第六集「帰去来」
母さんの刺繍を買ってくれる客がたくさんいてくれたらいいんだ。
それなら大都市、いっそ百万もの人が住むという都の長安にでも行けばいい。きっと買い手に困らないし、高くも買ってもらえる。内外各地から流入する人たちに紛れれば、俺たちも目立たない。もしかしたら戸籍を手にする方法があるかもしれない。まともに生きていけるかもしれない――俺は何度も何度も母さんを説得した。時に泣いて、時に怒鳴って。だけど母さんは、この地を離れられないのだ頑として譲らなかった。
その地を今、離れようとしている。
母から、ここぞというときに袖を通す一番上等な女の衣装を渡され、念入りに化粧をさせられ、特に目元はいつになく丹念にするよう言われ、最終的には母が手を入れたほどだ。
全てをせかされ、瑛明は逆らえぬままここまで来た。母を説得して趙に別れの一筆を書かせる間に、庭の鶏にありったけの餌をぶちまけてから柵を開け放ち、思い立って枕元に置いていた一幅の布だけを、懐に捩じ込んだ。
疑問と感傷がないまぜになった複雑な気持ちを抱えながら舟を漕ぐ瑛明の眼下で、母は降り注ぐ春の日差しのような、晴れやかな顔をしている。
「もう漕がなくてもよいですよ」ほどなくして、母が言った。
瑛明は手を止める。やがて舟はゆっくりと停止した。
瑛明は竿を手にしたまま、上流へと目を遣る。すると向こうから、小さな桃片がゆらゆら流れて来るのが見えた。それは次第に数を増していく。最初はちらちらと、やがて一筋の筋となって、それは流れてきた。
水の色がほんのりと桃色に見えてきた頃には芳香が漂い始めた。行く手の両岸がおぼろな桃色に染まり、舟は引き込まれるように動き出していた。気づけば、峡谷の奥深くにまでにこだましていた猿声が途絶えている。
「まるで『桃花源記』だ」
瑛明の呟きを受けたように、母は言う。
「おまえは殊に『桃花源記』を好んでいましたね。やはり人は知らずとも生まれた地を求めるものなのだと思い知りました――十六年前、生まれたばかりのあなたを抱いて、私は彼の地を出たのですから」
「彼の地って――そんな馬鹿な。『桃花源記』は陶淵明の創作じゃないか」
『桃花源記』――漁師が川で漁をしていると、やがて川の両岸に桃花林が現れ、川の源で尽きた。そびえる山に穴があるのを見つけた猟師が進んでいくと、そこでは数百年前の大乱を逃れた人々が、何ら区別なく平穏に、楽しい生活を送っていた――という物語だ。
「あれは実話です。何代も前の世代に、外界の猟師が迷い込んだことがあったのです」
『外界』って――まさかこの世界のこと?
戸惑いながら瑛明は、足元でたおやかに座る母を瑛明は見る。
母は眩しそうに目を細め、桃花林を見上げている。心なしか頬は上気していて、その楽しげな表情といったら、今にも歌い出しそうだ。こんな母を今まで見たことがない。
「私がこの地に来た時も、この桃花は見事に咲いていました」
辺りの桃はどれもこれも皆満開である。どれだけ目を凝らして探しても蕾は一つとしてなく、全てが花開いている。
「あの話の中で、暇を告げた猟師に『ここのことは外の人に言うほどの話ではない』と告げた者、あの方こそが私の祖先です」
「祖先?」
「そう。きっと猟師が桃花源の話を外で言わずにはおれない、と思った彼の息子が、ひそかに猟師の後をつけて、猟師が残した印の位置を変えたのです。おかげで県令やら大勢の役人を連れて戻ってきた猟師が、二度と桃花源にたどり着くことはできなかったのです。彼と息子は桃花源を守った英雄として、称えられ、我が王朝の祖と定めています」
「のどかな農村の桃花源に、『王』?」
「ええ。桃花源の現王は私の双子の兄である陶翠波です。そしてあなたの父は、外界でいうところの宰相である中相・崔志按」
あまりにも突飛な話に、もう、言葉もない。