第八十一集「根底」
目が覚めると、辺りは暗かった。だから最初は、あまり眠れていないのかと思った。
だけど反対に目を向けると、帳越し、開いた扉の向こうは随分と明るかった。そんな中、背筋を正したまま、こちらを向いて座っている姿が見えた。
「お目覚めですか」
「うん」隣室から投げられた声に、瑛明は小さく応えた。
ゆっくり起き上がり、牀台から足を下ろす。
居間に入ると、寝室よりは随分と明るい。この部屋の窓には、板が打ち付けられてはいないようだ。まあここは、頭も入れられないような細い窓が並ぶ作りだから、その必要がないということか。
璃音が水を満たした盥を用意していてくれた。手を入れると、ほんの少しだけ温かい。
「ありがとう」振り返ってそう言うと、璃音は僅かに目を伏せた。
顔を洗い、促されて鏡台に座ると、璃音が髪を梳いて、結い上げてくれる。いつものように。
「朝餐のご用意もありますが」
「いただくよ」
「かしこまりました」
璃音は一礼を残し、部屋を出た。
一人残された瑛明は、閉ざされた前室への扉を見つめる。
俺が抵抗しないと思っているのか――抵抗できないと思っているのか。そんな心の声に呼応するように、扉の向こうで小さく話声がする。
やはり璃律も寝ずの番だったのか。
食事を運ぶように言いつけてきたのだろう、ほどなく戻ってきた璃音は、室内の窓を開けていく。
東の窓からは眩しいくらいの日差しが差し込んできて、どことなく澱んだ室内の気配を払ってくれるかのようだった。流れてくる風は冷たいが、やはり室内の気を清涼としてくれた。
やがて外から鈴が鳴らされ、璃音が再び部屋を出ていく。
再び戻ってきたときには、料理が何品かのせられた手押車を手にしてきた。
湯気が立ち上り、様々な香りがする。平素よりは品数は少ないが、この状況でこれだけの食物が与えられることが、特異なことだ。
璃音は手際よくそれらを卓上に並べながら、「瑛明さま」 彼女は眼を落したまま続けた。
「中相さまが参内されたそうです」
いつも以上に低い声は、確かに耳に届いた。
「そう」
瑛明は小さく息を吸い、応える。
卓上には、湯気を上げる粥と蛋湯。粥に合う薬味、木の実に野菜、肉や魚の小皿料理が並んでいた。
「何をお入れしましょうか」
璃音が粥を注ぎながら、いつものように訊いてくる。
瑛明は卓上にしばし目をさまよわせて――「任せるよ」
「かしこまりました」
璃音は粥を少量注ぎ、多めの生姜と少しの鶏の細切りと青菜の塩漬けを手早く載せ、「どうぞ」
「ありがとう」
全くいつもと変わらないやりとり。瑛明が受け取ると、璃音は蛋湯を注ぎ始める。
水分が多めの粥に匙を入れると、湯気がやや強めに立った。上に載せられたのは、一番好きな取り合わせだ。これが最後の食事かもしれない――思いながら口に運ぶ。
だが、味がしない。
試しに青菜の塩漬けだけをすくって口に運んでみたが、同じことだった。味のしない塊をただ噛んで、飲み込む。たった二口しか食べていないのに、腹が重い。
少しばかり盛られた蛋湯も味がしないまま、腹に落ちていく。
僅かに香る胡麻油がたまらなく不快に感じて、気づいたら碗を叩きつけるように卓上に置いてしまっていた。
「ごめん、もう充分だ」
それだけ言って、瑛明は席を立った。依軒がいたら「はしたない!」と声を上げるに違いない――そろそろ依軒も起きてくるころだ。この状況を、どう見るんだろう。
「かしこまりました」
璃音が淡々と片付け始める。
その気配を感じながら瑛明は、手を差し入れるのがやっとの細い窓に目を留め、歩き出した。ついさきほど璃音が開けた窓からは、ひんやりとした風が流れてきて、院子の朝の景色が見て取れた。
院子を見るのも、これが最後だろうか――そう、目を投げた遥か先に、梅林が見えた。
