしれない。
もしそうであるなら――王上の身に、何かあったのか。
再び闇の向こうに目を投げる。だけど、いくら目を見開いても細めても、闇奥に揺れるものは何一つない。
目を落とした燈籠の中で、蝋燭はいびつな形に融け始めている。
どうする――瑛明は唇を噛んだ。
もう、中相との話は終わっているはず。部屋に戻って、着替えて、どんなにゆっくりだったとしても、ここまでの時間はかからないだろう。
中相――。
その言葉は、これまでにない、得も言われぬ感情を連れてくる。
俺はずっと、言いようのない所在なさを感じていた。
あらゆる人は、みんな通り過ぎていって、留まることはないのだと思っていた。
そうして俺自身も、誰のことも目で追うことも、心にかけることもなくなっていた。
だけど、あなたは違った。
あなたは時に優しく、時に厳しく、時に温かく、時に冷ややかなその言動で、俺を翻弄し続けた。俺はいつも、その存在に囚われていた。
あの人は、「そうなりさえすれば」と願っていた何もかもを手に入れている人だからだと思っていた。
なのにあの人はその実、何も手にしていなくて――俺を惹きつけていたのは、あの人の全能さではなく、何にも執着できない空虚さなのかもしれない――それが分かった昨夜ほど、あの人を遠く、また近くに感じたことは、ない。
『息子のおまえが知りたいと言うのなら――話してやるのも、まあ、いいか』
何かが変わる――そう思ったのに。
火が爆ぜる音。
見れば、もはや形のない蝋燭の火が、最後の力とばかりに明るく揺れている。もう猶予はなかった。
戻ろう――瑛明は決断する。
戻って、蝋燭を調達してこよう。おそらく外は、少し暗くなっているはず。暗がりに紛れて部屋に戻って、蝋燭と、重ねられる衣を。
もしかしたら、何らかの連絡があるかもしれないし。
勢い良く立ち上がった瑛明は、足下の燈籠を慎重に手にして、急ぎ階段を上がる。
黒櫃を開けると、思った通り室内は、さっきより幾分と暗くなっていた。衝立の白だけが、浮かび上がるように明るい。
急いで着替えよう――黒櫃の傍らを振り返った瑛明は、瞠目する。
衣装がない――そこで火が消えた。




