第六十一集「所以」
「ぐえっ」頭上から、潰れた声。
襟首を掴む指が一瞬強張り、息が詰まった。
同時にびしゃっと生温いものが、頬に飛んできた。
二つの刺激に瑛明の身体が跳ねた時、襟が男の手からするりと外れた。
何――? 瑛明は、僅かに動く首を傾けて、必死に息をつきながら、背後を振り仰ぐ。その目を、怪しい閃きが掠めた。
「え……」声が漏れる。
何かが変だ、そう思う間もなく、目の先がぐらりと揺れた。僅かな迷いもなく、それは、一気に瑛明に覆いかぶさってくる。
「ちょっ――!」驚きの余り呑んだ息に、濃密な臭気が流れ込んで来た。肩口に顔を埋める男の首に、白木の柄が突き立っているのが見えた。
筆? いやこれは、俺の……。瑛明は目だけを動かして、男の横顔を見た。
生きていない。
悟ったとき、瑛明は自分でも訳が分からない奇声を上げ、投げつけるように「それ」を横に跳ねのけていた。
仰向けになり、僅かに身を起こした瑛明の目の先には、蓋の転がった黒櫃。そして。
「王上……」
その姿を目にし、声にしたら、詰まっていた気道が楽になって、身体の力が抜けた。起こしかけていた上体が、ぐらりと揺れる。
「大丈夫か?」駆け寄ってきた王が滑らかに膝をつき、背を支えた。覗き込んでくる心配げな眼差しに笑いかけようとしたが、頬が硬直して動かず、それを隠すように頷く態で俯き、取り繕うように「大丈夫です」それだけをやっと声にした。
それから、目の端をかすめる何かに、ぎこちなく目線を流す。
そこには、ただうつ伏せに、無様に手足を投げだしている一人の男がいた。こちらを向く濁った白目を見た時、瑛明の耳奥にじわりと蘇ったのは――中相の声だった。
『殺すものは殺される』
気づいたら、男に飛びかかっていた。首に突き刺さる柄に手をかけたとき、
「抜くな!」
鋭い声に、身体が固まる。振り返ると、声の主は、まっすぐにこちらを見つめ、
「もう遅い。これ以上、場を汚すな。それに――秘密路を知られたのだ。どのみち生かしてはおけない」
「……そう、ですね」
ぎこちなく歪む口元からそんな声が漏れたとき、口中に血の味がした気がした。
「とりあえず、こちらへ」
その言葉に、柄から手を放し、瑛明は立ち上がった。
傍らにはいつしか王が立っていた。そっと添えられた手に背を押されるようにして誘われたのは、衝立の向こう、鏡台の前。王は瑛明を鏡台の椅子に座らせると、「すぐ戻る」そう言いおいて、黒櫃の中に消えた。
目を瞑り、細く長く、息を吐く。
そうしたら、下から笛声が響いてきた。長音が一回、間を置いて、中音が三回。誰か――恐らくあの姉弟を呼んでいるんだろう。
膝に置いた手を握ったら痛みが走った。見れば、掌に赤い筋が数本走っている。
いつ切ったんだろう。そんなことを思いながら掌を見つめていたが、それが小刻みに震えていることに瑛明は気づいた。
なんだこのザマは。
死体を見たのなんて、初めてじゃない。男に迫られたのもだ。
たとえ嬲り殺される目に遭おうとも、ずっとお傍にいる。そう王上に申し上げ、中相に逆らってまでここに居る。
なのに何だこの有様は。俺は王上を護るどころか、むしろ……。
階段を上がってくる足音が聞こえる。
こんな状況でなければ、聞き逃しそうなひそやかな音。
そう、安寧の世の証として、品格を損なうことなく、ただ「居る」ことだけを自らに課し、日々を送っている方なのだ。虫も殺せない優しい面立ちをして、きっと人を打ったことだってないんだろう。
なのに。
黒櫃から姿を現したその人は、いつもと変わらない、柔らかい笑顔を見せた。「ひどい有様だな」
そう言われ、瑛明は慌てて傍らの鏡を覗き込む。薄い上衣には、不釣り合いな赤黒い染みが点々としていて、肩口は解けていた。下ろした髪も乱れていて、引きちぎられた髪が、所々で跳ねている。
乱れた髪の下から覗く蒼褪めた顔、やけに口元が赤いと思ったら、口の端が切れていた。
足下に目を落とせば、裙子の裾は破れていて、所々が濡れたり、黒ずんだりしている。本当に、ひどい有様だった。
この姿を見られてたのか――そう思ったら、笑いが込み上げてきた。「そうですね」
「痛むか?」
目の前に立った王が、膝上に投げ出していた瑛明の右手を取った。傷口を避けて、そっと掌をなぞる指先が冷たい。
「そうですね、少しだけ」
「こっちは?」ひんやりとした指先が、口の端に触れる。瑛明は掌に落としていた目をあげ、声の主に小さく笑いかけた。「少しだけ」
見上げていた目が僅かに細められた。
その目がにわかに改まり、ゆっくりと近づいてくる。瑛明が目を閉じると、指先が離れると同時、口の端に柔らかい感触が触れた。
「こんなことになるなら」押し殺した声。
左肩に重みを感じ、瑛明が目を開けると、自分の肩口に額をあてている王の横顔が見えた。
「志按がおまえを下がらせたいと言ったとき、許せばよかったな」
ふいに右肩に置かれた手に力が籠められた。
右肩に重みがかかり、左肩が軽くなる。上体を起こした王は、天を仰ぎ大きく息を吐くと、
「下がりたいなら、私はもう止めない」
なんてことはないという口調で、いつもの柔和な笑みを見せる。
だが、その見慣れた笑みは、瑛明の心を一気にざわつかせた。
なんだそれ。
そうやって一人で、呑み込んでしまうのか――今まで、そうやってきたように。
「じき璃音が来るから」言いながら右肩に置かれた手が離れようとするのを、瑛明は咄嗟に掴んでいた。
だけでなく、自分の方へと引き寄せた。
「私は」
驚いたように見開かれた目を、瑛明は瞬きすらせずまっすぐに見上げ、
「外界に在ったとき、この身の寄る辺なさと不甲斐なさに、何度、命を絶とうと思ったか知れません。ですが情けないことに、自分で自分の身を決することが、どうしてもできなかった。だからずっと思っていました。『誰かが手をかけてはくれないか』と」
さっと王の顔が変じるのが分かった。
「そして今日、まさにその機を得たというのに、私がやったことと言えば、必死に抵抗して、こんな姿になってまで、無様に逃げ回った。ただ『死にたくない』その一念で」
瑛明は、すっかり表情の消えた眼前に人に小さく微笑んだ。
「あなたのせいです」
どちらが先だったのか分からない。
お互いがおずおずと、相手の背に手をまわし、ゆっくりとその手に力を込める。
二人はただ無言で、お互いを抱きしめ合った。