『おまえが好きなんだ』
あそこで王上に告げられたのは、ほんの昨日のこと。
あれが、最後になるんだろうか。
そのお言葉にお応えしたけれど、きっとあの方は、まともに取り合ってはいないだろう――口元を歪ませた横顔が、ありありと目に浮かぶ。
そんな風に思わせたまま、終わってしまうのか。
まだ何も話していない。王上からも、何も聞いていない。
芳倫にも――ちゃんと話すと約束した。
中相も――息子の俺が知りたいなら話すと、昨夜そう言っていた。
なのに。
「どうぞ」
背後からの声に、瑛明が驚いて振り返ると、そこには璃音がいた。茶の入った小碗を手渡される。手に取った碗は、仄かに温かかった。
口に運ぶと、もうどれだけ飲んだか分からない、いつもの茶の味がした。鼻をくすぐる香りも優しくて、瑛明は静かに息を吐く。
背後の気配は動かない。
瑛明は茶を手にしたまま、おもむろに窓の外に目を向け、口を開いた。
「昨夜、中相は言ったんだよ。今日の昼、全部話すって」
「そうですか」
返答は、相変わらずの抑揚ない声。
言ったから会わせてもらえるとは思わなかったけれど、どうしてなのか言ってしまった――そう思ったら、自然と口元が綻んだ。
そう、まだ聞いていないんだ。あの人の話を。そういえば桃枝、どこにいったんだろう。着替えた時、懐になかった。
確か地下道に下りた時にはあったはず――歩いている時、胸で懐紙ががさりと鳴ったのを覚えている。懐にねじ込まれた時の、あの感覚も。
懐にねじ込まれて、そのまま中相に先導されて隣室に行って、階段を下りて――。
そういえば中相、最後に妙なことを言っていたな。
『おまえは――本当に信じているのか?』
意味が分からなかったけれど、明日訊けばいいかと思ったんだった。けれど。
『本当に信じているのか?』
「本当に」だなんて――疑われてるのか、俺は中相に。一体何を?
余りに単純過ぎて、誰もが信じないようなことを、俺が信じている――そう言っているように思える。
――なんだろうこの感じ……。
何か、色々なものが複雑に絡み合ってしまっていて、どう解いたらいいのか、何より解けるのか、そもそも、解いてしまってはいけないことなのではないのか――そんな途方もない、言いようのない不安がこみ上げてくる。
「ありがとう、美味しかった」
瑛明はそう言って手にした茶碗を璃音に渡すと、歩き始めた。室内をぐるぐる回っていることを特に咎められることはなかったが、視線がついてくるのは、ひしひしと感じた。
――単純な、あり得ないこと……。
つい先ほどまで料理が並んでいた卓上はすっかり片付けられていて、茶の支度がされている。横目で見ながら、瑛明はさらに歩を進める。開け放されたままの寝室の前を通り過ぎ、いつも身支度を整える鏡台が近づいたところで、それを隠すように立てられている衝立の前で曲がる。
木枠に大判の絵を張り付けたそれは、今は桃林となっていた。満開の花で、全てが桃色に霞む風景は幻想的で、美しい両岸の桃林に恐れさえ抱きながら、引き寄せられるように川の上流を上ったあの日のことが思い出される。
――あり得ないといえば、俺が桃花源で、こうしていることだけれど。
ふと壁に目を投げれば、紫檀の違い棚に様々な調度品が並んでいる。全て中相と王上から贈られたものだ。
ほんの一年前、外界に居たころは、こんな高級な品、遠目であっても見たことさえなかった。
そのまま歩いていると、手洗い用の水が溜められた盥が置かれた高卓が見えた。ずらされた椅子の上には、薄汚れた衣装が畳んでおかれている。昨日俺が着ていた服か。男物の――。
――そうだ。
突然、瑛明は思い至った。
もっともあり得ないこと――それは俺が、ここに女として居ることだ。




