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きみは最果ての光  作者: 天水しあ
第八章『足音』
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第五十九集「訪い」

 そして。


「ああ、ようやく日常が帰ってまいりますね。疲れました」

 これみよがしな溜め息をついて、依軒いけんがくるりと背を向けた。おお寒……と言いながら、奥へと入っていく。一人残された瑛明は、薄く開けた前室の扉から、外の様子を眺める。


 渡廊の軒先に吊るされた紅燈を、女官たちが梯子を使って下ろしている。

 院子にわの方でも、手に様々な品を捧げ持った女官たちが、忙しげに行き交っている。その衣装も平服に戻っているが、華やいだ表情に祝賀の名残が感じられた。


 「瑛明さま」尖った声は隣室から。

 「今行く」瑛明は扉を閉じて、踵を返した。 


 前室を通って居室に入ると、卓上には、茶の支度がされている。中央に山と積まれているのは、今朝方、芳倫から差し入れられた、地味な色合いの甘い菓子である。


「明日からさっそく習い事が始まりますからね。お支度は大丈夫でしょうか」

 年が明けて今日まで、こうやって何度か差し入れを送ってきたものの、芳倫は一度も訪ねてこなかった。てっきり色々理由をつけて、やってくると思ってたのに――忙しかったのか、それとも色々気を遣ってくれたのか。

 明日を思うと「また賑やかになる」と疲労感を覚える一方で、少し心が浮き立っているのも分かる。


 どうやらいつの間にか、あの小姐おじょうさまがいることも、俺の日常になっていたらしい。


 懸念していたような血で血を洗う権力闘争にならなくてよかったけれど、今にして思うと、もっと距離のある付き合いの方がよかったのかもしれないな――。



「明日の授業は作詩だったよね」


 用意された茶碗を空けたところで、瑛明は傍らに控える依軒に目を向ける。

「さようです」

「新年一番からあの老師かあ。たるんだこと言ったら、もう新年は終わってると叱責されそうだよな。ちょっと準備しておかないと――昼寝の時間まで一刻くらいか。ちょっと一人にしてもらえる?」


 あくまで笑顔でいる瑛明から視線を外さず、依軒はしばし無言である。何を企んでいるのか――って目だよな。さすがに鋭い。


「そうですか。まあ明日からは嫌でも賑やかになることですし、一人静かにお過ごしになるお時間も必要ですわね。私がおりましては、作詩の妨げになるようですし」

 あからさまな嫌味は、気づかなかったこととする。

 そして、「ああそうだ」思いついたとばかりに瑛明は声を上げると、

「この菓子、味見用の一つだけ残して、後は持って行ってよ。あとは小姐へのお礼の品もよろしく。まあそんなこと俺が言わなくなって、いつも完璧にやってくれてるよね」

「それが私の務めですから」

 そっけない口調ではあるが、まんざらでもなく思っているのは、やや高めの声で分かった。裏付けるように、卓上の菓子を一つ残し、実に見事に、手早く包み始める。


「いいですか、あまり根を詰めず、きちんとお昼寝もなさってくださいね」

 依軒はあれこれ並べ立ててから、ようやく前室への扉を開けた。

 ふくよかな背中が、彼女の自室へと消えるのを見届けたところで瑛明は素早く居間に戻り、中から鍵をかけた。そこでやっと「はあ」深く息を吐く。


 自分で選んだとはいえ、ここでずっと依軒と二人きりで篭らなければならなかったのは、結構、骨が折れた。

 些事――だとは思ったものの、それでも、常に怨念の視線やらこれ見よがしなため息を浴び続けていると、心身の奥底に重いものが溜まる。弱い毒にじわじわと蝕まれていく感覚。


 この何倍も強く、多くの負の感情を向けられているんだぞ。権勢者――つまり中相は、そう言い聞かせてはなんとか受け流せたけれど、さすがに今日は。


 日常が帰ってきたということは、「その日」が間もなくということだ。


 席に戻る。そこでもう一度、大きく息を吐いた。

 そうして振り返る。目線の先には、衝立がある。その向こうには、黒櫃。

 もしかしたら「今日」かもしれない。そう思ったら、せめて今だけは一人静かな時間が欲しい、そう切実に思ってしまった。


 あれから――中相からは何の音沙汰もない。


 だからこそ怖い。あの人は今、いったいどこで、何を考えているのか。


 トン。

 控えめな音が背後で響いた。


 振り返る。音は、つい今しがた見ていた部屋の隅から聞こえた気がしたけれど。気にしすぎて幻聴が聞こえたのかもしれない――それくらいにささやかな音だった。


 ドン。今度は幾分確かな音。


 まさか――瑛明は立ち上がって、大股で音源と思しき場所に向かう。立ち止まったのは、衝立の奥、黒櫃の前。


 ドンドンっ!

 瑛明の足音を聞きつけたからか、素早い連打には力が込められた。


 たちまち踊り出す胸を押さえつつ、「お待ちください、すぐに開けます」瑛明は慌ててしゃがみこみ、もどかしく胸元に手を入れ、小袋を引っ張り出した。


 瑛明が蓋を開けると同時に、底板が上がる。


 最近は底板に鍵をかけるのをやめていた。お会いするのが怖いと、思っていたはずなのに――知らず口元が上がっていた。だが。


「王……」

 上げかけた声は、喉で止まった。


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