第六十九集「客人」
数日後。
「瑛明さま、お待ちかねのものが届きましたよ」
前室から、渋い顔をした依軒が現れた。手には大きな青い包み。
先日、本の取り寄せを頼みに出た隙を狙い、無断で部屋を出た瑛明に怒りを感じてはいるが、自分が院子散策へと誘ったのだと璃音に言われた結果、表立って文句を言うわけにはいかなくなったものの、勝手な行動を許してはいない――それを態度で示していることに苦笑しながら、瑛明は眺めていた本を閉じて、立ち上がった。
瑛明はおざなりに礼を言い、「本を読みたいから」と依軒に退出を促した。
卓上に包みを置き、もどかしくそれを解く。件の本は、一番下に置かれていた。
瑛明は立ったままそれを手に取り、ぱらぱらと捲りだす。たまたま題名が同じなだけかもしれない――、そんなかすかな、期待とも希望ともいえる思いを抱えながら。
だが。
何度も読んだし、いい布の切れ端が手に入るたびに書き写しもした。だからもう、一言一句、余すところなく覚えている。
これはやっぱり間違いなく、陶淵明の『桃花源記』だ。
他の四冊に較べて、随分と紙質がよかった。
こちらにも紙はあるが、表面はごわついていて分厚く、だいぶ茶色がかったものだった。それだって高級品だそうで、中相の蔵書の中でも、竹簡、木簡は少なくない。
でもこの『桃花源記』だけは、紙が滑らかで白く、冊子も薄い。だから、外界の書を持ち込んだのだと最初は思った。
だけど頁を繰るたび、その思いは薄れていく。冊子を閉じたときには瑛明は確信していた。
――これは、中相の手蹟だ。
読みやすく美しいが、よく言えば流れるような、悪く言えば書き流している、曲線ばかりの細い文字で、一見女性が書いたものかと見紛うのが瑛明の知る中相の字だった。
だけど手にした本を構成する文字は、「とめ」も「はらい」もきちんとしていて、筆にも強弱がある。楷書の見本かと思うような、誠実さが垣間見える丁寧な筆運びだった。だから最初は分からなかった。
ふいに、あの竹庵で、筆を執る中相の姿が浮かぶ。
撫でるようにさらさらと筆を動かして、たちまち紙面を文字で埋めていた。頭で思いつく言葉の速度を、手が懸命に追っているかのようだと思いながら眺めていた。
だけど、これはそうじゃない。紙面を見据えて、一文字一文字、丁寧に。それも、外界からわざわざ持ち込んだ紙に。
――あの人は一体、どんな思いでこの物語を見たんだろうか。
「おまえだけに」と竹庵の合鍵を渡された。
机を挟んで、様々なことを教えられた。
茶を飲み、菓子を食べて、雑談した。
俺の歌を瞑目して聴き入っていた。
いきなり現れた父親に困惑し、穏やかさのなかに見え隠れするただならぬ気配に畏怖しながらも、「この人に認められている」――そう思えるたび、嬉しくて、心が躍った。
そういう時が、確かに在ったのだ。
瑛明は開いていた『桃花源記』を閉じる。
表紙の文字は、中よりもいっそう丁寧に書かれているように見える。瑛明はそっとその題字を撫でた。「だとしても」敢えて声にする。
そうだとしても――瑛明は唇を噛んだ。
あの人が、男の俺を宮中に上げて、王上を欺いている事実がある。
そしてここに、中相が書写した外界の書がある。
『敬愛している』 突如脳裏に蘇った声。
中相のことなんて、露ほども疑っていないだろう。むしろ、中相が戻ってきたら相談してみよう――とさえ思っているかもしれない。
地下通路の侵入者が分からない今――俺が、あの人に問うべきことはあるはずだ。
そこへ叩扉の音。「瑛明さま、お客さまです」依軒の声。
――振鈴の音はしなかったのに。不審に思いつつ、瑛明は手にした『桃花源記』を、他の四冊の一番下に急いで突っ込み、手早く包み直す。
扉を開けると、依軒がさっきまでの怖い顔――ではなく、困惑の表情で見上げている。
「――どうしたの?」
思わず問うと、依軒は神妙な顔で目線で背後に促しながら、
「お客さまです。璃音さまが」
「璃音?」
璃音が来るなら別に珍しいことじゃ……。思いながら、一度居室に戻り、手早くいつもの重装備をしてから前室に行き、依軒を従えて入口へと歩いていくと、
「やあ瑛明」
そこに立っていたのは、璃音と――王だった。
「久しいな、元気にしてたか」
「王上……何で……」
言いながら璃音に目を向ける。王の前に立つ璃音は、曖昧な笑みを浮かべているだけだ。
「何でとは心外だ。ここ桃花宮は私の居宅でもある。同じ敷地にいる身内に会いに来ているだけだ」
同じ居宅って――確かに敷地は一緒だけれど、建物は別だし。そんな気軽に行き来できるものでもないだろう。
「今日は少しは暖かい。院子で茶を飲もう。依軒殿、芳倫を呼んできてくれ。璃音は亭台で茶の支度を。じゃあ瑛明、我々は少し院子散策でもしていようか」




