第五十二集「罪と罰」
手にした茶碗を卓上に置いた王が、ふと尋ねてきた。
「母上は、どのような方だったんだ?」
「母……ですか……」
虚空を仰ぐ。
ほんの半年前まで、ずっと一緒にいた姿なのに、思い浮かぶのは何故か霧の向こうに立っているかのように朧気だ。
しかも大半を過ごした外界での空虚な姿ではなく、中相と一緒にいる時の――。
「父を、ずっと愛していました」
そんな言葉が口をついたことに瑛明自身が驚いた。
何言ってるんだ俺、そもそも答えになってないじゃないか。王上もきっと困惑して――恐る恐る目を向ける。だが、
「そうか」王は、茶碗を手にとった。「ではその子も、愛されていたのだな」そう言うと、目の高さにそれをかざして小さく笑うと、冷え切っただろう茶に口を付けた。
――愛?
最初に言い出したのは自分なのに、その言葉に射抜かれたかのように硬直する。
だめだ――それ以上は、考えちゃいけない。
息苦しさを感じて、瑛明は自分が呼吸が止めていることに気づいた。慌てて息を吸い、
「王上のお母様は、どんな方だったんですか?」
努めて明るい声で聞いたものの、たちまち背筋が凍りついた。しまった、王上を産んですぐお亡くなりになったんだから、答えようがないじゃないか!
いくらなんでもこれは――どう取り繕えばいいかも分からなかった。
「そうだな」声に目を上げる。目が合うと対面の王は、にっこりと笑いかけてきた。
「母后は、誰とでも隔てなく接し、いつも笑顔で、その朗らかな笑い声は全ての人を魅了した。居るだけで周囲を和ませる方だったと父は言っていた。まあ惚気が大いに入った話なのだろうけれど」
「そう、なんですね……」
王が普通に返答してくれたことにほっとしたのも束の間。
母さんとは、正反対だな――苦い笑みが込み上げてきた。
母さんは孤高の、美しい人だった。
まさに珠玉、それを得るためにどれだけの人間が躍起になっていたことか。
だけど、そんな母さんが最期まで、得たいと願い続けていたのは――瑛明は卓上の小箱に目を注いだ。
「それと、歌が好きだったと父は言っていた。決して巧いわけではなかったが、歌声が愛らしくて、よく歌ってくれとせがんでいたと」
似たようなことを言われたな――中相に。
それってつまり、『あれ』は、俺に向けられた言葉ではなく……。
自分の足元が突然緩んだような心もとなさを瑛明は感じた。
「王上、そろそろ」
「ああ、もうそんな時間か」
いつの間にか近づいていた璃音に促され、王は立ち上がった。瑛明も立ち上がり、長櫃に向かう王の後を追う。璃音はいつも通りその場にとどまり、衝立の向こうで卓上の片づけをしていた。
「どうぞお気を付けて」
そう声をかけると、階段へと降り立った王がこちらへと向き直る。膝をついた瑛明と同じくらいの目の高さだった。瑛明は、火を入れた燈籠を差し出す。
「ありがとう」王はいつものようにそれを受け取り、何故かそれを足元に置いた。
何――? 思ったら、さっきまで燈籠を持っていた右手を引き寄せられる。
そのまま両腕が伸びてきて、抱きしめられた。回された腕からはしっとりとした熱が伝わり、寄せられた頬からは甘い香りがした。
背中を抱く手に少しだけ力が込められる。耳慣れたいつもの言葉が、耳元で響いた。
「ではまた、瑛明」
卓上を片付け終えた璃音がこちらに向かってくる足音が聞こえてきて、そっと身体が解放された。
主従が長櫃の中に消えるのを確認して、鍵をかける。その後、部屋の窓を開けて空気を入れ替える――それが常の流れだった。
だが瑛明は、長櫃を閉めると、そのまま部屋を出て、渡廊へと出た。外はまだ薄暗く、そして痛みを感じる寒さだった。だけど構わず足早に渡廊を進み、階段を下って院子に下りた。
朧な足元だけを見て、瑛明は院子の道を、ひたすらに歩く。そうして築山の前に立つと、影が色濃く落ちて一層足元が怪しい石段を上り始めた。
途中何度か躓いて手をついてしまったが、黙々と上った。
亭台に上がると、東の空がほんのりと白んでいるのが見えた。瑛明は東に向いた椅子に座る。石の椅子は、しっとりと湿っている。
瑛明は、いま思い出したとばかり、ゆっくりと呼吸をした。吐いた息が、白く伸びる。
そこへ風が吹きつけ、ざわっと草木が鳴る。ぞわっとする寒さが押し寄せ、思わず我が身を抱きしめた時――『じゃあ、また』蘇った声に、鎮まったはずの熱が身体の奥から込み上げる。
本当はあのとき、あの背に手を回して、抱き返したかった。だけど。
『そんなことが許されるとでも?』
冷ややかな声が、それを止めた。回しかけていた手は、虚しく宙を泳ぐしかなかった。
あの柔らかい目も、滑らかで美しい指も、凛とした声も、あの熱も――本来、俺が受け取るべきものじゃない。
仕方なかった――なんて言えない。
女装姿で、王の前に立つと最終的に決めたのは、自分なんだ。
いつしか目に映るのが硬質な石であることに気づいて、瑛明は目を上げる。ぼんやりと白かった正面の空が、いつの間にか明るさを増していた。
ただ目に映していただけの空の、白く淡い光が、にわかにぼやける。
本当は、僅かの時でも離れたくない。
王宮を出るなんて、考えただけで恐ろしい。一目も会えないまま何年も学校に通って、それで王に重用されるような人物に成りえるかも分からないのに。二度と言葉を交わすことがないまま終わってしまうかもしれないのに。
だけどそう思うのは、俺の勝手でしかない。俺は最初から、何もかも知ったうえで、あの方を好きになってしまった。でも、あの方はそうじゃない。そうじゃないんだ。
俺こそが、あの方を騙して、裏切ってる。
俺は――何てことをしてしまったんだろう。




