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きみは最果ての光  作者: 天水しあ
第九章『前夜』
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第七十七集「不在」

 どちらからともなく立ち上がり、地下通路に繋がる隣室へと足を向ける。すると、

「これは持っていけ」

 声に振り返ったと同時、懐に紙包が捻じ込まれる。卓上に広げられていた桃枝だ。


 「ありがとうございます」戸惑いながら、瑛明は固い声でそう言い、目を伏せる。その横を抜けて、中相が隣室への扉を大きく開け、先に立って歩き始めた。


 積まれた本に触れないよう、頭上高くに掲げた燭台の光は、足元にまで届いていない。にもかかわらず、まるで全てが見えているかのように、中相はするすると林立する本の山を抜けていく。瑛明は、必死に目を凝らして、闇に溶けそうなその背を追った。


 そして、つい先ほど自分が外した床板二枚を、今度は中相が外した。ただ置いただけの板は、容易に外れる。それを傍らに置いた中相は、階段の上り口に置かれた火の消えた燈籠を取り上げると、中の蝋燭に、自らが持つ燭台の火を移した。


 瑛明は、明るく浮かび上がる陰影がはっきりとした端正な横顔を目に映しながら、暗い地下通路に突き落とすつもりなのでは――この期に及んでなお、そんなことを思って身を固くしていた自分を、闇に紛れて苦く嘲った。


 灯った燈籠を渡され、「さあ」と促され、瑛明は闇にぼんやりと浮かぶ石段に、慎重に足をかけた。石段を撫でるように、滑るようにして下に下りていく。


「気をつけろ」

「はい」

 時折、頭上からかけられる声に応じながら、一段ずつ下っていき、ようやく地に足がついた。瑛明はほっと息を吐いて、天井を振り仰ぐ。


 燭台を掲げた中相が、じっとこちらを見下ろしていた。


 ただ、ひたすらにまっすぐに注がれる目線。射貫かれるかと思うほどに強いそれに、安堵、笑み、全てが瑛明の表情から消し飛んだ。


「おまえは――本当に信じているのか?」

「え?」


 戸惑いの声をあげたとたん、いきなり頭上が暗くなった。中相が床板をはめたからだ。「晩安おやすみ。また」その声を残して、最後の一枚がはめ込まれた天上からの灯は、完全に絶えた。


 瑛明はしばしその場にとどまったが、再び頭上から光が射すことはない。

 一つ息を吐くと、踵を返して、来た道を戻り始めた。

 まあ、いい。明日訊けばいいんだ――心をざわつかせる自分にそう言い聞かせながら。


 自分の足音と息遣い、洞内に満ちるそれに追われるように、瑛明はどんどんと足を速めていく。この道を来るとき、生きて帰れないかもと思っていた。

 だけど今、こうやって無事に帰り、中相は求めていた以上の答えを、あっさりとくれた。しかも、その理由さえ明日話してくれるという。


 こんなにうまくいくなんて――だからなんだろう、余りに胸が騒がしくて、息苦しささえ感じてしまうのは。


 ふと、岩肌を伝っていた右手を、胸に当てる。がさりと音がした。ああ、帰り際に捻じ込まれた桃枝か……。


 いきなり突き上げてくるものの強さに、思わず瑛明は足を止めた。


 そこで気づいた――自分が泣いていることに。


                    ◆


 人里離れた粗家に引きこもっていると、昔の夢(多分、中相の)でも見たのか、こちらを見ようともしない母さんは、ずっとだんまりである。

 話しかけても動いても、「平和な世界を破る異物」を見るような一瞥が投げられるだけだと分かっているから、母さんの目にできるだけ入らないように、部屋の片隅で、黙って、膝を抱えて座っていた。


 俺は本当にここに存在してるんだろうか――母さんを気配を薄闇に感じながら、もう何度も、思わずにはいられなかった。


 だから、人里離れた粗家に暮らす日々が続くと、足はいちへと向かうようになった。

 何も買えなくても、誰と話すわけではなくても、雑踏の端で目の前を行きかう喜怒哀楽が溢れる人を見ているだけで、心が慰められるようだった。観客の一人として、目の前で繰り広げられるしばいを楽しんでいる――そんな気持ちだったのかもしれない。


 母さんの、『おまえは王家の血筋を引くものなのです』って口癖を真に受けたわけではないけれど、ここは自分の居場所じゃないから、だからこの喧騒の中には入れないんだと思うことができた。


 行くべき場所に戻り、地縁も血縁も金もそれなりに手に入れば、きっと自分もこの世界の中に入れる。きちんと生きていけるんだと、そう思ってた。


 なのに。

 俺には見えたのだ。


 雑踏の端に一人立って、行きかう人々を、自分の日常としてでもなく、戯としてでもなく、ただ目の前にあるものを、ぼんやりと目に映しているだけの、あの人の姿が。


 金はもちろん、地位も名誉も家族も、何もかも充分過ぎるほど持っていて、敬意も羨望も嫉妬も、あらゆる人の思いを集める存在でありながら。


 あの人は――どこにも居ない。


 何事にも動じたりすることなく、いつも穏やかに、柔らかく笑っていて、だけど――目が笑っていない。そう思っていた。

 でもそれは、やはり大人だし、何より国政を担う官吏として、常に冷静に物事に対峙しているからだと思っていた。


 ――そう、思いたかった。


 『盗人のような真似はするな』あの、不自然なまでの激昂。

 『どうなっても知らないからな』思わずよろめきそうになった、鋭い眼光。


 喜怒哀楽がない、なんて嘘だ。

 好きな人を奪われるなんて、俺だったら耐えられない、そう思ったはず。


 なのに――何故、中相なら大丈夫だったんだろうと、思ってしまっていたのか。

 大きな代償ではあったけれど、それに見合うだけのものを手に入れられたのなら、良かったのかもしれない、だなんて。


 瑛明は袖口で目元を拭った。


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