第六十三集「痛恨」
「王上」
声に目を向けると、璃律がこちらへ寄ってくるところだった。彼は王の傍らで素早く膝を折り、「王上、そろそろお戻りになられませんと」
「そうだな」
王が軽く頷いて見せると、璃律はすっと立ち上がり、先だって黒櫃へと歩を進めていく。
瑛明はただ、去っていく姿を目で追った。その姿が今まさに黒櫃に足を入れようとして、ふいに振り返る。
「璃音、できるだけ早く瑛明の部屋替えを」
「え」絶句する瑛明に、璃音に向けられていた視線が流れてきた。それは見慣れた柔和な眼差しではなく、幾分と険しいものだった。
「あの男が偶々、地下通路を知り、偶々この部屋にやって来たとは到底考えにくい。どこかに――糸を引いている人物がいる」
ぞっとした。
つい最近も感じたその感覚に、たちまち脳裏に、ある姿が浮かぶ。
「その人物と、その意図が分からぬ以上、地下通路に繋がる部屋に居るのは危険だ。お互いに、な」
そう言って、声の主はこちらへと向き直る。
「しばしの間のことだ。こんなことができ得る人間はそう多くはない。場合によっては通路を塞いでしまえばいい。これまでと同じ頻度とはいかないが――きっと会いに来る」
ひんやりとした指に、右手を軽く握られた。
こんな――自分よりたった一つ年上でしかない、背格好もそんなに変わらない身で、自分も動揺しているだろうにそれを押し込め、俺を励まそうとするなんて――瑛明は、空いた左手を、冷えたその指に重ねた。自分の指はもっと冷たいかもしれないと思ったけれど。
「王上」低い声は、黒櫃の奥からだった。
「分かった」
王が肩越し振り返ってそう答えた時、二人の手は自然と離れた。
もう一度目を合わせ、王は踵を返す。早足で黒櫃へと向かい、ためらいなくその中へ足を入ると、あっという間に中へと呑み込まれていった。
「瑛明さま」
見計らっていたかのように、背後から声がかけられる。
「お召し替えを」
璃音が目を流した先、鏡台の椅子に衣装が置かれ、脇の小卓に置かれた水盥からはほのかに湯気が上がっている。いつの間に――少し驚いたものの、それだけ、俺は他に何も見えていなかったということか、瑛明は思った。
「うん」
瑛明が頷くと、璃音は一礼し、衝立の位置を戻して、奥へと消えた。配慮なのだろう。
盥に浸されていた白布で、見えるところの汚れと血痕を拭い取ってから、置かれていた衣装に着替える。脱いだものと全く同じ衣裳だった。
着替え終えた頃合いを図っていたかのように、璃音が姿を現わし、手早く髪を結い上げる。
「痛むところはありませんか?」
「大丈夫、かすり傷ばっかりだよ」
どうせすぐ治るし――そんな短いやり取りを交わしながら、化粧を直していく。
鏡に映った姿は、朝の支度を終えた時と、まったく同じだった。
立ち上がって、衝立の影から出る。
部屋は、本当に元の通りだった。気品ある香が室内に満ち、卓上には先頃と同じだけの茶と菓子が置かれている。配置さえ、元のままだ。
床は僅かばかりも、濡れてはいない。
瑛明はさっきと同じように、いつもの席に座り、手元の茶に手を伸ばした。
茶碗はほんのりと温かかった。さっき飲み終えた茶は、すっかり冷え切っていたのに。
冷えた指先を伝うその温もりこそが、もう、取り返しのつかない出来事が起こってしまったという事実の証として、痛烈に瑛明の胸を抉った。
ずっとお傍に――言いながら俺は、あの方をお守りするだけの力を蓄えることさえしていなかった。中相に逆らっておきながら、綺麗な宮殿で、綺麗な衣装を身に纏って、ただ一緒に笑っている――そんな日々しか思い描いていなかったのか、俺は!
ふわっと、濃厚な香りが流れてきた。いつしか伏せていた目を上げ、瑛明は香源に目を向ける。
僅かに開いた前室の扉から、白い煙が流れ込んで来ていた。やはり僅かに開けられているだろう渡廊に続く扉から、強めの風が吹き込んだのだろう。
「璃音、どうやって扉を開けたんだろ」
実は鍵なんてかかってなかったのかも。俺、本当に慌ててたからな。
『もう少し賢いと思っていた』突如、蘇った冷笑。
唇を噛んだとたん、血の味がした。塞がった口の端の傷が開いたのだ。
そっと触れてみると、僅かな痛みが走った。




