第八十二集「真偽」
確か、俺が生まれた時に、医師が「見間違えた」からだって、母さんは言っていた。
中相は跡継ぎさえ手に入れられたら自分は用無しになるから、女児を産みたいと思い込んでいた、とも。
俺が男児だと気づいた母さんは、露見したら自分は捨てられると思い詰めて、地下道から外界へ逃げ出したと。
最初に聞かされた時、「なんだそれ」って思った。そんなこと、本当にあるのか? と、違和感を覚えずにはいられなかった。
なのに俺は結局、それを信じた。信じて今こうしている。
それこそが、おかしなことではないか?
俺が「おかしい」と感じた違和感こそが実は正しく、俺が信じた全てが「誤り」だったとしたら。
瑛明は足を止め、椅子の上の衣装を手に取った。明るい部屋で見ると、それは随分と汚れていた。思っていた以上に。
瑛明は、手にした衣を椅子に置き、盥を覗き込んだ。
半ばほどまで注がれた水に、自分の伏した面がぼんやりと映る。下から見ると、顎の線が以前よりはっきりと出てきているようだった。思わず、首に巻いた布を留める釦に、手を触れた。
――「誤り」なのは、「見間違い」じゃないんだとしたら。
「母さんが産んだのは女」そこが正しいのなら。
じゃあ俺は――誰?
宮中にいた、他の赤子? だとしたら、そんな赤の他人を母さんは一体、何のために。
馬鹿馬鹿しい――瑛明は頭を振る。
だいたい、俺が母さんの子どもじゃなかったら、なんで宮中にいるんだよ。宮中深くに、王家の血を引かない赤子がいるわけが……。
息を呑んだ。
振り返ったら、こちらを見ていた璃音が僅かに眉をひそめた。
「まさか、璃音は知って……」うわごとのように呟いたとき、初めて会ったあの日、瑛明は似たような言葉をかけられていたことを思い出した。
『おまえは、どこまで知っている?』
「瑛明さま?」
そこへ振鈴の音が響いた。
璃音はこちらを気にする様子を見せながらも、扉へと向かい、部屋を出た。扉が閉まると同時、瑛明は身を翻す。今は遠ざかった璃音から、さらに距離を置くかのように。
混乱のままに歩を進めたからか、足元が縺れて衝立に肩が当たる。そのまま伝うように歩いて回り込み、鏡台の前の椅子に、倒れ込むように座り込んだ。天を仰いで、固く閉じた目を両手で強く押さえた。何一つ目に映したくない、とばかりに。
璃音や璃律は知っているのだろうか。否、知らないはずがない。乳兄弟として、ずっと傍にいたのだから。
何で? その言葉だけが、頭の中を巡る。だけど決して答えは返ってこない。過去を知る母さんは、もういないのだから。ならば。
「どうする――つもりだったんだ」
もし俺が帰らなかったら。
俺が、宮中に残りたくないと言ったら。
瑛明はゆっくりと手を解き、それを下ろしながら目を開ける。
首を巡らせると、磨き上げられた鏡面が自分を映していた。首に巻かれた布と同じ、鮮やかな青の襟元は大きく開けられ、髪は綺麗に結い上げられている。だが美しい女性の姿というには、紅のさされていない青白い面は、どこか不釣り合いに思えた。
こんなこと、今まで思ったことはなかったのに――だからこそ、宮中に入ることができた――否、俺は女だとされていたから、ここに入ることができたんだ。
だから母さんは、俺に学問を修めさせる一方で、時に女としてあることを強要したのか。そして桃花源に帰ってくる日、俺に女の衣装を着せた――こうなることを見越して。
だから、すぐ傍にいる俺のことなんか目もくれず、中相のことばかりを思っていたんだろうか。「そういうこと」なら、母さんが俺を連れだした意味が、分かる――口元に苦い笑みが浮かんで、瑛明は緩く頭を振った。
瑛明は鏡に手をかけて、まじまじと自分の顔を見た。
だったら――俺は、中相に似てるのか? そんなはずはない。そんなことあるわけない。
頭がぐちゃぐちゃになってる。落ち着け、落ち着いて、息を――。
『男児が産まれたら、私は志按さまに捨てられる。だから逃げたのです』
『私が何も知らないと思っているの?』
『おまえは本当に信じているのか』
『お会いしたその日から、あなたのことを疑っていました』
――分からない。
誰が何をどこまで知っているのか。
何が本当で嘘で正しくて間違っているのか。
『おまえは、どこまで知っている?』
あなたは、どこまで知っているんですか?
『残念だ』
あなたは、俺をどんな目で見ていたんですか?
『おまえが好きなんだ』
それはあなた自身の、心からの言葉なんですか?
あなたは、一体何を望んでいるんですか?
あなたの口から聞きたい。
それが嘘でも、間違っていてもいい。今はあなたが、俺の目の前で紡ぐ言葉を聞きたい。




