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きみは最果ての光  作者: 天水しあ
第七章『背反』
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第五十五集「本意」

「王上、とりあえず中へ」


 瑛明は右手首を硬く掴んでいる手に、空いた左手をそっと重ねた。ふと目を落とすと、置いた指の下、血の気のひいた手の甲に幾筋もの朱が走っているのが見える。


「王上、この手は……」

 目を上げると、咄嗟に横を向いた頬が僅かながら黒い。「転ばれたんですね。どこか痛むところは」

「そんなことはどうでもいい!」声と同様、荒々しく伸ばした手を払われた。


「一時の里帰り? 初めての新年は家族で? そんな話に私が騙されるとでも思ったのか。だとしたらまた随分、みくびられたものだな。――おまえが志按を呼びつけたと聞き、おかしいとは思っていた。まさかそんなことを画策していたとは……」


 何でと思ったのは、一瞬。

 璃音はあくまで王上の侍女。気を利かせたふうで席を立ったからと言って、何もかも見逃しているわけではない。そういうことか。


 でも――このご様子、それ以上のことは聞いていないようだ。

 そこらへんは中相も、色々見越したうえでの発言だったってことだな。


「――何がおかしい?」

 投げつけられた低い声に、瑛明は自分が笑っていることを知った。目を伏せたまま、今度ははっきりと口元に笑みを刻み、


「自分の不明さが」


 「……そうか」それはささやかな声だった。

  眼前の人は、薄い笑みを浮かべていた。

「私も人のことは――言えないな。おまえが『逃げたい』と思っていたなんて、露ほども知らずに私は……」

 咄嗟に腕を掴んでいた。指先越しに伝わる動き――やはり王は身を返そうとしている。


 確信した瑛明は、今度は両手でその腕を掴むと、迫るように身を寄せ、

「お待ちください。王上を騙すとか画策とか――まして『逃げたい』だなんて、そんなことは、私の本意ではありません」


「では、おまえの言う『本意』とは?」


 冷やかな声に反し、上向いた目は揺れていた。瑛明はその目をまっすぐに見返し、

「お話しします。でも先に、怪我の手当てを、どうか」

 王は、しばらくはうなだれたように足元に広がる闇に目を落としていたが、「分かった」小さく頷く。まるで叱られた子どものようだった。


「ではどうぞ中へ」

 「うん」おずおずと頷いて、瑛明に手を取られたまま、ゆっくりと足を上げて長櫃を跨ぐ。その、妙にたどたどしい動きに――本当に、子どもみたいだ、思わず綻んでしまった口元を隠そうと、慌ててうつむいた瑛明の耳が、迫ってくる音を捉えた。

 誰かが廊下を走ってる。何かあったのか? 思った直後、


 バンッと派手に扉の開く音。「瑛明さま!」


 「は!?」慌てて振り返った。まっすぐ向かってきた足元は前室に続く扉で止まる。


「いるんでしょ、瑛明さま!」


 「あの小姐おじょうさまは! あれほど言ったのに……」思わず舌打ち。


「王上、すぐに戻りますのでしばしお待ちを」

 早口にそう言うと、握り続けていた手を放し、瑛明はすぐさま踵を返した。

 瑛明が居室から前室に出たとき、芳倫がまさに居室への扉を開けようとしたところだった。


「瑛明さまっ!」

 体当たりか! という勢いで、芳倫が懐に飛び込んで来た。


 予想外のことに思わずよろめいたが、「これ以上進ませるわけにはいかない!」瑛明は慌てて芳倫の両肩を掴み、「痛い」という小さな悲鳴に気づかぬよう芳倫を押し戻した。素早く扉を閉め、その前に立ちふさがる。

「芳倫さま、お風邪を召されたと伺っておりましたが、お身体は――」


「宮中を下がるって、どういうことです!」

 瑛明の言葉を遮る芳倫の声には、まっすぐに向けられる目と同様、怒りが滲んでいる。

 中相に押され気味とはいえさすがは左相。情報が早い。というか、これも中相が自分で広めているのかも――思いながら、瑛明はそっと目を伏せ、

「ご存知の通り、私は先頃母を亡くした身です。新年の祝賀で賑わう宮中にこの身を置き、水を差しては……。父もこちらでの初めての新年は家族でと申しておりますので」


 自分でも感心するくらい神妙な声が出て、滑らかに言葉が紡がれた。そういや外界では『こんな感じ』だった。そんなことを思い出す。


「新年だけ、ということ」

「ええ」今度はおずおずという様子で見上げてくる目に、笑顔で頷いてみせる。

「じゃあ、私もそうするわ」

 突然の宣言に、「え!?」思わず声が低くなった。 


「だって貴女だけ不在の時期があったら、私が王后の座を勝ち取っても抜け駆けみたいじゃない。そんなの私の気持ちが許さないわ」

 何だその理屈――という心の声をどう言葉にしようかと逡巡していた瑛明に、芳倫は、

「それに――言ったじゃない。私たちは、ずっと一緒だって」


 ガタン! 音は隣室からだった。


 「何、今の音」芳倫が目の前に立つ瑛明を避けるように身体を傾け、隣室に目をやる。

「きっと物が落ちたんです。今、部屋を片付けているところだったんです。そんなことより芳倫さま、やはり熱があるようです。どうせ無断で出てきたのでしょう? みなが心配しますから、急ぎお戻りを」

 言うなり芳倫の両肩に手を置き、「え、ちょっと!」という芳倫の抗議と戸惑いの声には耳を貸さず、強引に体を反転させて、そのまま廊下に押し出した。


 そして「何事か」と、前室に続く自室から出てきた依軒に、

「芳倫さまをお部屋へ。まだ熱があるようだから、途中で何かあったら大変だから」

 瑛明と芳倫のやりとりを聞いていたわけではなかろうが、そこは古参の侍女、一目で事態を理解したようだ。


「では芳倫さま」

 依軒はうやうやしく一礼すると芳倫の背に手を回し「あら、やはりまだお熱が。無理はいけません」などと言いながら、半ば強引に歩を進めさせる。「ちょっと……」抗議の声を上げ背後を振り返ろうとする芳倫を、押さえつけるよう歩を進ませた。さすがだ。


 二人が角を曲がったところで瑛明は部屋に入った。

 頑なに閉じていた扉を開けると、思った通り部屋の片隅には長櫃の蓋が転がっていて、在るはずの姿はそこになかった。


 瑛明は天を仰ぐ。


 ゆっくり、大きく息を吐いた。胸に蟠る何もかもを吐き出すように。

 瑛明は鏡台の傍らにおかれた銅製の燭台に手を伸ばす。鳥を模したそれの細い足を握り、刺された蝋燭に火鉢の火を移した。


「まったく、あの人は!」吐き捨てるように呟き、地下道に続く階段に足をかけた。

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