第七十ニ集「告白」
「え、瑛明さま、申し訳ございません!」
「ごめん、ぼんやり歩いてて。どこか打ったりしてない? 大丈夫?」
渡廊を歩いていた瑛明は、建物を曲がってきた女官とぶつかった。慌てて身を引き、何度も頭を下げる彼女に、瑛明は慌てたように声をかけた。
「私は、大丈夫です」
「なら、お互いなんでもなくてよかった」
笑顔でそう言うと、「はい、よかったです」宮仕えが間もなく一年になるという彼女は初々しさが滲む、はにかんだ笑みを浮かべ、ぎこちなく頷いた。
「引き留めてごめん、じゃあ仕事頑張って」
言いながら、辺りに素早く目を投げた。さっき確認したときと同じく、他に人気はない。瑛明は僅かに身を屈めて少女の耳元に口を寄せると、
「この前は、ありがと」
「いえっ、あのくらいのこと……」
跳ねた肩に、上ずった声。
男装をした瑛明を見る他の女官たちと同じように、彼女は頬をほんのり上気させている。だけど向けられた目には、他の女官たちにはない、意味深な光があった。
戸惑いの中にも隠しきれない「共犯者」を意味する光が。
それに答えるように瑛明は笑いかけると、「じゃあ」彼女の脇を抜け、右手に現われた院子への階段を駆け下りた。
階段を下り切ったところで、瑛明ははあっと息を吐いた。
針先で刺されたような僅かな痛みを感じる。だが、それは無視する。
売上を上げるために爺の手を握るくらいは当たり前、外界では、そうやって生きてきたはず。
純情な女官を騙すことに胸を痛めるなんて――いまさらだ。
もうすぐ母さんの喪も開ける。どのみちこのままでは、いられない。
いよいよ明日、中相が戻ってくる。明後日、参内の予定になっていると璃音からも聞いた。明日の戻りは確実のようだ。
依軒が言うには、戻ってくるのはいつも閉門間際だという。まあ、そうなるだろう。俺の考えている通りだとしたら。
ゆっくりと天を仰ぐ。晴れ渡った空は、澄んだ青色をして、光輝いていた。結い上げきれない後れ毛が、風になびいて緩やかに頬を撫でる。
なんて、平和なんだろう。口元が知らず歪んだ。そのとき。
「瑛明」
空耳かと思った。いや、そうであって欲しいと思ったのかもしれない。
瑛明は意を決して振り返る。
そこには、どこか思いつめた表情で一人立つ、王が居た。
「璃音は?」
瑛明は周囲に目を投げながら、院子に下りてきた王に近づいて、声を潜めて訊いた。すると王はさっと目を伏せ、
「そこまで、一緒だったけれど、用を思い出したから、先に行くようにと……」
そんなはずはない。璃音が、この御方を一人でここに来させるはずがない。
嫌な予感がする。
瑛明は強いて笑顔を作り、「お茶の支度をさせましょう。依軒を――」
瑛明はそう言って、渡廊に上がろうと足早に王の脇を抜けた。だが一段目に足をかけたところで、左袖を強く引かれる。
足を止めて振り返ったら、強い光にまっすぐに射貫かれた。
「好きなんだ、おまえが」
その声を受け止めたとき、全てが止まったように思えた。
揺るがない目がまっすぐに見つめてくる。握られた左袖に、いっそう力が籠められた。
「私はおまえと、ずっと一緒に居たい。おまえは――私のことをどう思ってる? 本当のことを、聞かせて欲しい」
だめだ、もう誤魔化せない――強い眼差しに、思わずにはいられない。今こそ、打ち明けるときだ。
でも。
「瑛明さまー」
そのときだった。渡廊から大きな声が飛んできたのは。
左袖が解放され、瑛明はそちらを振り返りながら袖を引く。目の先、腰ほどまである欄干に手をかけ、身を乗り出すようにして大きく右手を振る芳倫がいた。
「待ってて、今そちらに参りますわ」
そう言うと、彼女は渡廊を小走りにこちらへと向かってくる。
ほっとした。だけでなく、息まで漏れた。
瑛明は、そんな自分の無意識の行動に驚き、慌てて横に目を向ける。
伏せた面には、表情がなかった。
――違う、そんな顔をさせたいんじゃないのに。
瑛明が立つ階段近くに来たところで芳倫は足を止め、
「嫌だ、王上もいらしたんですね。瑛明さまの陰で気づきませんでした、申し訳ございません」
「そう。王上に言われて今、芳倫さまを呼びに行こうかと」
瑛明はにこやかにそう言いながら、同意を求める態で王を振り返った。だが、
「ああ」すっと横に流された視線。短い回答は、低い声だった。一層胸が重くなるのを感じながら、瑛明は再度芳倫に目を向け、
「そういう芳倫さまは、どちらかへ向かわれる途中だったのでは」
「ええ。ちょうど瑛明さまのお部屋に行くところだったの。お見せしたいものがあって」
そう言うと、芳倫はその場で軽やかに一回転してみせた。小花を散らした上衣の青い袖と紅の長裙の裾が、ふわりと揺れる。
「家から新しい衣装が送られてきたから、瑛明さまに見ていただこうと。どうかしら?」
王上にお見せする前に、まずは俺の反応を、のつもりだったんだろうに。苦笑しながら、
「青の衣とはお珍しいですね。いつもの紅基調のお召し物は可愛らしいですが、今日のお召し物は大人な感じで素敵です。長裙と披帛の紅も映えています。よくお似合いです」
「本当?」
疑念の態を装いながらも、その声は嬉々としていて、まんざらではない様子。
それを裏づけるかのように、芳倫はそのまま、くるっと軽やかに身体を反転させ、
「王上、いかがですか?」
もう、屈託ない――としか言いようのない笑顔を向けて、芳倫は王にそう問いかけた。
王はただ無言で芳倫をしばし見つめていたが、ふっと小さく笑うと、
「芳倫は、いつもかわいらしくて、いいな」
「王上!」
真っすぐに届いた声は、璃音のものだった。
振り返ると、彼女が強張った表情で渡廊に立ち尽くし、こちらに目を向けている。やはり無断で出てきたのだ――目を横に流すと、王はその視線からついと逃れ、
「では、私はこれで」
王はそう言うと、二人の脇を抜けて階段を駆け上がっていった。そのまま足早に真っすぐに渡廊を進み、待っていた璃音のところで足を止めた。何事か言葉を交わしている。その間、一度も振り返ろうともしなかった。




