第五十四集「止水」
自室の居間。瑛明は本を手にはしていたが、少しも読んでいない。
あれから数日が経った――あの日、中相と何を話したのか覚えてない。ただ心の内を気取られてはならない、その一心で話し、笑い、頷いた。
「どうぞ」
依軒が傍らにお茶を置く。機嫌がいいのは、中相から帰り際に言われたのだろう。年末には呼び返すと。
崔家では宮中から来た重鎮扱いだったが、こちらでは娘くらいの璃音に格下扱いされての籠の鳥、面白くないに違いない。長く一緒に居て親しんだからか、それが普段の言動にも現れるようになってきた。正直、めんどくさい。
熱い茶を口にして、ほうっと息をつく。
「ありがとう、しばらく本を読んでるから依軒も休んでて」
「かしこまりました」
いつもなら「そうですね、私がいたらお邪魔でしょうから」くらい言うところだが、中相効果は凄い。
そういう俺も、それに影響されていたということだ。
思えば、俺は桃花源に来てから何にも考えてなかった。
外界では、毎日めまぐるしく考えていた。
日々の暮らしが危うい時はその日の宿を、食料を、どうやって金を稼ぎ出すか。とりあえずの生活が成り立っても、いつまで続けられるか、この後はどうするか、もっと稼ぐにはどうしたらいいか。目に入るあらゆるものは「あれで何かを作って売れないか」「もっと改良して高く売れないか」そういう目で見ていた。
どうしたら落ち着いた生活ができるのか、どうしたら盗賊にならなくていいのか――答えがあるものもないものも、とにかく毎日、時に絶望感から喚きたくなりながらも、ひたすら考え続けてきた。
なのに。
夢物語だと思っていた桃源郷が現実にあって、これまでの生活には存在していなかった父親が現れた。その日暮らしで無戸籍の身が、突如良家の子女になって溢れるものを与えられながら敬して遠ざけられる中で、いきなり母さんがいなくなった。そうして宮中に呼ばれて――。ここに来て九か月余り、驚きと、悲しみと、喜びと――とにかく毎日が目まぐるしかった。
王宮に上がらないと幼い弟妹の命が危ういと。崔家存亡がかかっていると。そう追われるようにして、この「今」だ。
だけど――それが何だっていうんだ?
それがあの方を騙していい理由になるとでも?
卓上には茶碗が置かれている。琥珀色の液が、碗の半ばほどまで残っていた。
外界にいた頃は、茶なんて滅多に口にできない高級品だった。この琥珀色を目にするたびに心が躍った。こんな美味い飲み物があるなんてと感激さえした。
なのに今は。
衣食住に困らなくなって、いっそう稼ぐにはどうしたらいいかを考えなくなった。
盗賊にならないだろうことが分かって、今を嘆くことも未来を思い悩むこともなくなった。
そうして俺は、考えることを放棄したのだ。
『私たちは、この世でただ二人、同じ気持ちを持って生きていると、ずっとそう思い続けていた』
『こうなる』かもしれないって、少し考えれば分かることだったのに――。
ダンっ!
突然、下から突き上げるような大きな音。
いままさに卓上を叩こうと、振り上げた拳が行き場をなくした。
あれ? 俺まだ叩いてない、よな?
それでなくても一人きりの静かな室内、すぐには事態が呑み込めなかった。「何?」口ごもりながら瑛明は、本を手にしたまま立ち上がった。
音は部屋の角、衝立の向こうからだったと思う。そろそろと、そちらへ足を向ける。ちらりと浮かんだ考えは、「まさか」とすぐに打ち消した。だが。
「瑛明」
衝立越しから聞こえたのは、いつもよりは低い、けれど耳慣れた声だった。
「王上。何で……」
たまたまここには一人でいたけど、そうじゃない確率の方がよっぽど高い。
そんなこと分からないはずないのに。何だってこんな。
瑛明は長櫃の前に立ち、茫然と見下ろした。突如跳ね上がった心音は、今なお激しい。
だけどどこかで、「やっぱり」と納得する自分もいることを、瑛明は感じていた。
「開けろ」低い声に潜む感情も、正しく理解した。
瑛明は天を仰ぎ、瞑目して大きく息を吸った。ゆっくり吐き出して、おもむろに長櫃にしゃがみ込むと、「分かりました」
首にかけた鍵をもどかしく引き出しながら、「お待たせしてすみません、すぐに――」急ぎ鍵を開け、蓋を外し、底板の鍵を外した――とたんに、今まさに蹴破ろうとしたかのように、勢いよく底板が跳ね上げられた。
闇奥から突如伸びてきた手が、瑛明の右手を掴む。その勢いのまま引っぱられ、緩んだ指から鍵が零れた。硬質の音を立てながら鍵は階段を跳ねていき、やがて一瞬のきらめきを放って、闇に消える。
「どういうことだ?」聞いたことのないような、腹の底から響く声。
手首を掴む指は、声が漏れてしまいそうなくらいに強く食い込んでいて、向けられる眼差しには、隠しようのない怒りが揺れている。その激情は思わず息を呑んでしまうほどで――だが反するように、絶え間なく波打っていた瑛明の心は、すうっと静まっていった。
まるで鏡面のように静まった心の底から込み上げてきたのは、ただ一つ。
もう――戻れない。




